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【RISK IT】曖いつあき

鳩羽色(はとばいろ)の低い空が不揃いなビルに縁取られ、それはまるで、天に広がる巨大な羽が地から突出する無機物に支えられているようだった。 淡い雲叢(くもむら)は、その尾を僅かに茜に染め、波打つ。ビル壁面を覆う数多(あまた)のガラス窓は、タイルを並べたように花曇りの斜陽に色づき、薄色の天を仰いではぽつりぽつりと(ともしび)を差し入れていった。 タキシードの長足を組み替えると、革張りの座面が(しな)る。リムジンの窓が切り取るビル群に大した郷愁はなく、綾西(あやにし)ジェームス(げん)は帰国してからの滞在が長引いていることを(うれ)えた。 ボストンにとんぼ返りするつもりだったのに、なぜか白銀のフォーマルに身を包み、淡くくすんだ残り火に浮かび上がるメイド・イン・ジャパンの街並みを、横目に見物することになってしまっていた。 とは言っても、綾西家の邸宅からパーティー会場であるホテルまでは、ドライブというほどの距離もない。父の(めい)(わずら)わしく過ごす今夜を呪っている間に到着してしまう。 政治家の出版記念パーティーなど、単なる資金集めの名目にすぎず、そんなことは火を見るよりも明らかなのだが、「どうせ読んでない人間ばかりが集まるんだろう」と、独り不貞腐(ふてくさ)れてみせる。 「綾西家とは代々、懇意な関係であるのだから、責任を持って務めを果たすように」  などと、父も(うそぶ)いていたが、当主である自分は他の会食に出席するのだから、子どもの使いで十分な宴ということだろう。 どうせボストンの大学院で好き勝手にやっている放蕩息子に対する嫌がらせだ。せいぜい日本にいる間だけでも、生き馬の目を抜く食わせ者や有閑階級の文化資本主義者にでも揉まれて来いと、なかなか帰国しない自分への意趣返しが透けて見える。  父子関係に(ゆが)みがあるというわけではない。元より父とは(こじ)れるほどの距離感で関わってこなかったのだ。かと言って、父への反感や憤りがあるということでもない。綾西家の当主とは、例え家庭内であっても、組織の覇者としての風格や威圧感が損なわれない存在だというだけなのだ。その近寄りがたい存在感は幼心に納得してしまうほどだった。  ただ、自分が綾西家の(わだち)を辿るだけの人生に納得するかどうかは別問題だった。  青二才には青二才なりの知恵と視座と矜持がある。  指図されるままにパーティーで古だぬきと腹の探り合いをし、父の経営方針を踏襲し、家祖の遺産を守り繋ぐだけでは、綾西舷の覇者の血を(なぐさ)めることはできなかった。ある意味、彼は綾西家の嗣子(しし)であったのだ。  だが、綾西には文化資本主義的な素養では身に付かない天賦の才があった。味気なさの中に面白味を見つけるという性質だ。取るに足らないように思われる、この生来の(おもむき)が綾西という人間の大きな原動力となっていることは否定できなかった。  だからこそ、あれほど不本意だと感じていた宴席も、会場に足を踏み入れる頃には、別の楽しみを見つけることに思い当たったのだった。  幼い頃、母によく連れて行ってもらった海岸で、波と戯れたことを思い出す。母は海が好きだったが、泳ぐことはなかったので、波打ち際を二人で散歩した。スニーカーの足痕を(こしら)えながら、引いていく波をギリギリまで追いかけ、そうかと思うと、今度はこちらが追われる。  それと同じゲームだ。  わざわざ好き好んで会費を払ってまで立食パーティーに参加する(やから)など、それ以上のメリットを手にしないで帰るつもりはないはずだ。そういう海千山千の相手に戯言(ざれごと)でも吹っ掛けて、瀬戸際で引き返す。退屈凌ぎの娯楽に思いを馳せながら、綾西はホワイエでシェリー酒のグラスを傾けた。  ブルーのリボン徽章が綾西荘路(あやにしそうじ)の息子だと喧伝(けんでん)してくれるので、ホワイエでも、パーティールームでも、綾西は一人になる暇がなかった。  向こうは人脈の宝庫に飛び込んだつもりなのだから、綾西のような若輩相手でも熱心だった。当の綾西の方は、相手の自尊心を(くすぐ)った矢先に、シニカルに(おとし)めるといった言葉遊びに興じた。日本屈指の化学メーカーの名が印字されているだけで、ペラペラのリボンは遊び相手を尽きさせなかった。  数日以内にボストンに戻るつもりの男にとっては、ここで行われていることなど茶番に過ぎない。ビジネスを成功させることへの興味は絶大なるものだが、それは父のコネクションを使った時点で無価値なものになると考えていたからだ。 (適当なタイミングで引き上げるか)  お仕事に余念のないタキシードたちを(もてあそ)ぶのにも飽きてきた頃、会場を後にする算段を付けるべく、周囲を窺った。  (にわ)かに、綾西を取り巻く喧騒が遠のき、一つの人影だけが残される。  その瞬間、山間の湖に映り込む赤褐色の瓦屋根の街並みが、脳裏に広がった。天外から差し入る白光は湖底まで届き、幼い眼差しをそこへと導く。透徹とした湖水は世界を見通すことができる広大なポケットのようで、その実、見透かされているのは自分の心裏であるような錯覚に幼心は震えた。 今は亡き母と最期の時を過ごした町、ルツェルン。胸の内で何度も繰り返し、白んで擦り切れてしまった思い出の光景だった。 それでも、心象の中では、山々の織り成す天景を一心に映す湖面に、白鳥たちが羽を休めて揺蕩(たゆた)い、喉を潤し、戯れる。 ふと、そこへとたった一羽、黒鳥が降りてくる。艶めいた羽に大きく空気を孕み、湖面を滑るように着水すると、黒羽を(しと)やかに折り畳んだ。 「きれいね……」  隣の車椅子でそう呟いたように聞こえた。が、母はそれ以上の言葉を(こぼ)すことはなく、ただ涙の雫を落とした。  綾西は、あの清水(しみず)に濡れる艶黒(つやぐろ)の羽を再び見たと思った。  滑らかに流れる額のラインに、墨筆(すみふで)(おろ)したような髪が寄り添い、ぽとりと墨を落としてしまったような(ひとみ)は清冽さそのものだった。その男の双眸を見たいと願うと、横顔が振り向く。  一切の華美が取り払われた濃墨の正装は、華奢な顎のラインからシャンパングラスを持つ指先まで、洗練された流線美を描き、ともすれば地味な様相に収まってしまいそうな立ち姿は、ジャケットから黒くしなやかな布地を(つた)って革靴まで、優美な流れが損なわれることはなかった。  綾西はすでに数杯目になっていた赤ワインのグラスを置くと、ウェイターの持つトレーからシャンパンのグラスを(さら)う。  歓談という名の駆け引きをする人の輪をいくつか()り抜け、その男の元へ、エナメルの靴がカーペットを急いだ。 「スパークリングワインがお好きで? それとも……アルコールはあまり?」  (えん)も中盤に差し掛かっているのに、シャンパンの杯を手にしていたので、よほど好きなのだろうと踏んでいたが、近付いてみると、それはすでに気泡が抜けかけていた。  目の前にしてみると、少し見上げてくるような眸が深く、吸い込まれてしまいそうになりながら、綾西はその男の手からグラスを抜くと、新しいものをその手に滑り込ませた。 「なんだ、(げん)君ではないか。今日は父君の代わりか?」  その声に、初めて横に立つ男が目に入る。 「……戸高(とだか)さん、……ご無沙汰しております。ちょうど帰国しておりまして、不束(ふつつか)ながら父の代理で参りました」  レッドリボンに戸高重臣(とだかしげおみ)と書かれた胸元を見て、父の学生時代の後輩に、金融担当大臣の秘書がいたことを思い出した。  視線はひとりでに、先ほど手渡したグラスの向こう側にある胸元へと移る。  ブルーリボンの徽章には、柚野匡透という名の横に、財閥系銀行名が記されていた。 「戸高さんはこちらの方とお二人でいらしたのですか?」 「ああ。こちら、柚野(ゆの)君。今、庁舎に出入りしていて、官僚相手に政策論争も(おく)さないタイプで参っている」  戸高は笑い声で恰幅のいいジャケットの腹回りを揺らした。  揺れながらも両眼の奥が冷ややかで、この中年男も古だぬきの一人だと知れる。 「おっと、先生が呼んでおられる」  遠くで目配せをしてきたレッドリボンの男の元へ、戸高は足早に去った。 「大手銀行のFSA担の方はこんな所まで足を運ばれるんですね」  先ほどから愛想笑いの欠片も見せない男に、綾西は再びシニカルな遊び心が沸き上がってきていた。 金融庁担当ということは、旧帝大の法学部を出ていることは間違いなく、雁字搦(がんじがら)めの規則の中でエリート街道を真っ直ぐ歩んでいるのだ。これほどに(あて)やかな雄の艶を(まと)っていなければ、最も近付きたくないタイプの人間だった。 「情報集めが仕事ですので、必要とあらば、どこでも参ります」  初めて耳に届いた声は、凛然としていて、やはり雪山の(すそ)を濡らす湖面を思わせた。 金融庁の検査対策としては必要なのだろうが、要は、行政とのコネクション作りのためなら、仕事は選ばないということだ。かつてのMOF担のような癒着はなくとも、将来この男が出世した時に役に立つ繋がりはできるはずだ。 綾西にとっては忌々(いまいま)しい限りだった。 目を()いてやまない艶美に通った鼻梁(びりょう)と二重瞼、耳に心地よく響く声音、触れてみたい欲望をそそる滑らかな陶器の肌。どれを取っても、自分の胸を甘く(うず)かせる男が、最も避けたい世界の住人なのだ。 もし綾西が黙って父の帝王学を受け入れ嗣子としての役割を(まっと)うすることに異論がないならば、この出会いに涙するほど感謝しただろう。 だが、ボストンへの留学という隠れ(みの)の下で、実際のところ、父が(あずか)り知らぬビジネスを構築しようと画策している男にとって、対極の世界に住まう人間は本来ならば関わりたくない。 「旧帝大出身者って、それを死ぬまでアイデンティティにしているんだろう?」  あまり日本の大学は詳しくないんだと、苛立ちを隠せない男は、つい子供じみた当て(こす)りをしてしまう。 「お噂はかねがね。綾西化学工業の御曹司はアメリカの大学へ行ったきり、いつ戻られるのだろうと、折に触れて耳にします」 「それは私個人としては光栄だな。話題にして頂いているうちが華ですから。ただ、銀行は、融資先の経営者に放蕩息子がいるだけで、企業評価を下げるということでしょうかね」  綾西の皮肉を曖昧(あいまい)な笑みで受け流すと、柚野はグラスに口を付けた。  その潤んだ唇に目を奪われていると、不意に、目の前の男が射貫くような深黒の眸を差し向けてくる。 「周囲にそういった学歴の者しかおりませんでしたので、出身大学は私にとって何のアイデンティティにもなりません」  何の話かと思えば、(さき)んじて吹っ掛けた揶揄(やゆ)へ、真っ向から返答を寄こしてきたのだ。  (きょ)()かれた男は、次の瞬間、急激にその忌々しい男への興味が育ち、葉を茂らせるのを感じた。 「それは失礼した。私が政財界で知り合った先輩方の中には、社会に出て幾年も経つのに、まだ粘り強く学歴にプライドを持ち続ける方々がおられて、そこから先の人生では何も成し遂げていませんと、自らおっしゃっているように見えたもので」  今度の台詞は皮肉ではなかった。柚野の小気味(こきみ)よい言葉に、自分が感じてきた(わだかま)りを吐露してみたくなったのだ。 「確かに、そういう方もいらっしゃいます。学歴ごときで自分は勝ち組だなどと言って(はばか)らない人間も。しかし、それはそもそも比較の問題ですので、その程度の経歴で誇りを持たれても、と思います」  想定外に面白味のある人物だった。 「少し外に出て話さないか?」  綾西は会場内に視線を走らせる。そして、レッドリボンの人群(ひとむれ)に捕まっている戸高を見つけると、柚野に目顔でこの後の予定を尋ねた。 「いいですよ。挨拶だけ済ませてきます」  柚野は意外にも(しぶ)ることなく受け入れた。  小暗い石畳に、不釣り合いのエナメル靴を踏み入れると、萌木(もえぎ)()が身を包む。街明かりが空まで手を伸ばすので、鈍色(にびいろ)の薄曇りが波打って見えた。ホテルのバーで過ごしても良かったのだが、綾西は柚野と二人きりになってみたいと、建物の裏側に広がる庭園へ誘い出した。庭に(ただず)む灯は辛うじて道に(しるし)を落とす。淡い夜闇に人影はなく、綾西は希薄な天を見遣(みや)って、少し後ろを歩く柚野を待った。 「あの流れていく雲よりも高い、そのプライド。なかなかあっぱれだが、……俺は底意地が悪くてね。それが()し折られた瞬間を()の当たりにしたいと思ってしまう」  追いついた男に、揶揄(やゆ)の眼差しを投げかけた。 「あなたはプライドの本質を分かってらっしゃらない。手折(たお)られるために、高く伸ばしておくのですよ、誇りというものは。圧し折られて立ち直れぬ矜持(きょうじ)など、最初から持たぬことです」  頼りなく降る光の粒子に、柚野の睫毛(まつげ)(おぼろ)げな影を落とした。その奥にある眸には、柚野の言葉を裏打ちするような苦節(くせつ)垣間(かいま)見えた。ほんの僅かな間合いだったが、それは彼の深淵が姿を現した瞬間だった。  徐に綾西は胸を掴まれたかのように疼きを感じた。思わず柚野の前に回り込み、(ひざまず)く。 「私は、綾西(あやにし)ジェームス(げん)と申します。あなたの名前を教えてくれませんか?」 「先ほどから、『柚野(ゆの)』とお呼びになっているではないですか」  唐突(とうとつ)誰何(すいか)された男は、怪訝(けげん)に眉根を寄せた。 「ファーストネームの読み方を聞いていない。私はあなたが誰なのか、まだ知らない」  綾西の問いに、柚野は吐息(といき)で笑った。 「名刺の交換すらしていないなんて、今夜は私もどうかしていました。……『マサユキ』と読みます。柚野匡透(ゆのまさゆき)です」  膝を落としたままの男に腰を上げるよう、手が差し出された。綾西はそのままその手を握り締めてしまう。  握手したままの手が軽く引き寄せられたので、長身の男は立ち上がり、柚野は再び眼差しを上向かせた。都会の曇天(どんてん)(ただよ)うくすんだ薄闇を映し込んでも(なお)、その双眸は湖水に濡れる羽の深黒を失ってはいなかった。 本店勤務の部長クラスの行員ですら、最上階の役員フロアーに上がることはほとんどなかった。例え、順調に出世の道程を進んでいるとしても、柚野のような四年目の行員が、その役員フロアーの二つ階下にあるVIP用会議室に入るなど、通常ならば考えられなかった。  しかし、柚野匡透(ゆのまさゆき)がこの部屋に呼び出されるのは三回目である。 「昨晩は早々に帰宅したそうではないか。接触には成功したようだが、時間があまりない。慎重に、だが迅速に」  馬渡紀一郎(まわたりきいちろう)は柚野に椅子を勧めることもなく、口を開いた。当然といえば当然だった。メガバンクのFSA担と言えば、支店に最も恐れられる存在ではあるものの、目の前の馬渡は副頭取である。一介(いっかい)のFSA担がおいそれと会える相手ではない。 「はい。次回は週末にお会いする約束をしております」  柚野は端的にそれだけ答えた。  それ以上の報告は無用だという判断だ。帰宅時間まで把握されているのだ。監視が付いているにちがいない。  綾西舷(あやにしげん)に「外へ」と誘われた時には、まさか本当に屋外へという意味だとは思わなかった。だが、下手に酒を酌み交わすよりも、綾西は緑陰(りょくいん)を渡る夜風に当たりたかったのかもしれない。頭は切れる男のようだが、意に()わぬパーティーでささくれ立った神経を持て余しているように見えた。  馬渡からの「早々に帰宅」という評価も分からなくはないが、出会った瞬間に無二(むに)の大親友というわけにはいかない。 「当家の車を待たせている。家まで送らせてくれ」  そう提案する男に従った方が、警戒されずに(ふところ)へ入り込む機会を(うかが)えるはずだ。現に、帰りのリムジンは、勧められたブランデーグラスが(てのひら)で温まるのに十分なほど、大回りをして柚野の自宅へと到着した。濃厚な酒とチョコレートの香りの中、それほど悪くない皮切りだったように感じている。 「この仕事が無事に遂行されたら、君は綾西薫子(あやにしかおるこ)という人物と見合いをすることになっている。できればこの縁談を円滑に進めたい」  確か、綾西薫子は昨晩出会った男の従妹(いとこ)に当たるはずだ。そこまでシナリオができているなら、柚野が会社を辞めない限りこの任務からは逃れられない。 「それまでは、行内検査業務など負担が大きいものは軽減されるよう、部長にも通達してある。しばらくは綾西舷を優先し、彼の意向に影響を及ぼす存在になること」  ソファーに座る男は足を組みかえ、要件が済んだと目顔で退出を促した。  短期間で与えられる仕事ではないな、とエレベーターに乗り込んだ柚野はそっと吐息した。  名こそ知っていたが、初めて綾西ジェームス舷の人物情報ファイルを開いた時、あまりに自分とは生まれも生い立ちも経歴も懸け離れていて、思案に沈む声が()れた。 ボストンで生まれ、幼い頃は母に連れられ海外を転々とし、長期に渡って日本で暮らした経験は中学と高校の六年間だけで、大学からは再びボストンへ。そんな経歴の人間と気心が知れた仲になろうなどと、契機(けいき)(さぐ)っても会話の接点がない。 綾西化学工業の後嗣(こうし)を帰国させる。 それは親の仕事なのではないかと思ってしまう。だが、綾西荘路(あやにしそうじ)ともあろう人間になると、子息を説得し、ボストンで秘密裏に進めているビジネスを諦めさせ、自社に収まらせるなど、自らの手を煩わせるほどの問題ではないのかもしれない。 要は、「人を送り込む」というのが、綾西家当主の尽力なのだろう。 そして、次期当主は警戒心が強く、父に懐柔された友人をすぐに見破ってしまうらしい。 昨晩は少しやり過ぎたかもしれない。そう肝が冷える瞬間があった。議論好きだとは聞いていたが、こちらも本気になりかけた。あの男は話し相手を()きにさせる要所(ようしょ)心得(こころえ)ている。 だが、こうやって二度目に会う約束を取り付けたのだから、綾西舷が変わり者だと評される理由の一端が知れたような気がした。毒にも薬にもならぬ人間には興味を持たないという情報は、的を射ていた。 相対(あいたい)する彼の立ち姿には圧倒された。 写真データにも目を通していたので、大方の見目(みめ)は分かっていたつもりだが、柚野の方へと歩を進めてくる男に思わず後退(あとじさ)りをするところだった。 シルバーの光沢を帯びた正装など、柚野にしてみたら手にする勇気すら持てないが、あの洗練された長躯は、事も無げにそれを身に馴染(なじ)ませていた。その骨格すら精巧に計算されて形成されているのではないか、そう想像を()き立てるほどに、首筋から、幅のある肩から、ジャケットのラペルが滑らかに下りる胸板まで、そして、その体躯を支える下肢の先に(いた)るまで、雄爽(ゆうそう)で無駄のない輪郭を描いていた。 見上げると、(うなじ)に寄り添う亜麻色の髪が麗姿に華を添えるようで、しかし、それは本来の胡桃色(くるみいろ)が光の粒子と絡まり髪を(いろど)っているのだと、一拍(いっぱく)置いて気が付く。髪ばかりでなく、鈍色の双眸も輝きの粒を(もてあそ)んでは、時に深碧(しんぺき)に色づいた。鼻梁が際立(きわだ)つような彫刻じみた作りがあまりに端然としていて、日本語で話しかけられるまでクオーターだという情報を失念するほど、アジアの血を感じさせなかった。 あの匂い立つほどの雄偉に呑み込まれてしまいそうだった。 この仕事を与えられた時、こんな経歴の人間の心奧(しんおう)に入り込むことができたら、さぞかし気持ちが良いだろうと、そう()ぎった野心さえ、後悔するほどだった。 週末に備えて何をすべきだろうか。 勉強や仕事の手順なら、どれほどの質と量でも、どれほど混沌とした状況でも、練り上げて遂行する自信はある。だが、一筋縄ではいきそうにない人間の攻略法など心得ていないのだ。 それでも、これは仕事だ。やるしかない。 昔は困ったことがあると、すぐに兄に相談していた。勉強で分からない所があった時はもちろんのこと、友人と喧嘩した時も、好きな女の子ができた時も、兄はいつも手を貸し、助言を与えてくれた。 告白の言葉を一緒に考えてくれた熱心さに、思い出し笑いが(こぼ)れ、柚野は手の甲で口元を押さえた。 両親が他界した時、柚野は小学生だった。兄と祖父母は、柚野に寂しい思いをさせぬよう、そして、不憫(ふびん)だと甘やかし過ぎぬよう、心を砕いて育ててくれた。 その当時、大学卒業を控えていた兄は、法哲学の研究を一度諦め、法律事務所に勤めながら弁護士になったが、それがどれほどの努力を要するものなのか、自分が社会人になった今、痛切に感じる。 今度は自分が兄に返していく。 数年前に研究畑に戻った兄が、弟に捧げた人生を取り戻してくれることを、ひりつくような思いで祈ってきた。今更、柚野の手助けが必要な場面はないことも承知しているのだが、万が一でも兄が苦境に立たされた折、揺るぎなく彼を支えられる人間でありたい。 どんなに難解に思える仕事でもやらなければいけない。 微かな重力を感じると、扉がスライドしてフロアーへの道が開ける。VIP専用と記されたプレートを横切って、エレベーターホールを抜けると、壁を縦に長く切り取る窓ガラスが、光の輪を幾つも(こしら)え、金色(こんじき)の長い(たもと)を廊下へと伸ばしていた。それは振袖の佳人の後姿(うしろすがた)ようで、錦に織り込まれた輝きが正座の足袋の先まで長く続いている。 たった今、背にしてきたエレベーターを、昇り詰める人間になる。柚野匡透は入行当初からそう決めていた。そのためには一歩一歩を踏み外すわけにはいかない。革靴の底を踏み締めて社屋の廊下を急いだ。 この(あま)つみ空の上には、銀河系の更に先の空漠と広がる世界がある。そう思わせてくれる真空色(まそらいろ)だった。そして、水縹色(みはなだいろ)から青白磁(せいはくじ)へとグラデーションを重ねながら、惑星の縁まで下りてくると、世界の輪郭が紺碧(こんぺき)の海となって浮かび上がる。波と陽光が折り重なっては離れ、数多(あまた)の白羽が揺蕩(たゆた)っているようだった。  テラスはその大海と地続きに結ばれているかのようで、開け放たれたリビングルームも磯の風の通り道になっていた。  シングルベッドほどにも座面を広くとったカウチソファーは、真っ白なシーツのようなカバーが張られていて、スーツの男はやや場違いに腰かけていた。 車で迎えに行くと言われ、そのまま海辺の別荘に連れてこられるとは、露ほどにも想像していなかったのだ。ピンストライプのカジュアルスーツとは言えども、リゾートに来る服装ではない。 考えてみれば、綾西家の子息の誘いだ。所有する別荘の一つに招かれたとしても、何ら不思議はない。柚野は自らの想像力の欠如と庶民感覚にうんざりしていた。 「酒は大丈夫なんだろう?」  初対面のパーティーで、柚野があまり杯を進めていなかったことを覚えているらしい。 「仕事で伺っていたので、飲食は二の次でした」  実のところ、いかにして綾西舷に近付くか、機会を探っていて、酒どころではなかったのだ。 「では、今日は、あの日のシャンパンからやり直すので構わないか?」  綾西は「お疲れ様」とでも言うように眉尻を下げ、自分で用意したグラスを差し出してきた。  白大理石のローテーブルは、ソファーの座面と同じ高さで、遠景と繋がっているこの部屋の視界を遮らなかった。 この部屋のために誂えられたと(おぼ)しきテーブルに、ホスト自らが(えん)を張る。手伝うと申し出た柚野を制して、「一人暮らしが長いんだ」と片笑みを浮かべた。 膝の先に置かれたグラスの底には苺が一粒転がっていて、琥珀色(こはくいろ)の美酒が注がれると、その気泡に果実はふわりと踊った。 ソファーのスプリングを(かし)げさせ、隣に男が座る。 「匡透がラザニアを食べたいというから、昨日ここに仕込みに来てしまった」  生地から手作りしたというそれを、綾西は取り分けてくれる。  週末のランチは何を食べたいかという連絡を受け、綾西のプロフィールにイタリアンと和食が好物だと書いてあったので、「ラザニアでもカジュアルに頂ける所に行きませんか」と返答しておいた。確かに、データファイルには、一通りの家事はできるという旨の記載はあったものの、まさか綾西手ずから料理を振舞われるとは思い至らなかった。 うっかりスーツにネクタイまで身に着けてきた男に対し、隣の男は、ベージュの細身なコットンパンツに、シルクが編み込まれたブルーグレーのシャツ、その上から、緩くジャケットラペルのラインを持つカーディガンを羽織っていた。どれもこれも無造作な装いに見えるが、生地にも仕立てにも質の良さが滲む。  だが、その中で一つだけ(まが)い物が入り込んでいて、それが妙に気になった。  オフホワイトのカーディガンの襟に寄り添って、船を(かたど)ったラペルピンが差し込まれていた。楚々(そそ)として気品に富むチャームなので、全体の均整が失われることはなかったが、素材となる金属も、彩りを与える石も、わざわざイミテーションのものを選んだかのようだった。 「亡くなった母からのプレゼントだ」  柚野の視線に気づいて、綾西は親指でラペルピンを撫でた。 「子供の頃、船が好きで。母が知り合いのアクセサリー工房に通って、素人の手習いで作ってくれた」  唯一この華麗な男と自分に共通点があるとすれば、男が母親を失ったのと自分が両親と死に別れたのが同じ年齢の頃ということだろうか。 「……俺は、そちらの業界でそんなに有名なのか? 何を言っても、匡透は知っているという顔をする」  ま、そういうのは慣れているが、と綾西は苦笑った。 「財界のキーパーソンについては情報が入りやすい立場にあります。……ただ、今のお話は、私の両親も鬼籍に入っているもので、ついそのことを思い出しました」  隣の男がグラスを置いて、胡桃色の睫毛を瞬かせた。小首を傾げて、話の続きを促してくる。 「小学校五年生の頃でした。その後は、十歳年上の兄と、祖父母に世話になって、大学まで出ました。……研究者だった両親は、小学生の私には小難しい本を買い与えることが間々あったのですが、思いも寄らず、それは形見になりました」  口を(つぐ)むと、柚野は再び船の飾りを眼差し、それから綾西の白銅色の眸へと目線を移した。 「死人の想いが宿った物というのは、ある意味難儀だな。自分を後押ししてくれることもあれば、引き留めたままにすることもある。……どちらも、残された人間が自分の迷いを押し付けているだけなのだが」 「綾西さんはどちらなのでしょうか?」 「舷と呼んでくれ。……きっと、どちらもだ。……子どもの頃は大きな船の船長になりたかった。母がよく船旅の冒険物語を読み聞かせてくれたんだが、あれは母も長い航海への憧れがあったんだろうな。一緒に読んだ本のことで、二人して夢中になって語り合っていた」 「結局、あなたは船長にはならなかったのですか?」 「大きな問題があったんだ。俺には、船乗りになれない、大きな障壁があった」  そう低く語る男の双眸が深碧の光を宿したので、柚野は息を呑んで耳を傾けた。 「すぐに船酔いをするんだ。ボートでもダメなぐらい」  絶望的だと言わんばかりに、綾西が(こうべ)()れる。  一瞬、虚を突かれた柚野は、次の瞬間、大きく噴き出した。 声を立てて笑壺(えつぼ)()る男を、今度は綾西の方が瞠目して見入っていた。 「初めて見れた、匡透が笑っているのを。…………まずいな、すごい破壊力だ」  綾西はソファーの奥まで片膝で乗り上げ、低い背もたれに片肘を乗せる。身体(からだ)は柚野の方へと向かい、伸ばされている方の脚は、座面の広さの恩恵を存分に受けても(なお)、その長さを持て余した。 「…………今からでも、大きな揺れない船の船長になることはできるのではないですか? 大企業経営とは、大海原の航海とさして変わらないのでは?」  柚野は笑いを収めて、問いかけた。 「大きな船がなぜ揺れないのか、匡透は知っているんじゃないか? もちろん、絶対ではないが、余程のことがない限り、みんな大船は沈まないと安心している。だが、それは船が屈強で信頼できるものだということではない。なぜなら、大船舶が沈みにくいのは、国に、国民に、守られているからだ」  そう切り返してきた男の言葉に、柚野は息を詰めた。 「公共性の高い民間企業という大義名分のもと、優遇されているからと言って、自分たちがこの国を支えているなどと勘違いしてはならない。この国を支えているのは、星の数ほどある中小企業なんだ」  (しお)香気(こうき)が二人の間を擦り抜ける。綾西の髪が尾を引いて首筋に(から)む。 「一部の企業だけ、危なくなれば公的資金が投入されるなど、ふざけた政策だ。そりゃ、大船舶が沈めば多くの人間が命を落とす。だが、そもそも航海とは命懸けなんだ。大とか中とか小とか、規模に関わらず、注ぐべき情熱や努力は変わらない。国の財力は、そういった人々が命を落とさぬよう、最後のセイフティーネットとして機能すればいい」  天から注がれる光の粒子が、海面を大きな鏡にして、飛び跳ねては、部屋の中まで手足を伸ばそうとする。春光の欠片を受けて、綾西の顔が覇者のそれへとなっていく。 「子どもの頃の俺は、大きな船には沢山の小さな船がくっついていて、大きな船はそれらの小舟に助けられなければ進めないことを知らなかったんだ。……そして、船が海を渡れるのは、ネットワークがあるからだということも。……少しは大人になって、今は、船が世界中に網を張るのも慎重でなければいけないと思う。財界にはグローバル化を履き違えている輩が多すぎる。当然ながら、市場開拓も生産形態の効率化も必要だ。だが、その国の風土や文化、昔ながらの産業を無視した画一化は、いつか破綻(はたん)を招くことを、もうそろそろ気付かなければいけない」  柚野は獅子(しし)の本領を垣間見た気がした。その圧倒的な風格に、胸に痛みを感じるほど、引き寄せられてならなかった。  柚野の中で、点であった綾西という人間が線で繋がっていくのを感じる。下肢が、背筋が、首筋が、()き鳴らされた弦のように震えそうになる。 この人には帝王学はいらない。我が子息が生まれながらの王者であることを、綾西荘路は知っているのだろうか。 データファイルに記載されていた内容と目の前の男の台詞が重なり合う。綾西がボストンで画策していることが、柚野には見えてきた。某国に外資が新規参入するために、流通網を構築する方法論を模索したいのだ。それも一見些末(さまつ)に見えるローカル文化を生かしながら。言葉にするのは簡単だが、それは実際には国際社会で実現できていない。 だが、この男なら――――。 「……あなたはやはり船長の器だ。もし大海へと長旅に出ることになったら、声を掛けてください。その時まで、私も自分の道を究めておきます」  柚野の言葉に、獅子の風格の男は目を見開き、そして、白い座面に置かれた柚野の手に自分のそれを重ねる。 「船出は近いんだ。だが、その前に、……匡透、君と約束を交わしておきたい」 「何の約束でしょう?」 寄せては引くたびに歌う波の声が、肌を撫でては前髪を揺らした。 瞬きも忘れて差し向けてくる眸が、銀から成る矢のようで、気付いた時には、柚野は深く深く射貫かれ、捕らえられた被食者となっていた。 その眼光を外すことなく、綾西は指先をテーブルの方へ伸ばすと、中指と人差し指の間に挟んだウィスキーボンボンを、柚野の唇へと差し入れる。 身動ぎもできずに口に含むと、濃厚な甘味が体温に崩れていく。その瞬間、柚野はある予感に辿り着いた。 「このチョコレートよりも甘い時間を、俺と過ごす約束を……」 すでに絡んでしまっていた視線が甘だるく質量を増していく。 綾西の二本の指からはとっくに菓子は消えているのに、その指はいつまでも柚野の唇を辿っていた。 「……その、……あなたは、つまり……」 「そう。匡透を口説いてんだけど」  率直な台詞のわりに、鼓膜を撫でるような(かす)れ声で、口説かれている男の舌の上では、チョコレートの中の洋酒がどろりと零れた。  急激に柚野の脳裏で全ての符号が合い、自分に課せられた仕事の意味を悟った。  迅速に綾西舷の懐に入り込めという指示は、友情や信頼関係を築けという意味ではなかった。彼に関することならば、愛読書から子どもの頃の口癖に至るまで、事細かな個人情報を与えられたわりには、恋愛対象の好みは記載されていなかった。そのことに、僅かながら違和感を覚えていたのだ。副頭取が縁談をちらつかせた時点で、なぜ気付かなかったのだろう。あれは、任務が遂行された後には、彼との関係が切れることを示唆していたのだ。  要するに、恋人を演じろ、と。  彼がゲイだと気付かなかったのは、ヘテロである自分の傲慢さ故だろうか。それとも、まだ社会人としては世慣れていない、自分の愚かさ故だろうか。  どちらにしろ、懊悩(おうのう)の時間は残されていなく、会社員であり続けるならば選択の余地も残されていない。 「俺に口説かれたら、そんなに困るか?」  いつの間にか、互いの鼻筋が触れ合いそうなほどの距離で、男は苦く吐息で笑った。 「……私は、ヘテロなんです」 「だから? 匡透がヘテロだろうと何だろうと、関係ない。これからは俺が君の全てを変えていくのだから」  その言葉を終わらせぬうちに綾西は柚野の(おとがい)を摘まみ上げ、そのまま唇を寄せた。海風が(くすぐ)るような口づけだったのが、唇を()まれ舐められているうちに、深まっていく。一度深入(ふかい)ってしまえば、加速度的に柚野の舌は絡めとられ、口腔(こうこう)(ほの)かに残るチョコレートとウィスキー香りをも余すところなく舐め尽くされた。  歯列を、舌を、上顎を、舐めとられるたびに、喉声が漏れ、下肢が震える。腰かけているのに脱力しそうな柚野の身体(からだ)を、綾西の腕が支え、厚い胸板に収められた瞬間、喉声を上げていた男は異変を自覚する。  恍惚(こうこつ)とした世界から急に戻された柚野は、押し倒してくる男を、腕で突き返してしまった。  押し返された方は、身を離し、怪訝に片眉を引き上げた。 「……お暇、いたします」  まだ息も整わぬまま、自らを追い立てるようにバッグを手に取ると、部屋を後にした。背後から何か声を掛けられたような気配を感じたが、そこから立ち去ることを身体が先んじて(あせ)る。  どちらの方へ向かったら良いかも分からず、だが、アスファルトを蹴って、蹴って、蹴って、息が切れて、蟀谷(こめかみ)に汗が(つた)う頃、ようやく足が止まった。  電柱に乱れたスーツの肩を(もた)せ掛ける。確かに、あの男にキスをされ、自分は(きざ)していた。それを反芻(はんすう)すればするほど、シャツの下は流汗(りゅかん)(まみ)れていった。 薄墨で描かれたような窓ガラスの世界は、雨滴の向こうで淡く揺れていた。輪郭が曖昧になった色合いが雨に垂れる。眼下にバス通りを臨む自室から、迎えに来た車体のロイヤルブルーを先に見つけたので、今からマンションのエントランスへ降りると連絡を入れた。  週明けに、別荘での非礼を詫びるメールを綾西へ送ったが、すぐに返信が来たことで柚野は(ひど)く安堵した。 「綾西さんのお気持ちが向かれましたら、もう一度あの別荘に連れて行ってくださいませんか?」  そう切り出したのは、副頭取ともう一度話した男が、出した結論であり、覚悟だった。そうして、先週末とは打って変わった天色(てんしょく)の下、綾西がドアを開けてくれた車内に乗り込むこととなったのだ。  (まと)まりの付かない思考を抱えたまま、「これだけは」という思いで、週明けの出社と同時に副頭取への面会を申し出た。柚野の方から馬渡に対話を願い出たのは初めてだったが、煩雑(はんざつ)な手続きを経てようやく翌日の朝に(かな)い、一介のFSA担が易々(やすやす)と面会できる相手ではないことを、思い知らされた。 「人物情報ファイルに記載されていなかった件で。綾西ジェームス舷は同性愛者でした」  直立して、その言葉だけを並べ、相手の出方を待った。 「だから何だというのだ?」  馬渡の無遠慮に寄った眉根は、週末の進展でも報告しに来たのかと思った、と語っていた。 「彼は、綾西化学工業の嗣子だ。いずれは組織のトップに就いて、しかるべき相手と結婚する。綾西舷の性的指向など些末(さまつ)な問題にすぎん」  想定内のシナリオだったので、柚野はもう一度言質(げんち)を取っておこうと、切り返す。 「では、私もこの件で些末な(こま)として処理されるということでしょうか」 「君はもう少し物分かりの良い人間かと思っていたんだが。君も出世のためには、三十になる前にそれなりの相手と結婚する必要がある。今回の仕事はその布石だ。縁談まであまり日程がない。急ぎなさい」  柚野はVIP専用エレベーターを降りてから、ICレコーダーを切った。自分の身は自分で守ること、これはメガバンクで生き残る最低条件だった。  先週末の失敗を巻き返す腹積もりはできた。あれは綾西のプライドを傷つけたかもしれない。焦燥感で自分のデスクへ戻る足が早まる。  錯綜(さくそう)する思いがないと言ったら嘘になるが、星雲のように曖昧模糊(あいまいもこ)とした胸の内にも、僅かながら野心と勝算はある。あの時、性的興奮を覚えてしまったことは、動揺を招く出来事ではあったが、同時にこの仕事を成し遂げられる可能性を示唆している。今はその可能性に賭けるしかない。  柚野のマンションから離れていく車窓も、雨垂れに(にじ)んでいた。車体を打つ水音に(さら)されながら、一週間前の気まずさを引き()って、二人の世界が閉じて密度を増すのを感じていた。 「くつろいでて。何か用意してくる」  前に来た時よりも長い長いドライブを経て、口づけで息を上げたリビングルームに通される。雨粒に翻弄(ほんろう)され白んだ海がテラスの向こう側に広がり、()()なる場所に連れてこられたような気分になる。 「水だけ頂けますか?」  キッチンへ入ろうとする綾西の背を追って、他には何もいらないと伝えた。その場でグラスを受け取って飲み干すと、ほうっと息を()く。 「先日は私の都合で急にお(いとま)しまして失礼いたしました。あの時は、あなたにではなく、自分で自分に驚いてしまって、混乱していました」  綾西はキッチンの入口の壁に左肩を(もた)せ掛けて、長足を組み、そして、上から小首を傾げて、謝罪する男の顔を覗き込んできた。 「いや、匡透に()かれすぎて、俺の方が急いてしまった」  そう言った男が唇を()むのを、柚野はつい目で追った。 続きはリビングで話そうと促す綾西を(さえぎ)って、柚野は首を振る。 「いえ。ベッドルームで話したい」  見上げた先の男は(すが)めた視線を差し向けてきて、しばらく逡巡(しゅんじゅん)していたが、「分かった」と、階上へ導いた。  ネイビーのスリムボトムの後を追って、一段、一段、上るたびに、(くずお)れそうな決心を踏みしめた。 「お話しておきたいことがあります。……例え、あなたが綾西家のご子息でいらっしゃっても、私はあなたの(たわむ)れにお付き合いする気はありません」  大振りのベッドをゆるりと(きし)ませ、二人で腰掛けると、柚野は自分の肩を引き寄せた綾西へ冷ややかに告げた。 「何が望みなんだ?」  肩を抱く綾西の手に力が()もり、もう一方の手指を柚野の指に絡める。 「私はあなたの現地妻にはなりません」 「そんなつもりは毛頭(もうとう)ない」 「ですが、日本を離れるつもりはありますよね? いずれ傍からいなくなると分かっている相手に、何を信じろとおっしゃるのでしょうか?」  腰かけたベッドの先には、沛然(はいぜん)と降り出した雨に、互いに混ざり合おうとする鉛色の空と海があった。壁一面が曇りガラスのようになっても、まだ飽き足らぬとばかりに雨滴(うてき)は騒然と身を打ち砕き、飛沫(ひまつ)となっていく。 「……なるほど。俺に誠意を見せろ、と」  綾西は(おもむろ)にリネンのジャケットを脱ぐと、襟元(えりもと)に留めていたラペルピンを外した。 「十五年以上、いつも離すことなく持っていた。母の形見だから、大切にしてほしい」  ()んで含めるように告げると、柚野の(てのひら)を上向かせ、そこに置いた。 「船が順調に大海を進み始めるまで、あと三年、……いや、二年、これを預かって待っていてくれないか? 日本にはなるべく会いに来る」  右の手に乗った船の飾りが震えて落ちそうで、柚野は包み込むように握った。一瞬、自分の中心を取って代わられたような胸苦しさに見舞われ、駆け引きの言葉を失ってしまう。  その(すき)を突かれたかのように、唇は奪われた。唇で唇を食まれる甘さに声を上げそうになりながら、震える吐息を逃がす。舌と舌が緩く(もつ)れ合う。  だが、口づけが深まり切る前に温もりが離れていってしまい、柚野は(たま)らなくなって、(ひたい)を目の前の男の(あご)へと当てた。  手を引かれるままに、ベッドの上で二人して膝立(ひざだ)ちになると、唇を寄せては、互いのシャツに手を掛け、ラペルピンや腕時計をサイドボードに置いては、素肌を触れ合わせた。全ての着衣が取り払われてしまうと、膝立ちの二人の()ち上がったものが(こす)れて(しずく)(こぼ)し始めた。背に腕を回し、肩を甘噛(あまが)みし、首筋に唇を()わせ、互いに愛撫は加速し、息も上がっていったが、下肢はじれったく(こす)れ合うだけだった。  不意に、綾西が腰に回していた腕の圧力を強める。易々(やすやす)と掴まれてしまった上体は、そのままベッドに沈み込み、柚野は仰臥(ぎょうが)し胸を上下させていた。  上から見下ろしてきた男は、手早くサイドボードに手を伸ばし、指に潤滑剤を(まと)わせると、柚野の後ろを(まさぐ)ってきた。  息が整わないままの男は、潤滑剤の滑りと冷たさに臀部(でんぶ)を震わせて、小さく喘いだ。(すぼ)まりを行き来する指が増やされていくたびに、綾西が自身を柚野の高まりに(こす)り付けるたびに、嬌声(きょうせい)は高くなり、膝頭(ひざがしら)戦慄(わなな)いて止まらなくなった。触れられるたびに、微弱な電気が流れるような愉悦を感じる場所がある。それが綾西にも伝わったのか、執拗(しつよう)にそこを愛撫された。 「あぁ、あっ、もう……」  (きわ)まりそうになった瞬間に、指が抜かれ、身体が反転させられる。達することができなくて(うずくま)りそうになっていると、後ろから腰に腕を巻きつけられた。  震える身体(からだ)を持て余す男の屹立(きつりつ)したものを、綾西は根元から握り締めてしまう。  柚野は思わず、ひっと息を喉で引っ掛けて、枕に顔を(うず)めた。許しを()いそうになり、唇を()む。  やがて背後を占有する男は、再び柚野の隘路(あいろ)に指を(つた)わせ、滑り込ませ、内壁を(こす)った。柚野の陰嚢(いんのう)に自身の屹立したものを当てながら、的確に秘部を(なぶ)り、それでいて頂点に昇ることは(ふう)じる。 「はぁ、……く、るしい……」  吐き出せぬ熱に柚野の身体は瓦解(がかい)しそうになっていた。 「舷がほしいと言ったら楽にしてやる」  そそのかす声が甘怠(あまだる)鼓膜(こまく)に響く。 「ほ、しい。……げん、が、ほしい」  ()れた頭はあっけなく自分を明け渡してしまう。  綾西は柚野の身体をもう一度反転させると、組み敷いた男の膝を抱え、約束を守るから見てろと言わんばかりに、圧倒的に()ち上がったものを、男の後ろに(あて)がった。  その強圧的にも見える大きさと長さに、柚野が「まずい」と思った瞬間、一気に(つらぬ)かれる。内壁が(えぐ)られる痛みと、それに勝る愉悦に悲鳴を上げた。悲鳴を上げたつもりだった。だが、それは声にならず、疼痛(とうつう)の中で法悦(ほうえつ)(きわ)まって、白濁(はくだく)を散らしていた。  柚野の方は昇ったまま降りてきていないのに、綾西は腰を送り続けた。揺らされている男は、涙と(あえ)ぎ声を(こぼ)し続けた。 すぐにまた次の頂点はやってきてしまう。柚野のそこは、(しび)れ切って、甘く(ただ)れて、綾西の形になろうと絡みついた。 そうやって、何度達したかも分からずに、意識を手放そうとした頃、ようやく身が揺らされていないことに気が付く。白んだ視界と曖昧になった体温の境界線の中、柚野は綾西の腕に収められていることを、朧気(おぼろげ)ながらに感じていた。 もう眠ってもいいだろう。辛うじて意識の尻尾(しっぽ)(つか)んでいた男は、自分の後ろから生温いものがドロリと垂れるのを感じて、余韻(よいん)に身震いしながら眠りの世界へと入っていった。 何事もなかったかのような態度ができること、これもメガバンクで生き残る条件の一つなのだろう。五回目の馬渡との面会で、柚野はまた一つ行員らしさが身に馴染(なじ)んできたように思われた。 「ある一定の評価をする。このまま続けてくれ」  副頭取の言葉に、柚野は何の温度もないような声で「はい」とだけ答えた。 「彼はしばらく日本にいることになったのだから、接触の頻度を下げないように」  知らぬ情報にと胸を突かれたが、直立した男は無機質な返事を繰り返した。 綾西ジェームス舷は当面のところ日本に残るらしい。だが、警戒が必要だ。「恋人」であるはずの柚野には何も知らされていない。廊下を進みながら、胸の内ポケットに無意識に触れ、船の形を確かめる。  抱かれたぐらいでは、あの男の深淵(しんえん)(のぞ)くことすらできないということだろう。そこに触れ、立ち入る人間にならなければならない。  柚野匡透は、エレベーターの降下に足を踏みしめた。 木製の座椅子に背を預けると、(きし)む音が小気味(こきみ)よく耳に届いた。畳の匂いとは無縁の生活をしているので、時には藺草(いぐさ)の香ばしさも悪くないと、鼻孔を楽しませる。  座卓の上はすでに懐石料理が一通り上げ下げされた後で、目の前で食事を共にしていた者も帰り、綾西舷の前にも、空になった甘味の器と湯飲み茶碗が置かれているのみだった。  だが、座椅子で胡坐(あぐら)をかいている男はまだ席を立たない。  これからすべき仕事を(おもんばか)ると、先ほど受け取った書類に目を通し終わってから退席するのが望ましいだろう。仕事の中には即時性を必要とするものもある。 「……なるほど」  書類から視線を外すと、綾西は独りごちた。『柚野匡透に関する報告書』と記された書面からは、父の様々な画策が(うかが)い知れた。  当面、ボストンへ戻るのは延期だ。  まず、父が自分のビジネスについて予想以上に調べがついていること、そして、自分の性的指向や恋愛対象の好みまで調べ上げていること。これらを(かんが)みると、綾西荘路が自分たちのビジネスを(つぶ)しにかかるのは時間の問題だった。そのことを、ボストンでのビジネスパートナーに連絡しなければいけない。人としては少々問題あるが、ビジネスに関しては狡猾すぎるパートナーを持てたことは幸運だった。向こうは彼に任せられる。そして、自分は日本に残って父の先手を打つ。  だが、綾西にはもう一つ成し遂げなければならない仕事があった。  父の周囲にいる手足には恐れ入る。よくこんなに自分の好みを完璧に(かな)えた人間を探してきたものだ。だが、綾西はそのことに感謝していた。 「柚野匡透を本気で口説き落とす仕事の方が先のようだ」  綾西ジェームス舷は書面を封筒にしまうと、長躯を(そび)えさせるように立ち上がり、部屋を後にした。

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