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【サイード~幸福になる為に~】 圭 琴子
――ダダダダダッ……パンッパンッ。
石造りの建物が焼け落ちる戦場に、地鳴りのようなオートライフルの音が響いている。戦局は、掃討戦に入っていた。
少年兵が多いな……。ぽっかりとつぶらな瞳を開けたまま、あちこちに転がる遺体を、痛ましい気持ちで見ながら進む。
自爆テロで妻と小さな娘を失った僕は、医師を辞めて軍に入った。半ば、自暴自棄だった。
でも憎むべきテロ組織と言えども、男の子をさらって小さな頃から洗脳し、少年兵に仕立て上げるやり口には吐き気がする。そんな子供たちは、一人でも多く助けたい。
そう思いながら、僕はオートライフルを構えて建物の内部を探る。
――カタッ。
先の部屋から、瓦礫が崩れる、微かな音がした。
『誰かいるのか? 悪いようにはしない、投降しろ!』
何回言ったかはもう覚えていない、異国の言葉。だけど洗脳された少年兵たちは、捕虜になるのを潔しとせず、追い詰められると自害する事が多かった。最悪の場合だと、自爆したケースもある。
だから、この呼びかけは、僕たちも命懸けだった。
『来るな!』
声変わりしたばかりみたいな、ハスキーな声が返ってくる。やっぱり、少年兵だ。
『早まるな! 君を助けたい。助けさせてくれ』
オートライフルを構えたまま先の部屋に踏み入ると、薄汚れたTシャツを着た少年が、アルコールの瓶を持ってこちらを睨み付けていた。
ブラウンの巻き毛に瞳。浅黒い肌。小さな身体。こんなにも細い腕で、何人を殺してきたんだろう。その事実に直面する度に、僕は目頭が熱くなる思いをする。
足元には、無造作にピストルと空の薬きょうが転がっていた。弾切れなのは、不幸中の幸いだろう。
そう思ったのも束の間、聞き慣れすぎた言葉が発された。
『神よ!』
少年は手にしていたアルコールを頭から被った。
「やめろ!」
思わず母国語で叫ぶ。
右手は握り締められていたから、気付かなかった。小さな拳から現れたのは、ライター。少年は、あっという間に火だるまになっていた。
こめかみを撃ち抜くより、それは遥かに苦しいだろう。ぎぃああ。悲鳴が上がる。
「転がれ!!」
僕はライフルを捨てて少年に取り付き、小さな身体を倒して強制的に転がす。
十秒ほど燃えていたけど、アルコールはガソリンほど燃焼しない。
火が消えて地面に転がった少年は、俯せになって、泣いていた。それは、火傷による生理的な涙か、悔しくて泣いているのか、悲しくて泣いているのか、分からなかった。
僕は戦意喪失した少年を抱き締めて、ただ呟いた。
『大丈夫。もう、大丈夫』
やがて片手にライフル、片手に嗚咽する少年を抱きかかえて、僕は前線基地への帰路を辿った。
片手に収まってしまうほど、少年の身体は痩せっぽちで小さかった。細い腕が、僕の首に縋り付いている。
左半身にだけアルコールがかかったようで、顔の左側が火傷になっていた。
これは……少し痕が残るかもしれない。医師としての見解でそう思いながら、ぽつりぽつりと会話した。
『名前は?』
『……ビストイェク』
『ビストイェク(21)? それは、本当の名前じゃないだろう?』
『ビストイェク』
『そうか……幾つだ?』
『十四』
『もう、何も心配しなくていい。殺す事も、殺される事もない。子供らしく暮らせるんだ』
少年の腕に、きゅっと力が加わった。
『……アンタは?』
『え?』
『アンタの名前は?』
『ああ……ノア・メイソンだよ。ノアって呼んでくれ』
『……ノア』
『ん?』
『ノア』
『なんだい?』
『ノア』
『はは。呪文みたいだな。そうだよ、そうやって気軽に呼んでくれ。僕は君の、友だちだ』
『ノア……』
* * *
「ノア!」
あれから、六年が経った。痩せっぽちで小さかったジョンは、逞しく成長し、身長はほぼ僕と変わらなくなっていた。
『ビストイェク(21)』という名前は、戦士としての洗脳を解くのに障害になると判断され、彼には『ジョン・スミス』という仮の名前が与えられた。
前線基地に帰ってすぐにジョンの火傷を治療したけど、やっぱり僕の見立ては正しくて、左頬に少し痕が残った。
でも駆け寄ってくるその笑顔は、少年兵だった頃には見られなかったもので、とても美しいと思う。
「ノア、包帯持ってきた。まだ要るか?」
六年の間で、ジョンはすっかり英語を身につけていた。
「いや、これだけあれば足りるだろう。ありがとう、ジョン」
六年間ずっと変わらない『ご褒美』として、ブラウンの巻き毛にポンポンと掌を乗せる。ジョンは、嬉しそうに大きな瞳を細めた。
僕はあのあと、兵士から戦場医師に鞍替えし、ジョンはそれを手伝うようになっていた。政府支給の、揃いの迷彩パンツにTシャツで、傷病兵の世話をする。
もう『ご褒美』の要る年齢ではないと分かってはいるものの、笑顔が見たくて甘やかしてしまう。幼い頃から死地に立っていた事を思うと、いくら甘やかしても足りない気がして。
「ああ、ジョン。一区切りついたら、アカシアの木のある丘に行こう。話がある」
「ん? 何の話だ?」
「その時に話す」
「ん……うん」
その時、前線で撃たれた兵士が運ばれてきた。腹に弾が残っていて、緊急の手術が必要だった。
「ジョン! 脱脂綿を両手いっぱいに持ってきてくれ!」
「OK!」
前線では、慢性的に医療器具も薬も足りない。結局、日が暮れるまでに何とか手術を終えて、後始末が終わる頃には、もう暗くなっていた。
「ジョン、遅くまで悪かったな。丘に行こう」
医療テントを抜け出して、星の瞬く夜道を行く。人工的な灯りはなかったけれど、月明かりと星明かりで充分だった。
丘をひとつ越えて、アカシアの木の下に、腰かける。先に腰かけた僕の背に背をつけて、ジョンは背中合わせに座った。
「ジョン。いや……サイード。誕生日おめでとう。こんな戦場じゃ気の利いたプレゼントは用意出来なかったけど、これがプレゼントだ」
背中合わせに座ったまま、目を合わせずに小箱を後ろ手に滑らせる。
「サイード?」
「君の本当の名だ。君は、ドッグタグをつけていた。アラビア語で、『ビストイェク』と書いてある。それと、生年月日や本当の名前も。君の本当の名前は『サイード』だ。君はアラビア語が読めなくて、あの時に伝えるにはあまりに辛い真実だと思われたから、伏せられたけどね。今日、君は二十歳の誕生日を迎える。だから、新しい方が、僕から君へのプレゼントだ」
小箱には、ふたつのドッグタグが入っていた。ひとつは、焼けてすすけたアラビア語表記のもの。もうひとつは、シルバーにピカピカと星明かりを反射する英語表記のもの。
新しい方には、『サイード・メイソン』と刻印されていた。
ドッグタグの金具が、しゃらりと小さく音を立てたあと、しばらく沈黙が落ちた。と思ったら、ジョン……いや、サイードが、静かに熱のこもった声で呟き出した。
「俺……ノアの、さらさらしたシルバーグレイの髪が好きだ。フォレストグリーンの目の色も。肌の色だって俺と違って白くて綺麗だし……俺、俺も、アンタが好きだよ」
その突然の告白に、僕は小さく噴き出した。それは、まるで。
「なんだい、いきなり。口説かれてるような気分になるよ」
「口説いてきたのは、ノアだろ? ここに、『サイード・メイソン』って書いてある」
「ああ。君とは、家族も同然だからね」
「結婚しようって事だろ?」
「え?」
その発想はなかった。第一僕は宗教上、同性愛は禁じられている。だけど何だか火照る頬を人差し指でかきながら、言い訳がましく早口で否定した。
「それは違う、サイード。君の宗教だって、同性愛を禁じているだろう?」
「俺の神は、『他人の家を暴いてはいけない』と言っている。だから、こっそりならいいんだ。誰も、俺たちの仲を暴く事は出来ない。禁じているのは、『婚前交渉』だ。だから、ノアが結婚の承諾をしてくれたら、俺は今すぐアンタを抱きたい」
「抱っ……」
僕は、言葉を失った。小さくて痩せっぽちで、幼かった筈の『ビストイェク』は、いつの間にか逞しい『サイード』に育っていた。
背にグッと体重がかかって、視線は合わないまま手を握られる。
同性愛は、禁止……。僕の中で、警鐘が鳴っている。夜のしじまにうるさいほどのそれは、気付くと僕自身の鼓動の音だった。
「結婚してくれ。ノア。じゃないと俺は、サイードにはなれない。ジョンのままだ」
『サイード』には、『幸福』という意味がある。何も贈るものなどなかったけれど、『幸福』という名前を贈って君に本当に幸せになって貰うのが、最大の贈りものだと考えていた。
それが、こんな成り行きになるなんて。
「それに、この黄色いアカシアの花言葉は、『秘密の恋』だって聞いた。みんな、この木の下で、愛し合うんだって」
医療テントから近からず遠からず、確かにそこは、身も心も傷付いた兵士たちが、束の間の安息を求めて身体を重ねる場所になっていた。
まさか、子供だとばかり思っていたサイードに、そんな事を吹き込んだ奴が居たなんて! 少しの怒りと、急激な恥ずかしさが襲ってくる。じゃあサイードは、そのつもりで……?
「ノア。返事をくれよ」
背にかかっていた体重が消え、後ろからきつく抱き締められる。
「だっ、駄目だ……同性愛は、禁止……」
「アンタの神は、了見が狭いな。禁止とかじゃなくって、アンタの返事を聞かせてくれよ」
自信満々にも聞こえる台詞だけど、緊張か恐れか、その声は微かに震えていた。
嗚呼。神様……! 愚かな僕に、お慈悲を……!
「愛してる。ノア」
「……く、も……」
「ん? 聞こえない、ノア」
「僕もだ、サイード……」
途端、まばゆい満点の星空が、眼前に降ってきた。僕は君に組み敷かれて、唇が触れ合う。
熱い、熱い唇。そっと触れ合うだけの口付けのあと、柔らかく下唇を吸われる。リップノイズが、やけに大きく聞こえて、体温が上がった。
「俺……幸せだよ、ノア」
感極まったような声音は、やっぱり震えている。
「ああ……君は、幸福になっていいんだ。『サイード』の名前に祝福された、神の子なのだから」
「呼んでくれよ」
やっぱり熱い掌が、Tシャツの裾から入ってきて胸板を彷徨う。
「あッ……サイードっ」
「もっと」
「ん・あ……サイード、サイー・ドっ」
「ノア」
熱に浮かされて、ぼんやりと霞む満月と、揺れる黄色いアカシアの花を見詰めていた。
そこへ、サイードの顔がカットインしてくる。遠くに合っていたピントが急速にそこに合うと、褐色の肌はしとどに泣き濡れていた。
反射的に医師としての無意識が働き、指を伸ばしてその涙を拭う。
「サイード……ん、何処か……痛いのか?」
「何処も痛くない。強いてあげれば、ここ、だな」
伸ばした手を握り取られて、心臓の辺りに当てられる。
君の鼓動も、ひどく速いな。サイード。
「愛してる。サイード」
涙を溢れさせながら、サイードが、くしゃっと笑った。
「ああ。俺も。ノア」
サイード。君を、幸福にしてあげたい。それが僕の幸福でもあるのだと、逞しい肩越しに揺れる満月に、そっと祈って願いをかけた。
End.
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