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おまけ Ⅱ
【 12月25日 】
得意先との打ち合わせを終えて寝室に向かったのは午前2時を少しまわった頃だった。
優海 はぐっすりと眠りこんでいる。
優海が点けてくれていた淡いダウンライトの灯りを頼りに、起こさないようにそっとベッドへ潜り込む。
羽根布団の下で横たわる細い背中に寄り添おうとして、ふと、優海の肩の向こうにスマホを見つけた。
何かを見ていて寝落ちしてしまったようだ。
薄暗いオレンジ色に染まったシーツの上に浮かび上がる、黒くて平べったい硬質の板。
枕に寄りかかるように姿勢を斜めにして、じっと沈黙している。そのすぐ下、シーツの上に、優海の白い指先。
ヘッドボードの上に置きなおそうと優海の肩越しにそっと手を伸ばしていて、
―― むくり
突如として湧き上がった好奇心にその手が止まる。
(…何を見ていたのかな)
仕事関係の書類だろうか。
動物のおもしろ動画だったかも。
…エロ動画だったりして… …いやいやいや。
片肘をついて固まったまま、こっそりと優海の顔を覗き込む。
きれいな横顔。わずかに開いた口元がかわいい。ゆっくりと呼吸を繰り返すたびに鼻からかすかに寝息が聞こえる。
前髪の向こうにある薄いまぶたと長いまつ毛は、優海が完全に眠りに落ちていることを教えてくれている。
いやいや。だからなんだ。
いやいや。でもね。
気になるじゃない。
眠りに落ちかかる優海が、最後に見ていた秘密の画面。
いや別に『秘密』ってわけじゃないけど、優海ってほら、長年連れ添ってもどこかまだ読めない、ミステリアスな部分があるじゃん?
無防備にさらけ出されたスマホのホームボタン。
そこをちょっと動かして、すぐ下にある優海の指先を付けてあげれば、なんと…
ロックの解除ができます。どうします?
怖いよね最近のスマホは。
指紋認証なんて、こんなときは覗き見のチャンスを与えてくれる魔法のカギにしかならないよ。
指紋認証が始まる昔、警戒心の強い優海は暗証番号を12桁も付けていた。
それでも俺は、一度でも目に入ってしまえばその番号が無意識に脳内に取り込まれてしまうので、見えてしまったときはすぐに自白して優海に番号の変更をお願いしていた。やましい気はまったく無いけど疑いをかけられるのもいやだし。
暗証番号を12桁もつけるほどの優海の機密情報。
それはなんでしょう。
いやいや。
いかん。
だめだ。
…気になる。
俺たちは二人でひとつ。
だけど、まだ、優海のなかには、俺の知らない何かがたくさん隠されている気がして、俺は、そこを覗いてみたくて仕方なくなる。
知って、取り込んで、わかっておきたい。
優海と同じように感じていたい。常に。
優海の、そのすべてを。
「…… ンん…」
(!!!!!)
優海がわずかに肩を揺らして喉を鳴らした。
伸ばしかけていた手を高速で引っ込め、そっと、そうーっとマットに肩をつける。
(…バレたかしら)
おいらの、卑劣で低俗な最低行動。
「……った…?」
かすかな呟き。
――終わった?
「…うん。ごめん起こした?」
肩が揺れ、もぞりと俺のほうに近づいて来る。
俺の胸まで到達すると、優海は背中を俺の胸に押し付けた。
胸に沿って、背中を丸める。
だから俺もすくい取るように優海を迎え入れる。
…気づいてなかったみたい。
今さらながら、自分の愚行を猛省する。
ごめんなさい優海。もう二度としようとしません。
優海の体から届けられるそのぬくもり。
それは血流にのって俺の全身を一気にほぐし、頭の芯までぬくめてくれる。
―― 優海の体は俺のためにできている。
そう思えるのは、背中のカーブや、筋肉や骨の形、その硬さまでが、あまりにしっくりと俺の形に馴染みこむからだ。
(……最高)
「……」
優海はため息を付きながら上を向いた。
『キスして』の合図。
目はまだ閉じている。眠そう。
かわいい唇に、俺の唇を重ねる。
優海の口内にはフレッシュミントの香味がまだ少し残っている。
軽く舌を合わせていると優海の瞳が開いた。
「…歯、磨いた?」
「…磨いたけど、そのあとでリンゴ食べちゃった」
「だろうな…ふふ」
優海は柔らかくほほ笑んだ。
ほんのりとした照明に浮かぶほほ笑みは神々しくもあり、仕事の打ち合わせでまだどこか凝り固まっていた俺の脳幹をあたたかくほぐしてくれる。
優海は、少し変わった。
前より感情をオモテに出してくれるようになったというか、俺のキスや甘えを許してくれるようになったというか、…むしろ、優海からキスしてきたり、甘えてきたりしてくれることが多くなった。
優海を繋ぎとめておかなければという焦燥感や、優海の機嫌を損ねないようにしたいといった警戒心は昔ほど必要なくなったように思う。
優海の存在をますます近くに感じ取れるようになって、俺はとても嬉しい。
…とはいえさっきは優海に対して無用の勘ぐりをしてしまい、スマホの中身を無性に気にしてしまった俺だけど。
俺の視線が無意識にスマホに行っていたのか、優海はくりんと顔を倒して「あ、」と言った。
俺の胸の中でもぞもぞと動くと、無造作に手を伸ばしてスマホを取り、
「見る?」
と、さも簡単に言ってきたのでドキリとする。
スマホのロック画面は俺とおそろい。
優海の誕生日に、うちのベランダに広げたプールから優海が撮影した写真。
そこには薄暗い桃色になりつつある雲ひとつない空と、それを映しとった静かな海が、まるで水平線のところで2分割に分かれているかのように上下に並んで映っている。
『いいねその写真。送って』
『うん、いいな。俺しばらく待ち受けにしよ』
『あ、じゃ俺もおそろいにするー』
『ははは、女子かよ』
あのときの会話とプールの冷たさと、ほろ酔いになった優海の心地いい重み。画面を見ただけで蘇る。
そのきれいな光景の上に、【リマインダー:空気清浄機フィルター清掃】と浮かんでいるあたりがなんとも優海らしい。
優海はホームボタンを軽く押し込むようにしてロックを解除した。
飛び込んできた画面は、また海だった。緑色の海を背景にして仁王立ちした俺が映り込んでいる。
「あ」
写真だ。あのときの。
「なんかもう懐かしいよな」
優海が言う。
優海は写真を見ながら寝落ちしていた。
一か月ほど前に一緒に釣りに行った時の写真。
ドヤ顔の俺。…釣り糸からぶら下がった、ちっさな小アジを見せつけながら。
優海はあのとき船で小島に渡りたかったようなのだが、思い付きが急すぎて身障者でも安全な釣り場がある小島とそこまで渡る船を確保できなかった。
やむを得ず堤防釣りで我慢してもらったのだが、それはそれで楽しかったんだろう。だって、『懐かしいよな』というワードが出てくる時点で、それは良い思い出のはずだから。
優海が指で画面をスライドさせると、ひとつ前の写真はムービーだった。
優海が三角ボタンを押すと画面が揺れ、とたんに音声が聞こえてくる。
『…てっ!来た!今度こそ来たよ優海!』
折りたたみチェアの上の黒いダウンジャケットから着古したジーンズがにゅっと伸び、その向こうに堤防と、奥のほうで釣りをしている釣り人の姿がいくつか映る。
カメラはリールを巻きあげる俺の不慣れな手元を映し、それからなぞるように釣り竿をたどって一瞬だけ青い空を映し出した。それからすぐにスパンすると、今度はキラキラと輝く海面。
すでに浮きは上がりかけていて、その先にアルミ色をした何かが映っている。
俺はこのとき本当に『あ、やばい。あれはアルミ缶か何かのたぐいだぞ』と思った。
『あー…これ撮んなくていいよ優海… …あっ』
ちがう。アルミ缶じゃない。
『あっ!!生きてる奴来てるこれヤバイ!!』
…ヤバイのは俺の脳のほうだぞ、俺よ。
『ははは!小さいけどなんか釣れてる!優海撮れてる!?』
そのとき、画面は魚ではなく、なぜか俺を映し出した。
少し下からのアングルになっているので、俺の顔は青空の中、半分ダウンジャケットに埋もれながら揺れている。
『お~。おお~!』
ようやく画面に小さな銀色の小アジが映った。俺が目の前に引き寄せたのだ。
『はははは!小さい!』
俺がカメラを振り向くと、何がうれしいのか子どもみたいに笑っている。…そんなに小さなお魚いっぴきで。
『ちょ、離れて。記念撮影するわ』
笑いを含んだ優海の声がして、言われたとおりに後退していく俺。まだニヤニヤしている。
釣り糸を掴んで、その先にぶら下げた小魚を誇らしげに掲げてみせた。
そこで画面は静止した。
さっきのドヤ顔は、それからの記念撮影の画だった。
「…ふふ」
優海が俺の胸の中で小さく笑う。
再び指で画面の三角を押したので、俺の、今となってはいやに間抜けな『…てっ!来た!今度こそ来たよ』が始まったので
「ちょ、もう勘弁してよ」
優海に泣きつく。
あれから俺は何匹かの小アジを釣り上げ、優海はなんとイカを釣った。
優海の釣ったイカを見て、周りの釣り人が低い歓声を上げていた。
持ち帰ったイカは絶品イカスミパスタになってその日の夕食を飾り、イカスミだらけの小アジたちは優海が南蛮漬けにして翌日の朝食になった。
良き秋の日。
俺はあまり写真を撮らない。
記憶力が人より少しいいせいで、わざわざ写真を取り出さなくても脳内に取り込んだ画像はすぐに取り出して楽しめるから。
でも、どの記憶にも俺の姿はないので、優海が見せてくれた動画はなんだか不思議な感じだった。
これが、優海の記憶の中にいる俺。
俺は思った。
俺たちはひとつに近しい存在だけど、こんなふうに、見るものや感じることはそれぞれちがっている。
優海のすべてをわかっておきたいなんて、そんなことは不可能だ。
おまけにすべてがわかってしまったら、おもしろくもなんともないじゃないか。
このままが最高なんだ、きっと。
温め合うことができる、今のふたつの形が最高なように。
手が滑ったのか優海はスマホを掴み直した。
と、指が滑ったのか今度はカメラロール全体が見渡せる画面になった。
うわ俺ばっかり。
ふにゃけた表情を見せる俺の間抜けヅラが画面いっぱいに広がる。
優海の肩が俺の中で一瞬びくんと跳ね、優海はそこで少し急いで画面の電源を落とした。
優海はスマホを乱暴にヘッドボードへ置くと、「…誕生日どうする?」と言いながらまた俺の腕の中に戻ってきてくれた。
12月25日は、この国ではクリスマスという謎の一大イベント(浮かれた儀式)に踊らされる意味不明な日だが、実は俺の誕生日でもある。
ケーキもプレゼントもクリスマスイベントに丸被りで、幼き頃はそんな日に産み落としてくださった親御らさんをそれはそれは恨んだものだ。
今でも、外へ食事に行ってもどうにもイベントよりのコースになってしまう気がして、誕生日の醍醐味が感じられずなんとも味気ない気分になる。ただの偏屈だと優海は言う。
俺は少し考えて、
「家の中で一日中ゴロゴロしていたい」
と言った。
「なんか食べたいもんある?…」
「…ん―…」
優海が背中をますます俺に押し付けてくる。
俺はマットの側の腕を伸ばして優海の頭をすくい取った。
もう片方の腕で優海の胸を抱き寄せる。
そこに優海の腕が重なる。
「………」
食べたいもの…。
オーブンで丸焼きにしたチキンとか…あ、それ思いきりクリスマスのやつ。
前に優海が作ってくれた新鮮なタラを使ったフィッシュアンドチップス、あれうまかったなあ…
優海の誕生日に俺が作った豚肉の煮込み、あれ、優海すごく喜んでくれたな。俺の誕生日だけど、またあれ、作ってあげようかな…
クリスマスは、取引先もたいがい休みだから、二人でじっくり作れる料理もいい…
あ…でも、
「…やっぱり…一番食べたいのは……ゆう…、かな…」
呟いてみて、しかし、優海からはかすかな寝息が聞こえ始めていた。
俺ももう落ちる寸前だ。
「…おやすみ、ゆう…」
体を丸め、優海を全身で取り込んで、つむじにキスをした。
しあわせな、よき冬の夜。
【 12月25日 ~おわり~】
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