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四
八五郎は中に入って、後ろ手に戸を閉めた。
おはなは黙っている。
八五郎も黙ったまま、畳に上がり、おはなの横に腰を下ろす。
八五郎の動きを追っていたおはなの目が、手にした浮世絵に移る。
少しして、おはなが口を開いた。
「‥‥隠してあったってことは、後ろめたい事だったってことだよね。」
「‥‥ああ。」
「後ろめたい事っていうのは‥‥若い子を抱きたかったって事?それとも‥‥」
八五郎はおはなの手から浮世絵をそっと取り上げ、床に広がる他の浮世絵と共に畳んで道具箱の底に入れた。
底板を取り上げ、手に持って遊ぶ。
「これによく気付いたな。」
「‥‥あんたが添い寝したがる大工道具を、ちゃんと見てやろうって思ったのよ。全部出して並べて‥‥、変だな、って。」
「変?」
「他の人の道具箱だって見たことないけど、でも、何か変だなって思った。‥‥ごめんね。色々いじって。」
「‥‥いいよ。」
底板を嵌めて、道具を戻す。
蓋をきちんとして、立ち上がって道具箱をいつもの隅に置いた。
おはなの向かいに座る。
「今まで済まなかった。俺が本当に抱きたいのは、‥‥‥‥」
顔を伏せ、目をぎゅっとつむる。
そしてゆっくり目を開け、顔を上げた。
八五郎は、自分の表情が思いの外さっぱりしている事に気付いた。
「俺は昔っから男が好きなんだ。女を抱いたのは、おはなが初めてだ。」
「‥‥あたしじゃ駄目だったって事じゃなくて?」
「ああ。女だってのが駄目なんだな。」
「‥‥よかった。」
「ん?」
「あたしに魅力が無い訳じゃなかったんならさ、よかったわよ。」
そう言って、おはなが破顔する。無理そうに、それでも破顔する。
おはなはもっともっと幸せになっていい女だと、八五郎は思って切なくなった。
ひと月ほどして、おはなの兄がおはなを迎えに来た。
「あたしが、あんたの最後の女だってこと‥‥誇りにするわ。」
「最後?」
「最後でしょ?‥‥最後にしなさいよ。」
そう言っておはなは笑う。
今度は五人でも十人でも子供を授けてくれる男と一緒になって、いつまでも笑って暮らしてくれと、心から願わずにいられない。
穏やかに微笑む兄と共に顔を上げて歩くおはなを木戸まで見送って、八五郎は家へと戻った。
半月掛けておはなが伝授していった家事のあれこれは、十日ほどたった今でも八五郎の生活に馴染まない。
熊五郎に愚痴でも聞いてもらいたいとは思うが、この話ばかりは自分で乗り越えなければならない気がしている。
仕事上がりの体で作るみそ汁は、今日も味が濃くなりすぎた。
ため息をついて、浮世絵の入った道具箱を見つめる。
久し振りに、掻こうか‥‥
厠へ行こうと立ち上がり、戸を開けてぎょっとする。
戸の横に、熊五郎がいた。
「なにやってんだ。」
「あ‥‥こんばんは。」
「何やってんだって聞いたんだけどな。まあ、入れ。俺は厠へ行ってくる。」
熊五郎を家に引き入れ、八五郎は厠へ向かう。
久し振りに熊五郎の顔を見て、ささくれた心が凪いで行くのに気がつく。
前にもこんなようなことがあったなと、少し笑った。
家に戻ってみれば、熊五郎は立ったまま家の中を見回している。
「ここに来るのは初めてだったか。」
「うん。‥‥人の暮らしがあるなぁってね。」
「ま、算額の為の熊の家とは違うわな。」
熊五郎を畳に上げて座らせ、八五郎は湯呑に酒を注いで出した。
熊五郎は湯呑を見ない。畳を見つめている。
そして思い切ったように顔を上げると、改めて八五郎に向かって頭を下げた。
「八つぁん、申し訳なかった!」
「どうした、熊。顔を上げろよ。」
「あれは、おはなさんが出ていったのは、俺の所為だ。」
「何がだ?」
「俺が‥‥八つぁんの恋人がおはなさんでなく道具箱だなんて言ったから。」
「そんなこと、」
「仲のいい二人が別れた訳なんて、他に思いつかないんだ。本当に済まなかった‥‥」
八五郎は湯呑を脇にずらして、熊五郎に膝を詰めた。
頬が緩む。世間を知らない男の優しさと勇気が、くすぐったくて愛おしかった。
熊五郎の頬に手を当て、顔を上げさせる。
「そんな言葉一つで夫婦が別れるかよ。ほんっとに熊は、算額以外のことにからっきしなんだな。」
「八つぁん‥‥」
「見せてやるよ、別れた訳ってやつを。」
頬から手を離して八五郎は立ち上がる。
道具箱を持ってきて、熊五郎の前に座った。
蓋を外し、道具を出して、底板を外す。
取り出した浮世絵を開いて、熊五郎の前に広げて並べた。
「これは‥‥」
「俺はな、おはなの中に出すことが出来なかったんじゃあないんだ。女の中に出すことが出来ないんだ。」
「八つぁん‥‥」
「俺は、男相手じゃないと達しない。随分若い頃からだ。」
「‥‥」
「だから、おはなとの間に子供が出来なかった。だから、子供が欲しかったおはなと別れた。」
「‥‥」
「熊は何にも悪くないよ。」
八五郎は、子供にするように熊五郎の頭に手を置いた。
熊五郎が頭を上げて、八五郎の顔を見た。
「‥‥八つぁんは‥‥この長屋を出るの?」
「なんでだ。」
「新しい女房をどこかで探すの?」
「探さねぇよ。この長屋で一人で暮らしていくさ。」
「‥‥俺が、」
言い淀む熊五郎の言葉を、頭の手を下ろして八五郎は待つ。
「‥‥俺が八つぁんと暮したいくらいだよ。」
「熊‥‥」
「こんなこと誰かに思うのは初めてだ。八つぁんが男を抱きたいなら、俺の体を抱いて欲しい。」
‥‥この男は、人に恋したことが、まだ無いのか。
不意に抱き締めたい気持ちが起こって、八五郎は熊五郎の背中へと尻をずらす。
両腕で肩を抱き込めば、女には無い確かさを持つ広い背中がビクリと揺れた。
「抱いていいのか?」
「‥‥八つぁんと、もっと近くになりたい。」
八五郎は熊五郎の体を寄せて首を反らさせると、その口を静かに吸った。
「‥‥俺の家に行かないかい。俺‥‥その、声が大きいらしいから。」
熊五郎に体を預けられて、八五郎は男が熱くなるのを感じた。
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