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【神のいない世界で祈りを】運営

肌を突き刺すような乾季の陽光が窓から差し込んでいる。 ハバシュはカーテンをかけ忘れたのだろうか? あいつ、いつも暗い部屋は怖いといって俺にくっついて寝てるからな。 こんなに明るいのに不思議と暑くない。身体が重くて、深い豊かな水の中に沈んでゆく様だ。 再び心地よいまどろみの中に戻ろうとしたセイフの身体が突然揺すられた。 錆びついたように動かない瞼をどうにか開くとぼんやりとハバシュの顔が見えた。 おかしい、あいつはまだ10歳のはずなのに、今俺を心配そうにのぞき込んでいるのは俺と同じ年位の…これは夢か? 「セイフ!聞こえるか!?頑張れ!」 ああ、声もすっかり男の声になって。 どうしてだろう俺はこの声をよく知っている。 また、泣いているのか? 泣くな、俺以外にその美しい涙を見せるんじゃない。 頬を濡らす水滴を拭おうと手を伸ばすのに、お前の顔がやけに遠い。 遠くアザーンが流れている。いや、これはずっと昔、毎日のように聞こえていた爆発音か。それに続く大気の振動に備えてぐっと目を瞑って身構える。 大人になったハバシュの声が轟音をかき消すように繰り返す。 「まだいくな!俺を置いていくな!」 眩しい、カーテンを閉めてくれハバシュ。 **** 高く、低く、伸びやかに響く祈りの声が、砂つぶと一緒に乾いた大地の上を流れて行く。 夜が怖いと言って泣いていたハバシュも、いつの間にか一人前の顔をして家具修理工房に手伝いに行くようになっていた。 俺はといえば、対価の殆どが物々交換となっている鉄材加工(アイロンワーク)の仕事が、それなりに様になってきている。 あの日、キャンプに戻る途中どこかの村で置いて行こうと思った少年は、ピックアップトラックの荷台で俺の手を握りしめながら床を凝視していた。 「お前、名前は?年はいくつだ?」 村でただ一人の生き残りとなった少年は、俺の質問に顔を上げてはっきりと答えた。 「ハバシュ、10歳。あんたは、誰?」 「セイフ」 まだ幼いけれど、意志の強い気高い顔だ。光はじく艶やかな浅黒い肌、柔らかくうねる漆黒の髪、痩せているけれどがっしりとした骨格。 彼の部族の特徴が色濃く出たその容姿に、俺は見惚れていた。 途中の村々で子供を失った家族を訪ねたが、10歳を過ぎた彼を喜んで受け入れてくれそうな家はなくハバシュは、俺と暮らすことになった。 闇を怖がり、大きな物音に震え出す彼を置いて家を空けることなどできず、それまで所属していた自警団を辞めた。 その日から、狭いベッドで夜通し細い手脚を絡みつけてくるハバシュの震える身体を抱きしめて眠りにつくようになったのだった。 **** 新月の今日、満天の星が地上を薄明るく照らしている。 こんな夜は砂丘に毛布を敷いて空を眺めるのが好きだ。 (ああ、思い出した。あの日も新月だったのだ。) 当時、セイフが所属していた自警団は正義の名の下にあちこちで活発な活動を行なっていた。 ある日そこに、とある私兵団が村を襲撃するという情報が入った。 かつて自警団のメンバーを誘拐し、見せしめに両足首を切って砂漠の真ん中に3日間放置して殺したこの私兵団に恨みを募らすメンバーは多かった。 俺たちの任務は、村人を守ることではなく、敵の殲滅(せんめつ)。 二三人のグループになって家を一軒一軒しらみつぶしに見てゆく。 村人を盾にする敵もいた。そんなときは躊躇いなく自動小銃の引き金を引く。 撃ち殺すたびにできる血だまりで靴底を濡らしながら前に進んで行った。 一緒に行動していた仲間が一人死ぬと、自分の中で獣が大きくなるのが分かった。 恐怖を怒りに変えてアドレナリンを出さなければ、人を殺すことなんてできる訳がない。 仲間を二人失い、この作戦で残ったのは自分一人ではないかと言う恐怖にかられた。 足が竦みそうになる。諦めて殺される側に回れば楽になる、という悪魔のささやきが聞こえる。 もうこんな恐怖からは解放されて楽になりたい、と何度思った事だろう。 悪魔ではない、その死への甘い誘惑は自分の中にあるのだ。 突然遠くで乾いた発砲音がして現実に引き戻された。 銃弾で死んだ死体がフラッシュバックする。 いやだ、俺は死にたくない。殺す側に居たい… 口に出さずにそう呟いて手中の銃を握りしめた。 近くで仲間の放ったロケット弾が着弾し、近くの家が炎に包まれた。 大きな爆発音の後に衣擦れの音がしたのを俺の耳がとらえた。何かが動く気配がする。全身の毛穴から汗が噴き出る。 銃口を向けて地面に威嚇射撃をし「出てこい!」と怒鳴ったが、出てくる気配がない。 恐怖に駆られて、壁に向かって数秒間撃った後覗くと、そこには死んだ男女と、血と涙でぐしゃぐしゃになりながらこちらをまっすぐに見る少年がいた。そのぬばたまの瞳に、一目で虜になった。 それがハバシュだった。 『一人殺せば心が死ぬから、後は何だってできる』そう教えてくれた自警団の副団長はその村で命を落とした。 自警団で言われたのはただ一つ、『神の意思に身を捧げる』。 簡単だ、生きなければ死ぬ。そのシンプルさが性に合っていると思っていたのに、俺は生きて自警団を離れ、ハバシュと二人で数年、時には数か月単位であちこちをさまよった後、争いから離れた貧しい町に流れついた。 心は死んだままだ。 **** 「セイフ、お茶が入った」 毛布の上にぼんやりと寝転んでいると、ハバシュが甘いお茶を保温瓶に淹れて持ってきてくれた。 「ありがとう」 身体を起こして胡坐をかくと、ハバシュは俺の後ろに回り込み、背中合わせで座った。 触れた背中がじんわりと温かい。 「また、昔のこと考えてたの?」 ハバシュが後ろから低い声で話しかけてくる。 「お前(ハバシュ)が大人の男になったな、って思ってた」 「俺は、とうに大人だよ」 ハバシュは拗ねたように言い、頭を仰け反らせて俺の肩に載せた。 首筋に当たる緩くカールした黒髪に指先を差し入れてくしゃくしゃと撫でてやると、くすぐったそうに首を振って笑い出した。 「やめろよ」 「やめない」 絡ませようとする度にくるりと逃げるその感触が楽しくて何度も指に引っかける。そんな俺を止めることを諦めたハバシュがぐっと体重を掛けてきた。 「なぁ、セイフはどうして戦う事をやめて俺を育ててくれたんだ?」 「それが神の意思だから(インシアッラー)」 俺は嘘をつく。神の御心に従って、彼を傷つけないように。 地平線が微かに明るく光る。あれはどこかの町が焼かれているのだろうか? 音の無い世界で、彼の息遣いだけがかすかに聞こえる。柔らかい髪に再び指を通すと、突然手首が掴まれて、暖かいものが触れた。軽く握った指の節に唇が這ってゆく。 「神は村が滅びることを望んだ、だから村人はみんな死んだ。でも、セイフは神の意志を無視して俺を救ってくれた」 それは違う、違うんだ。本当は世界中から見放されたお前の部族を救えなかった罪の償いなんだ。 そして、唯一神よりも俺を信じて慕ってくれる彼が、いつの間にか愛しくてたまらなくなっていたからだ。 星明かりの下、背中がふと涼しくなりハバシュが身体を離したことが分かった。あ、と思う間もなく、後ろから強く抱きしめられた。 「どうした、寂しいのか?」 「違う」 「まだ夜が怖いのか、俺が守って…」 揶揄おうとして発した言葉を言い終える前に、顎がぐっと持ち上げられて上を向かされた。なのに星は見えなかった。 湿った暖かいものが俺の唇に当たっている。甘いお茶の香りを漂わせながら、俺の口と視界を塞いでいたのは、ハバシュだった。 それは、この10年彼を抱いて眠ってきた俺が、心の奥に押しとどめていた願望だった。 気高く猛々しいこの少年を、神に渡す訳にはいかない。俺が、この手で守り全てを愛したいと思っていた。 若い、子供のような直情的な情熱を持って、ハバシュが俺の唇を貪る。 何度も、何度も繰り返し、角度を変えて空っぽな俺の中を埋めてゆく。 その熱に浮かされた様な心持ちが伝染して力が抜けた。唇が勝手に緩むと、彼の肉厚な舌が遠慮なく咥内を撫でてゆく。 「ぁ、あ……」 お互いに声にならない溜息を交わして、気持ちを確認してゆくのだ。 新月の薄寒い暗闇の中、気持ちは荒々しく昂ぶってゆく。身体を捩じりながら彼と向き合う体勢になると、いつの間にか毛布に押し倒されていた。 耳元に暖かい息がかかり、ハバシュの声が深く俺の身体に染み込んでゆく。 「セイフ、俺を守ってくれてありがとう。これからは俺があんたを守るから、あんたの全部を愛するから…」 そこで言葉は途切れた。 何も言わなくても、俺の髪に指を絡ませ、首元に鼻先を埋めているハバシュの気持ちは痛い程伝わってきて、それが嬉しかった。同じくらいの身長にまで成長したたくましい背中に腕を回して、ぎゅっと抱きしめると、振り絞るような声で言われた。 「抱かせてほしい」 10年かけて俺が守ってきたと思ってきたハバシュが、暗闇に怯えていた小さな子供だった彼が、今夜は俺を抱きしめている。 **** 薄明(はくめい)の静けさの中、遠くで聞こえる音に意識が急速に覚醒する。 攻撃が、来る!一気に心拍数が上がり、身体じゅうにアドレナリンが駆け巡った。 「ハバシュ!ハバシュ!」 隣に眠る彼を揺り動かし、荷物を取って来るように伝えて、自分も服を整えて金目のものを鞄に詰める。 その時、甲高い空気を切り裂く音が近づいてきた。 「逃げろ!逃げてくれ!」 大声で怒鳴ったつもりなのに声がうまく出ない。爆音に身体が強張(こわば)って扉までの数歩で足が縺れた。 声が届く間もなく、轟音と共に地面が揺れた。 あらゆる方向から固く重たいものが飛んできて身体に当たり、崩れおちる。 身体に強い衝撃を受けて上も下も分からなくなった。 暗闇、ハバシュが泣いて怯えていた暗闇が今俺を包んでいる。 (ハバシュ、ハバシュ、俺が救った命、俺を救ってくれた命) (どうか、逃げてくれ) (俺の命を与えるから、神のその手を振り切って生きてくれ) 【完】

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