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大工の八五郎の住む割長屋の端にあった二軒の空き家の内、寄りにも寄って井戸から一番遠い一番端の家にその男が住み着いたのは何時からだったかは覚えが無い。 三月程前から八五郎の女房のおはなが、独り暮らしを気の毒がって煮物を持っていっていることは覚えているから、その前からなのだろう。 朝方に井戸端で偶に見かけるのが、時々になり、頻繁になり。 仕立てのいい着物をきちんと着て、着物に似合わない古びた桶で水を運んでいく。 見かけるのが時々だった頃か、朝日を長い睫毛が弾いたのを見た時、これはまずいと八五郎は思った。 抱きたい。 あの睫毛が涙を含んで揺れるのを見たい。 硬そうな胸に手を這わせて、小さな尻に自分のモノを埋め込みたい。 そしてこの叶わぬ思いを、諦めねばならない‥‥。 八五郎は女性に対して勃たないことはなかったが、達することが出来ない。 親方に年季奉公に入っていた頃には、女の裸より男の裸を見ては興奮していた。 嫁をとらねばならなかったが故に隠してはきたが、独り立ち出来てからは半ば隠れるように陰間を抱きに行っている。 大工は手取りがいいとはいえ、多量の酒も博打もやらない八五郎の贅沢だった。 贅沢ついでに浮世絵も描いてもらって持っている。武将が稚児を抱いている絵を何枚か。 八五郎としては、女の格好をした幼い陰間にも麗しいだけの稚児にもそれなりの興奮しかしないのだが、手に入る精一杯のそれらで、おはなの目の届かないところで自分を慰めていた。 浮世絵の隠し場所は、大工の仕事で使っている道具箱だ。 箱の底にぴったりと板をはめ込んである。 その板の下に、畳んだ浮世絵を大切に仕舞っている。 勢い道具と道具箱の扱いは丁寧になるのだが、それが仕事を呼ぶこともあって、世の中何が幸いするかわからないと八五郎は密かに笑った。 「ご亭主殿、熊さんの処にちょいと出かけてまいるから、留守居をしておいてね。」 煮物の鉢を持っておはなが髪を撫でつける。 長屋の端の男の処に行くのだ。 男の名前は、たしか熊五郎といった。 井戸端での話を集めれば、どこかいいところの商家の放蕩息子が家を追い出されてこの長屋に住み着いたのだとかなんだとか。 何でも口の堅い男だそうで、長屋中の女衆の愚痴が惣菜と共に男の家に持ち込まれ、その愚痴は一度も男の家から出たことが無いという。 確かに、表で見る熊五郎は品がよく愛想がよく、女衆に色目を使っているところを見たことが無い。 家無しが棲み家を決めるには、世渡りこそが武器なのだろう。 「煮物持ってめかし込んでもしょうがないだろう。」 「やだ、おときちゃんやおふじさんに負ける訳にいかないじゃない。色男の前に立つことはね、女にとって勝負の場なのよ!」 片目をつむって明るく言い放つおはなは、普段から腹に抱え込まないほうだ。それでも言いたい事があるんだというから、まったく女という生き物は。 今日はどんな愚痴を食わせるつもりなのやら。 八五郎はふと思いつく。 「今日は俺が持ってくよ。」 「え?」 「鉢をよこせよ。俺にだって零したい愚痴だってある。」 「ん‥‥ま、いいか。あんたも考えることがあるんだろうしね。男同士、しっかり聞いてもらってきたら?」 おはなが笑顔で鉢を渡してくる。 たぶん、アレの話だ。 おはなを抱いても達しない事を相談しろと言っているのだろう。 八五郎は苦く笑って、おはなから鉢を受け取った。 心なしか動悸がする。 この戸を引けば、あの綺麗な男がいる。 顔を見て、声を聞いて、仕草を探って。 独りで掻く時のネタにしようとしていることを気付かれないようにだけすれば。 長屋の住人同士仲良くしておくことは、そうだ、重要なことに決まっている‥‥ と、ガラリと向うから戸が開いた。 初めて間近で見つめる男の顔は、思いの外色が白くて、心臓が一気に跳ね上がった。 「どちらさま?」 「お、おう。」 「いや、だから、どちらさまか伺ってるんですが。」 言いながら男はくつくつ笑い出した。 下がる目尻に愛嬌がにじんで見える。 「厠から戻るまで、中で待っていてもらっていいですか?どうぞ。」 手の中の鉢を見てから八五郎を家に引き込むように腕を引いて、代わりに男が戸を出ていった。 男の家の中は、意外にも賑やかっだった。 高級そうな楓の彫りの入った箪笥と、使い込んだ文机。枕屏風も無しに風呂敷で包んだだけの布団、古びた箱膳、煤けた行燈。 主だった家財道具はその程度だったが、その他が。 大きな額が何枚もあった。 縦に横に壁に立て掛けてあったり、床に転がっていたり。 組み合わせた丸や四角の図形を赤や黄色で塗ったものが描かれていて、その下にあるのは説明書きか何かだろうか。 曲がりの少なそうな、良い板の額だ。 「お待たせしました。で、どちらさま?」 男が帰ってきた。 まだ少し笑っている。 「長屋の大工で八五郎だ。おはなの亭主って言った方が早いかな。」 「ああ、おはなさんの。」 「ところで、随分と良い板を使ってるな。」 「ああ、これ?」 男は畳に上がると、八五郎を招いた。

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