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二
「見たことないかな、算額、っていうんだけど。」
「さんがく?」
「算用のね、容術っていって、形と形を内に組み合わせたものの長さを求めたり関係を求めたりする。そういう問題を、作って、解いて、額に仕立てて、神社や寺に奉納するんだ。」
男の白い手が額を撫でる。
愛おしむ様に。
成程、この男には女は要らないのかもしれない。
「何の為に。」
「何の為‥‥そうだな、問題を解けることに感謝して、って感じかな。」
「随分と曖昧だな。」
「理屈じゃないんだ‥‥好き、だから。‥‥容術の問題を作って、自分で解いて。問題を作って絵馬を掛けて、誰かが絵馬に作った問題を解いて。作るのも解くのも、難しければ難しいほど‥‥体が震えるんだ。」
そう言って男は、八五郎の目を真っ直ぐに見た。
強くて、その為だけに生きている事を訴えるような、気持ちのいい眼差しだった。
そして、ふっと目の力を落として優しく笑う。
「だからね、おはなさんを奪い取ろうだなんて欠片も考えちゃいないよ。」
「おはな?」
「え、違うの?俺の女房に手を出すなって言いに来たんじゃないの?」
言いに来たんじゃない。
だがそれ以上に本来の目的を告げる訳にいかないと、八五郎は慌てた。
「ええと、熊五郎さん、だっけ?」
「熊でいいよ。なんて呼ばれても結構。」
「じゃあ、熊。おはなは関係ないよ。人から聞いたどんな愚痴も漏らさない男ってのが見てみたかったんだ。」
「変わった人だね。」
「熊ほどじゃない。」
何となく二人で笑いあう。
熊五郎が畳に座り、八五郎もそれに倣った。
手に持っていた物を下に置こうとして気付く。
「そうだ、これ。おはなの煮物だ。食ってくれって。」
「いつもありがとう。おはなさんに伝えておいて。」
「おう。‥‥しかし女っ気のない家だな。」
「実はね、女が駄目なんだ。家を出された理由の一つがそれ。」
「家を出された?」
そう尋ねながら、八五郎は、女が駄目、という言葉を考えていた。
「噂は聞いてない?少し先の町に親の店があるんだけど、結構大きな商いをしていてね。」
「ああ。」
「兄二人はとても出来が良くて、親の期待も大きくてさ。‥‥でも俺は駄目だった。頭は悪い訳じゃないんだけど‥‥」
熊五郎の視線が向いたのは、文机。
「祖父がね、容術が好きだったんだ。で、そんな祖父に可愛がられた俺は‥‥」
「容術の道に走った、と?」
「うん。走ったどころか、どっぷり。算額の奉納に嵌ってね。開けても暮れても、祖父がくれた机の前で容術ばっかりしていた。」
思い出すように熊五郎が目を伏せて俯く。
睫毛が長いなと、八五郎は改めて思う。
「ちょっとしたことが起きて、家を出された。持って出ることが出来たのは、気に入りの箪笥と祖父の机、‥‥そのくらいだ。」
「彫りが入っている。変わった箪笥だな。」
「楓の葉がね、数を数える指のようで好きなんだ。」
「本当に算用が好きなんだなぁ。」
熊五郎の笑みにつられて、八五郎もいつしか笑っていた。
これをきっかけに、八五郎はちょくちょく熊五郎の家に顔を出すようになった。
「最近、熊さんと仲がいいみたいねぇ。相談事はどう?進んでる?」
「熊に聞けよ。どうせ通ってるんだから。」
「聞いたって何も喋んないもん。‥‥だから通うんだけど。」
カラカラと笑うおはなを、八五郎はいい女だと思っている。
明るくて頼もしくて気遣いが出来て。
その分、申し訳ないと思う。
おはなが子供を欲しがっている事を、八五郎は知っている。夜もよく強請られるので、身に染みている。
それでも、駄目なものは駄目なのだ。
形だけでも作る為、八五郎は熊五郎を訪ねることにした。
「熊!戸ぉ開けてくれ!」
八五郎が運び込んだものを見て、熊五郎が目を見開く。
「これ、枕屏風!?」
「ああ。棟梁から古いのを譲ってもらってきた。‥‥ここでいいか?」
「いいけど‥‥いいの?」
「だからな‥‥今日は、ちょっと込み入った相談だ。」
座り込む八五郎を覗き込むようにして、熊五郎も腰を下ろす。
八五郎は頭を寄せるようにして、声を小さくした。
「下の話なんだがな。」
「うん。」
「俺は子供が作れない。」
「うん?」
「どう頑張っても中で出すことが出来ねぇんだ。」
「うん。」
「仕方ねぇよな。」
「う‥‥うん。」
「よし!」
急に出した八五郎の大きな声に、熊五郎が仰け反る。
それを見て八五郎は笑った。
「相談はした。答えも出た。ん。出来ねぇものは出来ねぇ!」
「どうしたの八つぁん。何の話?」
「んー、おはなにな、子供が出来ねぇことを熊に相談してこいってせっつかれてさ。」
「出来ないものは出来ないよね。俺も出来ないから。」
「熊?」
「前にも言わなかったっけ?‥‥俺の場合、女が駄目なんだ。」
そうだった。でも、どんな意味で?
不躾を承知で、綺麗な男に八五郎は期待をする。
「家を出されたきっかけがね、親の商いの仲間たちが俺を抱いていた事を、親が知った事なんだ。」
「‥‥だいていた?」
「ああ。‥‥俺は、抱かれないと達しない。昔からだ。それこそ仕方がない。」
熊五郎はからりと笑う。
八五郎はこっそりと唾を飲んだ。この男は抱かれることを知っている。
「親は俺よりも仕事の仲間を取った。それも仕方がない。」
「‥‥」
「お蔭でこうやって、算額三昧の生活を送れるようになったんだから、結果的に良かったんだよ。特に俺にとってはね。」
熊五郎は立ち上がって、八五郎が持ち込んだ枕屏風を撫でた。
「ここに、算額の容術を書いたものを沢山たくさん貼ろうと思う。表にも、裏にも。古い問題も、新しい問題も。」
「そんなに楽しいもんなのか、容術ってやつは。」
「ああ。」
「なら、俺も学んでみるか‥‥」
「是非!いくらでも教えるよ!」
おはなに悪いと思う気持ちと、熊五郎と親しくなりたいと思う気持ちと。
八五郎は涌き出すため息を、そっと吐いた。
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