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三
話をすればするほど熊五郎は面白い男で、さる武家の奥方に気に入られて、その奥方が集めている子供たちに手習所で算用を教えながら、時間のある時は大人相手に容術を手ほどきしているのだそうだ。
「着物だけはいいものを着けてくれと母に泣かれてね。たまに使いの者が人目を忍んで訪ねてくるよ。」
「大家さんが支度したっていう台所のあれこれには、文句がつかないのか?」
「あはは、逆に俺が母に泣きついた。長屋らしい暮らしをさせてくれってね。」
振り向いた顔を文机に戻して、熊五郎は再び絵馬を書きだした。
こうなると暫くは顔を上げない。
壁に立たせた算額を眺めながら、八五郎は大工の仕事に使えそうなものは無いかと考える。
最近は、仕事休みの日のそんな時間が好きだった。
八五郎は、奉納する算額の為に一途に暮らしているこの男を、好きなのだと思う。
柔らかい笑顔も、品のある物腰も、強い意志も。心の底が落ち着く気がした。
熊五郎の、太い首、張り出した肩、広い背中。女には無いそれらを近くに感じるだけで、八五郎の渇きが癒される気がした。
「熊さーん、いるー?」
時折こうやって長屋の女衆が訪ねてくる。
今日の客はおはなのようだった。
もはや八五郎にしたら勝手知ったる熊の家。
「熊ならいるぞー。入れー。」
「やだあんた、今日はこちらにお出掛けなの。」
「おう、おはなも算額見ていけよ。」
煮物の鉢を置いた畳のへりにおはなが腰掛ける。
暫く時を置いて、熊五郎がおはなに向いた。
「いらっしゃい。奉納前の書きかけだけれど、よかったら算額、どうぞ。」
「‥‥あたし何にも分かんないけれど‥‥この、扇形の中に丸が幾つもあるのは綺麗だと思うわ。‥‥意味は分かんないけど。」
「綺麗だと思ってもらえるだけで嬉しいな。煮物、ありがとう。」
「またどうぞ。‥‥熊さんにはこの額が恋人なのねぇ。」
「そうだね、何より愛しいね。」
「この人には大工の仕事があるしねぇ‥‥あたしにも、子供でもいればいいんだけど。」
おはなはここに来ると、八五郎の目の前でも子供欲しさを口にする。
八五郎が開き直ったのを気付いたのか夜の誘いの回数が増えてはいるが、子供が欲しいと口で言われたためしがない。
自分の家では一切言わないのが、おはなのけじめらしかった。
「この人ね、あたしが道具箱に触ろうとすると怒るのよ。大工の命なんだから触るんじゃねぇ!って。あーおっかないおっかない。」
「八五郎さんの仕事は評判がいいからね。道具を大事にしているからでしょ。」
「派手な酒の飲み方もしない、博打もやらない、あたしが欲しがる物は大概買ってくれる‥‥理想的な亭主だとは思うけどさ、」
「けど、なんだよ。」
「こう、子供とさ、三人川の字で寝てみたいじゃない?」
八五郎は顔を伏せるしかなかった。
横で熊五郎が笑いだす。
「俺の恋人が算額なら、八つぁんの恋人は道具箱か。鉋と三人川の字で寝てたりしてね。」
おはなが鼻を鳴らす。
「そんな固いものより、女の柔らかい体の方がずーっと気持ちいいと思うけど?ね、ご亭主殿?」
「馬鹿な話なら表へ出て誰か捕まえてこいよ。ほら。」
「おーこわいこわい。」
おはなは熊五郎に手を振って、出ていった。
「‥‥俺は男の体の方がいいけどね。八つぁんなんか好みだよ。キリッとした目つきとか、腕の太いところとか、胸の厚いところとか。」
「大工が褒められて嬉しいところを、よく分かってるじゃないか。」
綺麗な男に褒められて多少逆上せながらも、八五郎は流れを躱してしまう。
流されてしまうのが怖かった。
抱かれ慣れているこの男が自分の男をどう受け入れるかを考えない訳では無い。
でも、それよりも、体を繋げてしまえば、情の方を抑えられなくなるだろう。
自分には女房のいる生活があって、その上で熊五郎のもとに通えるのだ。
この時間を失くしてしまうかもしれない、それが怖かった。
算額を愛している男の、その算額以上の存在になれるのなら‥‥
そこまで考えて、八五郎はいつも考えるのを止める。
おはなは、俺には勿体ないような女房だ。‥‥大事にしないと。
「帰ったぞー。」
その日、家の戸を開けた八五郎の目に入ったものは。
肩をビクッと震わせて慌てて振り返ったおはなの姿と。
そして、開けられた道具箱の蓋と。
きれいな手拭いの上に並べられた大工道具と。
外された底板と。
広げられた浮世絵と。
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