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第1話
happy cake
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それは、古本屋で100円にまで価格を落とし並んでいた。
『アナザー』という題名が、赤い表紙にプリントされている。薄ら白く積もった埃を払い、中を開く。波打ち黄色く変色した紙面に文字が並んでいた。
「それ、気に入ってるならあげるよ」
何度も何度も立ち読みに来ていたことに気がついていたらしい。「もう破棄しようと思っていたから」、店主はそう笑ってくれた。
内心では、「100円くらい払えよ」と思われているのかもしれない。顔を赤くし深く頭を下げる。
「あ、ありがとうございます」
しっかりと本を抱きしめ、家へと走った。
***
それは、一種の都市伝説だ。
こことは違う、異世界が存在する。
それは、単純に『アナザー』と呼ばれていた。
『アナザー』は、こちらの世界から『救世主』を召還する。
あちらの世界との間にある『狭間の輪』をくぐることで被召喚者は常識外れの力を持つことができるのだそうだ。その力をもって、被召喚者は『アナザー』の危機を救う。
もう子供じみ、流行廃れたその話を、僕は信じていた。
神様、どうかどうかお願いします。
僕を『アナザー』へ導いて下さい。
なんでもする。精一杯頑張るから、僕を必要としてくれる場所へ連れて行って下さい。
神様、どうか。
そう何度も願い、夢を見、その日が来ることをずっと待っていた。
『アナザー』は、僕の唯一の希望だった。
***
うちの家族は、他より少しだけ歪なんだ。
そう気がついたところで、家族は家族でしかない。
「小枝(さえ)、今日の晩ご飯は小枝の好きなハンバーグにしたのよ。たくさん食べてね」
「小枝は、身体が小さいからなあ。もっと食べないとダメだぞ」
学校から帰ると、母親が小枝の頭を抱きかかえ、髪を撫でていた。テーブルの上には、言葉どおりのハンバーグが乗っている。
父親はその向かいで肘をつきニコニコと微笑んでいる。
『ただいま』と声をかけることも憚られて、黙って2階の自室へと移る。鞄を落とし、制服のままベッドに俯せた。
――楽しげな声が、階下からどうしても聞こえてくる。
溺愛されている1つ下、16になる弟、そして、存在をほぼ無視されている僕。
そんな家族だ。
もう眠ってしまいたい。
けれど、今日は少しだけ本当に少しだけ、期待をしてしまっていた。
それが、目を冴えさせる。
もし、万が一でも母親が、父親が、自分の名を呼んでくれたなら。
「おいしい? 小枝」
瞼が熱い。シーツに涙が滲んでいく。
今日は、弟の誕生日だった。それは同時に、僕の誕生日でもあった。
今更何を待っているのか。これまでだって何もなかったじゃないか。ずっとこうだったじゃないか。
わかっていたのにわかっているのに、待ってしまう自分が、みっともなく、恥ずかしく、みじめだ。
馬鹿だなあ。
今度こそ、今度こそ、なんて。
ケーキでも登場したのか、プレゼントが渡されたのか、一際大きな歓声が聞こえてきた。時間が過ぎていく。名前が呼ばれることはない。
階下も次第に静かになっていった。
顔をずらし、壁にかかった時計を見上げる。ちょうど針の全部が12の上にあった。
カチ。
そして、秒針が通り過ぎていく。
ほら。
嗚咽がこみ上げてくる。
ほら、わかっていたことなのに。
「ひっく」
神様。
神様、神様、お願いします。
助けて。
神様。
そのとき、突然ベッドが消えた。視界が真っ暗になる。身体が、真っ逆さまに落ちていく。悲鳴を上げる間もない。
ただ、まさかと思った。
まさか、これは。
何度も読んだ、『アナザー』に行って、帰ってこれた人の経験談を綴った本。あの本の中でこういう描写があった。
『【アナザー】へは落ちるという感覚がしっくりくる。暗闇の中をストーンって。そしてふと身体が重くなる。それが、【狭間の輪】をくぐった証拠だ。見た目には何の変化もない。そして、意識を失う。次に目が覚めるとあちらの世界の魔法陣の中心にいる』
その本に書かれていたとおり、僕は意識を失った。失う間際、あれと思った。
『輪』をくぐった感覚が、なかった。
目が覚めると、不可解な文字と図の書かれた円の中心にいた。
身体を起こす。周囲に人は2人いた。
1人は金髪碧眼長身の男、腕を組み眉間に皺を寄せ不機嫌そのもので、こちらを見下ろしている。そして、もう1人は長髪細身と中性的な姿をしていて、青い顔で座り込んでいる。
「おい」
「は、はい」
高圧的な声に背筋が伸びる。言葉がわかる。そのことに少し驚きながら、じっと彼を見上げる。
これから、彼がその相好を崩してくれることを期待していた。「ようこそ、××国へ」だとか「君の力を貸してほしい」だとか「君を待ち望んでいた」だとか、そういう言葉を待っていた。
だってここはきっと、夢にまで見たあの『アナザー』だ。
『救世主』に、僕は。
「召喚は失敗だった」
男は一切、表情を変えなかった。それどころか、ますます眉間の皺を濃くしながらそう言った。
「え」
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