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Ⅰ-Ⅱ
「…タバコ、やめろよ、優海 」
「……」
…まだ言うか。「もう消したし」
「体に毒だ」
なんだよ。今度は俺の保護者気取りか?
「いいの。俺が居なくても会社はまわるんだし、…」
そうとも。
「ケガしたのが俺で良かった。お前に入院でもされたら、それこそ会社が回らない」
颯也 は黙っている。俺は続ける。
「俺の脳細胞がタバコでいくつやられようが、うちの会社はお前の脳細胞さえ無事なら平気だよ」
よし、今うまいこと言った、俺。
そう。
俺なんかがいなくても大丈夫なんだ、お前は。
俺はと言えば、今や、お前がいないと路頭に迷う。
颯也の同情で食っている。…なんとも情けない話だ。
颯也には勝てない。
俺は颯也にはなれない。
…だから、俺には、颯也が必要だ。
(………)
なんか言えよ颯也。
お前が黙ったままだと、俺は、消したばかりのタバコにまた手が出そうになる。
――俺にはお前が必要だけど…
――お前には、俺は必要じゃない。
…ほら。
俺の中のどこかにいる、ろくでもない俺がまたささやき始める。
――颯也には、俺は必要じゃない。
……知ってるよ。わかってる。
颯也がいつか、俺より優秀な俺以外の誰かを選択したら、俺は喜んで颯也の前から消え去る覚悟でいる。
だって、それは仕方のないことだ。
颯也には常に、彼にとってのベストを備え置いていてもらいたい。
むしろ、天才で純粋で、優しくて思いやりがあって面倒見も良くて、しかも容姿だって悪くない完璧な男が、どうして俺なんかと一緒にいてくれるのかが不思議なくらいだ。
だから、俺は、いつだって腹をくくって待っている。
そう、いつだって。…今だって。
――でも、本当は、離れたくないんだろ?
――だって、大好きじゃん、颯也のこと。
――怖いんだろ?
――誰にも渡したくないくらい、どうしようもないほど…、……颯也のことが、好きなくせに…
ああ!
うるせえな。
どうしろっていうんだ、俺に。
俺はいいんだよ。どうなったって。
タバコを始めたのだって、こんな弱い自分を少しでも抑えこみたかったからだ。
颯也が嫌がってるのがわかると、それをわかったうえであえてやめなくした。
だって、どうせ颯也と離れ離れになる運命なら、嫌われる要素はせいぜい少しでも多く残しておいた方がいい。
凡人は天才と違って運命を変えられないからな。
(くそ…)
…俺は、本当にしょーもない人間だ。
「…ちっ」
これ以上余計なことを考えなくて済むように、ひざ掛けの中に手を潜りこませて「少し寒いな」などと独り言を言いながら足をもぞつかせてみた。
(……)
こういうときに不思議だと思うのは、ひざが当たっているのと同じくらい、ふくらはぎや足首、くるぶしや、かかとや指先の感覚までもがちゃんとあることだ。
…あーそうだった。
(もうひとつできたんだったな。颯也にはふさわしくない俺の欠点が。)
俺にはもう、足が無い。
数か月前、俺と颯也はドライブをしていた。
会社が軌道に乗って少しずつ余裕も出来てきた頃で、その日は風もなく穏やかな晴天だったこともあり、俺が提案したのだ。
「今日、休もう」
海が見たかった。なんとなく。
颯也が運転して、曲がりくねった海沿いの道をカーブに沿って気持ちよく走っていた。
穏やかな海はとてもきれいで、俺はそれだけで満足していた。
県境の海水浴場に猫がたむろしている場所があるらしいから、そこまで行って、猫とたわむれて帰る。
そんなわけもわからん目的で、車は順調に海沿いを飛ばしていた。
事故の瞬間の記憶は俺にはあまりない。
なにしろ俺は凡人だからな。
遠くに小さな島が見えて、ああいうところで颯也とのんびり釣りをするのもいい、なんて思っていたら、すごい“G”を感じて、キャアッ!、というタイヤの悲鳴のあと、衝突音がして、…
…あとはもう、真っ暗になった。
青い空がまぶしくて、濃い海とのコントラストがきれいで、…
…それきり。
カーブの前方から工事用のトラックがすごい勢いで突っ込んできたそうだ。
衝突は免れたが、颯也はハンドルを切り損ねた。
車はガードレールを突き破り、5メートル下の崖下まで落ちて大破した。
運転席は無事だったらしいが、助手席側がメチャメチャにやられたらしい。
四方八方から飛び出してきたエアバックのおかげで、俺の頭や脊髄はかろうじて助かったものの、足を挟まれた。
県境に向かっていたので救急車両が到着するのに30分以上はかかったそうだ。
そこから救助までに数十分。
トラックの運転手も手伝ってくれて、工事の関係者まで呼んでくれたそうで、総動員で俺の救出にあたってくれたのだと後で聞いた。
搬送先の病院までみんながそれぞれ必死に努力してくれたらしいが、下された決断は、膝から下の、両足切断。
クラッシュ症候群を防ぐためだった。
ただ、海を見たかった。
それだけなのに。
…この世というものは、実に、予測不能にできている。
颯也はかすり傷程度で助かった。
相変わらず全部を記憶していて、自分の完全なる前方不注意だったと言い、後日、事細かに事故の詳細を警察に説明しきったらしい。“天才”の颯也らしい。
――よかった…。俺のほうで…颯也じゃなくて。
まだ麻酔で少し朦朧とした意識のなか、泣きじゃくる颯也の頭を撫でながら、俺は本気でそう思い胸を撫でおろしていた。
信じてもいない何かの神に感謝したくらいだった。
もしどっちかが死ぬとしたら、間違いなく颯也が先に連れて行かれる。
だって、こいつ、絶対神様に好かれてるから。
颯也が死ななくて済んだんなら、俺の足の一本や二本くらい、神にでも仏にでも、悪魔にだってくれてやる。そう思った。今だって思ってる。
足を失った痛みや悲しみより、純粋にそう思えた自分がうれしかったし、誇らしかった。
――心配かけた颯也の為にも、一日でも早く復帰しよう。
結局、病院のどんな処置よりも俺のそのよくわからん誇りみたいなものが一番の心の支えとなって、その後の順調な回復につながっていったように思う。
しかし、いざ退院を目前に控えた俺の今の心境たるや。
颯也の足手まといになる覚悟なんか欠片も無くて、それどころか、昔以上に卑屈になり、いつ捨てられてもかまわないとさえ考えるようになっている。
これじゃ事故直後の俺のほうがよほど素直で可愛いかった。
でも、体が回復するのと同時にちゃんとした現実が見えて来たんだから仕方ない。
颯也が、もし俺以外の誰かのことに気づいたら、俺は即座に消えてやるんだ。
なにしろこいつは優しいからな。
事故のせいで俺への義理立てがますます強くなってるはずだから、今まで以上に俺は颯也に同情され、守られ、あげく、颯也の未来を潰すというやっかいな存在になる。
天才は運命を変えられる。
でも、そこに俺がいたんじゃ、今以上の運命には変えられない。
…颯也はすっかり黙ってしまった。
俺の卑屈さにさすがにあきれてしまったのか。
やわらかい起毛を持った春風が俺の頬を少し意地悪く撫でてから、俺と颯也との隙間をさらさらと通り抜ける。颯也の髪をすきながら。
ああ。俺もそこに指をうめたい。
でもやらない。車いすから降りられないせいもあるが、もし出来ても、たぶんしない。
颯也ならするだろう。俺の髪を触りたいときに触るし、キスしたいときにする。それが愛情表現だと意識もしないうちに。
いつからだろう。颯也に甘えることをしなくなったのは。
――俺への同情なんかで、これ以上颯也の可能性を潰したくない。
その気持ちは、事故が起きるずっと前から俺の中にあって、俺の精神の中枢に向かって何度も直接言い聞かせてくる。
だから俺も、その気持ちに従う。
――今、俺の目の前にいる颯也を、いつかは失ってしまうかもしれない。
…俺にとって、それは耐えがたいことだ。
仕事や生活のことを抜きにしたって、颯也がいない人生なんて、考えられない。
でも、…耐えがたいことだけど、俺だけが耐えればすむことなら、俺は耐えられる。
颯也さえ、幸せでいてくれたら。
どこかで生きてくれさえすれば。
俺は、それだけで幸せになれる凡人のはずなんだから。
(……ん…?)
ふと、颯也の耳が赤みを増していることに気づいた。
後ろに回した手の、芝生に埋もれかかった指先が、軽く震えている。
(え、コイツ…)
泣いてる?
えっ
なんで…
俺、そんなにひどいこと、なんか言ったっけ?
『ケガしたのが俺で良かった』
…あ。
……そうか。
俺はまた忘れてしまっていた。
こいつが“天才”だったということを。
夜中に時々、俺を激しく呼ぶ颯也の声で目が覚めることがあった。
おそらくあの時の記憶の声だったんだろう。
颯也がなにかわめいていた。何度も俺を呼んでいた。
凡人の俺ですら、その記憶は、なんとなく残っていたのに。
…そう。颯也は天才なんだ。
一度目にしたものは、二度と忘れない。
…忘れることができない。
俺の知らない事故の瞬間も、車に挟まった俺の姿も、全部脳裏に焼き付けて、きっと、何回もフラッシュバックを起こしていたに違いない。
…それなのに、俺は…
『会社どうなってる?』
『お前に入院でもされたら、それこそ会社が回らない』
颯也のことなんかまったく気にかけない様子で、体裁ばかりを口にしていた。
『大丈夫か?』
その一言を言わなかった。
『お前もつらいんじゃないのか?』
『一人で抱え込んで、ずっとつらかったんじゃないのか?』
(………)
…『キスして』
…俺にはその一言が言えない。
愛情を表現できない。すべきじゃない。なぜなら、
――俺への同情なんかで、これ以上颯也の可能性を潰したくないから。
…本当にそうだろうか。
本当は、自分が傷つきたくないだけなんじゃないのか?
颯也のことを思うふりをし、いつ捨てられてもかまわない、なんて、本当は颯也に捨てられたときの言い訳を作りたいだけなんじゃないのか?
臆病な俺の自我は、自分のプライドを守るために感情を抑えこみ、そしていつのまにかそれを失い、あまりにも味気なく、つまらないものになっていたのかもしれない。
…そんな、身勝手で無神経な俺の態度に、颯也が傷つけられ続けていたんだとしたら…
(……だったら、せめて、今だけは…)
「…颯也」
颯也は答えない。
「な、颯也、俺も芝生に座りたい」
颯也は動かない。
見せてみろ、顔。
「じゃあいーよ、このまま転がり落ちるから」
携帯灰皿とタバコをひざ掛けにくるんで下に落とし、いすをわざとギシギシ言わすと、そこで颯也はようやくこっちを振りむいた。
ほら。
泣いてた。
目が真っ赤だ。
ぬぐえなかった涙をボロボロと頬にこぼしている。
…ああ。
ごめん、颯也。
今のお前、クソかわいい。
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