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Ⅰ-Ⅰ
風が心地いい。
若葉の香り。木の葉のさざめき。
…そうか。
冬は終わっていたんだな。
丘の上から見下ろす街はいつもより新鮮だった。
手が届く範囲に来たというか、現実としてちゃんと俺の目の前に広がっている。
手前の屋上のその向こうに乱立している、白を基調とした小さなビル群。
その奥に、やっとな感じで海が見える。
遠すぎるせいで、ここからだとやたら薄べったい印象になってしまうのが残念だ。
青空を濃縮したような紺碧の湾の上には、いくつかのでかい船が小さな白い点となって浮かんでいて、まるで、待ちわびていた春を全身で享受しているかのように動きがない。
明日からはあの場所がようやく俺のものになる。
ひざ掛けの下に隠しておいたタバコを取り出してライターで火をつけた。
何度かくゆらせたあとに、一度、深々と吸い込む。
少し溜めてからゆっくりと吐き出すと、柔らかい風が、陽光に白んだ街へ溶かした煙をしらしらと運んでいく。
「……ふう…」
…うんまーい!
ここへ来たら絶対楽しもうと思っていた“ご褒美タバコ”。
…とはいえいつも喫煙室で吸ってるのと同じやつだけど。
いやでも、やっぱり喫煙室の狭苦しい空間で吸うタバコとは全然違う。…うむ!この開放感たるや!
「タバコ、やめなってば優海 」
後ろから颯也 の声。
見上げると、颯也は少しかがんで、軽く覗き込むようにしながら車いすに座る俺を見ていた。
木立からあふれた陽光が、柔らかな髪の輪郭をきらきらと輝かせている。
真っ直ぐに俺を見つめる黒く澄んだ瞳が軽やかにほほ笑む。
すると、まるでその瞳からも細やかな陽光の欠片が俺に向かって次々とこぼれ落ちてくるようで…俺は思わず息を飲んだ。
目の前に突如として眩い光をまとった大きな美しい天使が舞い降りてきた――
…そんな、荘厳かつ陳腐な錯覚を覚えてしまったのだ。
(…いやいやいや!)
俺らしくもない!
(天使だと!?)
颯也だし!
慌てて前を向き直る。
陳腐な妄想による動揺をかき消すかのように、颯也の言葉に答えないままもう一度タバコをくわえ直し、さっきより深く吸ってから、いっそう大きく吐き出して見せる…
…つもりが、変な吸い方をしてしまったので思わずせき込む羽目になった。
「…ふふ」
(あ、笑ったな。)
俺の幼稚な照れ隠しを。
(…でもきっと、いい笑顔だった。)
見ときゃ良かった。見逃した。
携帯灰皿の口を開けて、でもこのまま消すのもなんだかシャクなので、灰だけ落としてまたくわえた。
別にタバコで体を壊して入院してたわけじゃない。外科病棟にいたんだ。
結局ここでも禁煙はできなかった。だって売店もあるし喫煙室もある。だいいち、俺はもう立派な成人男性なんだし…
「っく」
ふいに耳を撫でられて、完全に油断していた俺は驚いてタバコの灰を落としそうになった。
慌ててタバコをつまみなおす。
「なんだっ!急に触んな灰が落ちる!」
「あ、ゴメン。だって、」
声のする方向にさらに驚いた。
反射的に首を動かすと、颯也は俺のすぐ真横まで顔を下ろしていた。
俺が急に横を向いたので驚いてしまったのか、見開かれた颯也の黒目が俺の目の前で何度かしばたく。
「…なんだよ。…俺じゃなくて、景色見ろ、景色」
とっさにそれしか言えなかった。
(…あ、)
そしてようやく気づく。――『だって、』
そっか…
キス、しようとしてたんだ。
時すでに遅し。
颯也は一瞬すごく寂しげな表情になって、さっと俺から顔を離した。
かがんでいた姿勢までもを元に戻すと、俺の横を数歩進んでから芝生の上にストンと腰を下ろす。
ゆったりとした動きで手を後ろにつき、ため息なんか吐きながら気持ちよさそうに足を伸ばして、眼前に広がる景色を俺に言われたとおりに眺めはじめた。
…直で座ると汚れるぞ。その、上等そうな春物のコート。
…いや、それより、
(そんな手前に座ったら顔が見えないじゃないか馬鹿野郎)
……なんて、俺はまた幼稚なことを考えてみたりする。
(……なんだ。)
キスか。
(…しまった。)
…俺だって、やぶさかじゃなかったのに。
(久々だったから。)
(いや、だって急に来るし。)
……もう一回お願いします、なんて、俺からは死んでも言えないし、言わない。
――にしても、さっきの顔。
今にも泣き出しそうだった。
たかがキスをかわされたくらいで、あんな顔しなくても。
「寒くない?」
颯也は前を向いたまま俺に言う。
「ん。今日はあったかいから平気」
「そか」
病衣だけど、カーディガン羽織ってるしひざ掛けもある。
「……はあ~…」
颯也はまたゆっくり息を吐いた。新鮮な春の空気を溜め込むみたいに。
「いい場所だなあ、優海 」
「…廊下から見えてて、ずっと気になってたんだ」
「ふうん」
目の前にある屋上は俺が入院している病院の屋上だ。
病院の敷地内にはいくつかの散歩コースがある。
花壇がきれいに整備された中庭のコースはリハビリで何度か動いたことがあるが、裏山をぐるりと一周するこのコースだけはまだ制覇できずにいた。
リハビリで廊下を歩きまわっていたとき、小高い山の上に平地になっているらしい場所があることを見つけて、案内板を確認すると展望台があることがわかった。
何度か挑戦してはみていたものの、どうしても途中で力尽きてしまい行けず終いになっていたのだ。
明日で退院だから、颯也が見舞いに来てなかったらたぶん一生来ることはなかっただろう。
来てよかった。天気も最高。
せっかくの場所なのにここはよほど不人気なのかコース上ですらこれまで1人の人間にも会ったことがない。
まあ、それもそうか。
『ふれあいの森』などというとぼけたコース名の割にはうっそうと茂った木々がコースを日陰にしてしまうので冬の間は近寄りがたい雰囲気がある。
なだらかにしつこく続くヘアピンカーブの斜面を登るのも実に面倒くさそうだし。
…あ。
(そうだ。)
「上り坂がめんどくさいだろ。だからあんまり人も寄り付かない」
…だから、いいんですよ。キスくらいしたって。
誰もいないから。見てないから。
…なのに颯也は動かない。
(…ちっ)
…この鈍感野郎。
俺の顔を見なくてすむとこに座り込んだのは、俺にかわされたのがそんなに恥ずかしかったからか?
あのときより少し伸びた颯也の髪の隙間から、ちょこん、とのぞく耳の輪郭。
…ここからじゃそれだけしか見えない。
むき出しにされた耳を凝視して颯也の感情の機微を読み取ろうとするものの、そこからの情報は皆無。
ふと、そこに触れたい、という衝動的な感情に突き動かされそうになる。
さらさらと柔らかなその髪をかきあげて、輪郭をなぞってみたい。
するん、とした颯也の肌の感触は、ここに届く春風と同じくらい、優しく、まろやかで、さぞ気持ちのいいものだろう。
…颯也に、触れたい。
背中から抱きしめて、肌のにおいを胸にたっぷりと溜め込んで、頬ずりをして、…キスをしたい。
(…だけど、無理だな)
義足置いてきたし。
そもそも俺はそういうキャラじゃないし。
そういうことはあえてしないようにしているんだし。
指でつまんだタバコをまた唇に運び、フィルターごしの煙を吸いこんでから離し、今度はタバコの煙が嫌いな颯也とは逆の方向へと吐き出してみた。
が、春風に乗った煙のにおいはどうせいつかは颯也に届く。
携帯灰皿にタバコを押し込んで、ぎゅう、と押し付けて火を消した。
所詮タバコなんて旨いと感じるのは最初の一服目だけで、そこから先は時間つぶしのための単調な往復運動に過ぎない。
(……)
キスして。
…とは言わずに、
「会社どうなってる?」
にする。背中だけしか見えないが、こいつ、なんだか前より少し痩せた気がする。
「うん、大丈夫、心配ない」
「…ふぅん…」
…いつもと同じ答え。
だろうな。俺なんかがいなくたって、颯也ひとりでも会社はまわる。
質問を変えてみる。
「ちょっと痩せたんじゃないのか?」
颯也は少しあってから、
「それはそーだよ。優海 のまかない、当てにしてたもん。旨いよねー、優海の親子丼」
と、言った。
…ほーら。やっぱり俺に合わせてくる。
俺が心配そうにすると颯也はいつも俺が好みそうなことを言って場を和め、明るい方向へ話をそらそうとし始める。
「やっぱ優海がいないと駄目。頭の回転だって鈍るし」
颯也は付け足した。
(……)
うれしい。……でも、
「……知らんし」
その反面、俺は、昔の俺の戸惑いを思い起こして、心を少しざわつかせる。
大学にいるころ、颯也は学費と生活費の足しにするために少ない元手で投資を始めた。株や為替などの証券取引だ。
火傷するぞ、やめとけ。
俺は忠告したが、颯也はそっちの分野でも天才だった。
少ない元手で始めた取引をあっという間に軌道に乗せ、手のひらでコロコロと土球を転がすようにしながら雪だるま式に資金を増やしていった。
颯也を真似て投資に手を付けた馬鹿が数人いたが、今の時代証券投資なんてのは一筋縄で行くほど単純なものじゃない。みな大火傷を負って撃沈していった。
取引で得た収入で親に新車を買ってやるなんて、フツーの大学生に出来るか?
だが颯也にならできる。フツーじゃないからな。
颯也の知能指数はIQ170を超えている。
ようするにこいつは化け物なのだ。
俺は颯也の幼なじみで、大学までほぼ同じ学校だったから、こいつのことはよく知っている。
昔から天然でバカ丸出しなのでついつい忘れそうになってしまうのだが、颯也は実に頭がいい。
博学、というよりは、まさに天才。
というのもこいつは、一度見たり、聞いたり、読んだりしたことを決して忘れない。
全部記憶してしまうのだ。
たとえば株価の数値や上場会社の名前や、個々の会社の株価の値動きや変動パターンなど。
颯也はそれらをいとも簡単に頭の中に整理して保存し、分析し、次の株価の動向と持ち株の増減の判断を瞬時に見極めてしまう。もちろん、経済界のわずかな動きにだって機敏に対応する。
その計算の素早さと情報処理能力の的確さは、頭の中にスーパーコンピューターでも飼ってるんじゃないかと思うほどだ。
人間の脳の使用領域はわずか1%程度と言われているらしい。
なるほど颯也には、残りの99%を自在に使いこなす機能が生まれつき備わっているのに違いない。
俺は“運”というものを信じなくなった。
天才の手にかかったら、自分の運命なんていくらでも好きなように変えられる。
颯也を見ていて、それがいやというほどわかったから。
名門に編入したければちょっと勉強すればいい。
金がなければ作ればいい。
そんなわけで、大学を卒業するころには颯也の懐にはそれなりの資金が蓄えられていた。
卒業後、その資金を元手にして、颯也は帰国して小さな会社を作った。
颯也は学生の頃から株のトレーダーとして資金を回すいっぽうで、個人でデイトレーダーをやっている複数の人間に対し、自分の分析能力を使って今後の取引についての簡単な指南役を買って出ていた。
会社は、簡単に言えばそのアドバイザー能力を利用して、個々のトレーダーの相談に乗り、彼らからマージン(この場合は成功報酬)をもらうというもの。
取締役が颯也で、社員は俺だけ。
俺は、颯也の天才的で難解な頭脳解析結果をわかりやすくほぐしてクライアントにお伝えするという、言わば“指南役の通訳”として颯也に雇われたのだ。
颯也が日本で会社を興すと提案してきたとき、俺は颯也に、なにも日本じゃなくても、と言った。
もっと安価に起業できる国が他にもあるし、だいいちこの国は、まだ俺らのような同性愛者に対する理解が浅い面もある。
すると颯也は、すぐ俺に『じゃあどこがいい?』とあっさり聞いてきた。『優海の行きたいとこに行くから』
『……』
――…なにも、…俺じゃなくても…
嬉しかった反面、俺はあのとき、颯也があまりに俺への従順が過ぎるので、逆にひどく戸惑ってしまったことを覚えている。
卓越した頭脳を持つ唯一無二の存在であるお前に対し、俺より優秀な奴はごまんといるわけで。
俺のせいで、お前の才能が潰されてしまうんじゃないか。
それでなくとも、わざわざ自力で会社を興さなくったって颯也はそのころ様々な専門分野の団体から引き抜きを受けていた。
――颯也の、俺に対する過剰な思いやりは、不器用な俺に対する颯也なりの気遣いなんじゃないか?
――俺のことをかわいそうに思って、少しでも自分の側に置いてあげられる方法を、自分の可能性を潰してまで模索しようとしてくれてるだけなんじゃないのか?――
俺が黙っていると、颯也はすぐに俺の戸惑いに気づいた。
『ごめん、俺、優海がいないとだめなんだ』
――……
――……本当かよ…
颯也が簡単に口にするその言葉を、そのときの俺は、まったく受け入れることができなかった。
そのときと同じ戸惑いを、俺はまた感じてしまう。
だって、俺がいないとダメ、なんて言って俺を喜ばせておいて、こいつ、ろくに見舞いにすら来なかった。
いやいいんだけど。忙しいのはわかってるから。だけど。
――やっぱ優海がいないと駄目
…それは、お前の本心なのか?
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