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おまけ Ⅰ

【 だからそれを「痴漢」っていうんだよ! 】  ドアベルが鳴ったので 「おかえり!」  買い物から帰った優海(ゆう)を出迎えようと玄関を開けると、優海と一緒に(ひいらぎ)さんがいた。  柊さんはうちのマンションのドアマンで、たいていはロビーに控えている。  いつもの、頭に四角い帽子をかぶった濃紺の制服姿。  細身で長身で、まだ若そうなのに姿勢が良くて気品があり、どことなくミステリアスなその風貌と職種から、うちのマンションの奥様方には『ひいさま』などと呼ばれ、韓流アイドルばりの密かな人気があることを、本人はたぶん知らない。  その柊さんが、今日は、でかい乾燥した豚の足みたいなのを抱えたまま、少し困ったような顔をして優海の後ろに立っている。  ナニアレ。  何持ってるのひいさま。 「ただいま!すごいのもらったぜ颯也。柊さんがここまで運んでくれた。受け取って。俺、冷蔵庫のなか片してくる」  優海がきらきらと嬉しそうに話すので、その笑顔に頭がへろんとなる。ああキスしたい。ひいさまがいなければ。  優海は猫みたいに俺を無視して俺のすぐ横をすり抜けると、家の中に入っていった。 「…あー、すみません柊さん仕事中に…。はは。なんすかねソレ」 「生ハムの原木です。そんなことより、少しよろしいですか?」  柊さんは端正な面差しをますます曇らせて、眉間を少し歪ませた。「あ、はあ」玄関ポーチに出てドアを閉める。  柊さんは俺がドアを完全に閉めきったのを確認すると、豚足ハムを持ったまま、声を低く抑えてつぶやくように俺に言った。 「…手籠めにされますよ」 ………はい? 「藤咲(ふじさき)様のことです」 ………はい? 「上條(かみじょう)様、この生ハムは誰にもらったものかご存知ですか?」 「え…と、い~や~…、今見たばっかなんで、「ガルシア様です」  がる…  あーハビエルくんだ。  優海がよく行くワイン屋さんのショップ店員。  苗字がガルシアだった。  南欧出身で、仕入れ専門だからカタコトの日本語しか話せないくせして、店長に『なんか店に拍が付くから』って言われて無理矢理フロアに出されて可哀そうなんだよ、…って、前に優海が言ってた。 「以前から藤咲様が買われたお荷物を運ぶついでに、藤咲様をよくエントランスまで見送りに来られていたのですが、最近は目に余るものがあります。」  ワイン屋はうちのマンションのすぐ隣にあるショッピングモールのなかにある。  ハビエルくんが、自分の休憩時間に合わせて時々優海の荷物を運んでくれていることは優海から聞いて知っていた。 「悪いとは思ってるんだけど、買いすぎたときなんかは正直助かってる」、とも。  ハビエルくんも、語学が堪能な優海に対してつい過剰サービスをしたくなっちゃうんだろう、くらいには、俺も思っていた。 「目に余る…っていうのは…」 「別れ際に藤咲様に抱き付いたり、体を持ち上げて頬ずりしたり、」  ひいさまはきれいな顔をますますふにゃんと歪ませ、 「…頬にキスしたり」 と、なんだかすごく悔しそうに言った。 「キスや頬ずりは向こうの国の習慣なんじゃないんですか?優海からはそんな悪い話は聞いてないんですけど…」 「あいさつ程度で相手をあんなに長い間抱きしめたりするもんですか!」  なんか一喝されてしまった。 「藤咲様はまったくお気づきになってない。上條様と同じく、あいさつ程度に考えていらっしゃるんでしょう、まるで大型犬でもあやすかのようにガルシア様の蛮行を」 「ばんこう」  俺がつい繰り返してしまったので、ひいさまは『話の腰を折るな』とでも言いたげに、きっ、と俺をにらんだ。 「蛮行です。無抵抗の藤咲様はやられたい放題です。今日なんて、あれは絶対ベロチューしようとしていました」 「べろちゅー」  べろちゅーってひいさま… …えっ、べろちゅー!? 「ガルシア様は寂しそうなお顔を作って何か必死に語り掛けているようなのですが、お二人は外国語で話されているので何を言っているのかまでは私にはわかりません。でもあの目つきは、絶対、藤咲様に愛をささやいているとしか思えません」 「…優海は、どんな?」 「笑いながら『よしよし、いいから下ろしなさい』的な態度でガルシア様の胸から抜け出そうとしています。それなのに、ガルシア様はそれを許さない」 …ハビエルくん、確かに、やりすぎじゃない…? 「ガルシア様は藤咲様の髪を撫でたり首筋に口をつけたりお尻を撫でたり…、特に今日は離れがたい様子で、なんなら外に停車させている自分の車に連れ戻そうとしていたので、私が止めに入ったのです」  お尻!?  首筋にキス!? …それは確かに尋常なあいさつじゃないぞハビエルくん! 「その際に気づいたのですが、」  ひいさまは歯を食いしばるようにしながら顔を赤らめると、 「…勃起…してました…」 と、禁忌でも口にするようにもじもじ言った。  え! 「勃起!?」 「確かです!股間がいつもの数倍は盛り上がっていました!」  いつもどこ見てんのひいさま!いやそれより! 「優海は知ってて!?」 「死角ですのでまったく気づいておられません!私が近づいて藤咲様に車いすに戻るよう促すと、邪魔をするなとでも言いたげにきつく睨まれました。顔が赤くなって鼻息も荒くて…あれは絶対、藤咲様に対し蛮行を働こうとしていたのです!」  なんだと!?ハビエル、あの野郎! 「…とにかく、」  ひいさまは乱れた前髪を顎をさっと振って気品よく持ち上げた。 「とても心配です。上條様からも一度お話をされたほうがいい」 「情報提供ありがとうございます、ひいさま。ぜひそうしたいと思います」 「ええ、ぜひ………ひいさま?」  差し出された生ハムを受け取り、部屋に戻った。  一目散に優海のところへ向かう。  優海はキッチンで、言ったとおりに冷蔵庫の中を整理していた。生ハムを置く場所を確保したいんだろう。 「優海、生ハム、返しに行くぞ」  俺の一言に優海が瞬時にくりんと振り向く。ああかわいい。 「なんで?せっかくハビエルがくれたのに」 「…どうしてこんな高級そうなモノをくれたのか、理由は聞いた?」 「理由?知らん。いつもワイン買ってくれてありがとう、ってとこだろ」  優海は俺の持っている生ハムをまじまじと見直して、 「でも確かに、高級品だよな。今度、俺からもなにかお返ししないと」 と言った。  待て待てい!  お返しって…ハビエルは優海に何を期待してると思ってんの!? 「優海、いつもハビエルと何話してんの?」 「…なにって…。普通だよ。故郷が遠くて地元の言葉が通じる相手が少ないから寂しいとか、そういう愚痴を聞いてあげてる」  優海ははっとしたように俺を見た。 「…なんだよ、なんか勘ぐってるのか?…大丈夫、あいつ、ただの寂しがり屋だよ」  そう言って、ウザったそうに肩に手を回し、優海が首をのばした、そのときだった。 ……!! 「…優海…首筋に…キスマーク、ついてる…」 「えっ」  優海は頭を戻すと慌てて首筋を触った。「…もしかして、ここらへん?」「…うん、そう…」  優海は少し考えているようだ。しゃがみこんで下から優海の顔を覗き込む。 「…それ…ハビエルがつけたんだろ?」 「…ん…ちょっと、今日は長ーな、とは、思ったけど…」 「…優海さ、今日、ハビエルにどっか行こうって誘われなかった?」  優海はわずかに瞳孔を開いた。…心当たりアリだ。 「…どこに連れて行かれそうになったの?」 「…生ハムの、うまい食べ方おしえてやるから、家来いって…」 ほらあ! 「お持ち帰りだよ!テイクアウトだよ!ひいさまが止めてくれなかったら今頃どうなってたと思うの!?」 「ち、ちがうって、大丈夫だよ、あいつただ、自分の国の食文化を俺に教えたがってただけだから!このキスマークもたぶん、あいさつだし、向こうの…」  プライドの高い優海は、自分の過ちを簡単に認めようとはしない。でもね!今回ばかりはおバカさんだよ、優海! 「相手の首に痕が残るくらい吸い付くあいさつなんて、どこの国のどの地域にあるんだよ!お尻だって触らせたでしょ優海!」  優海はあわあわし始めた。超かわいいけど! 「なんでそこまで知って…文化だ、文化!」  まだ認めない! 「ち・が・う・の!それね!『痴漢』っていうんだよ!優海!」  自分の魅力を自覚して、少しは防御してよ優海!  かわいいんだから優海は!  持ってかれちゃうから!  食べられちゃうんだからね! 「とにかくこの生ハムはお返します。一緒に行って話をつけてきます」 「……えー………」  優海のプライドが最後に振り絞ったか細い鳴き声は、僕のひと睨みによって沈黙した。  生ハムを戻す前に、店舗の様子を影からうかがっていると、ハビエルが流暢な日本語を繰り出しながら接客している様子が見て取れた。 …ハビエルの策略に気づいた優海は、絶句していた。  長身で褐色の肌をしたハビエルくんに小柄で白い優海が組み敷かれているところを想像してしまった俺は、その夜、ハビエルくんへの怒りをそのまま優海の柔肌にぶつけたのだった。  うん。そう。この魅惑的なあえぎ声。汗ばんだ滑らかな肌。  こんなの誰にも渡さない。  やっぱり優海は、俺が守ってやらないとね。 【 だからそれを「痴漢」っていうんだよ! ~おわり~ 】

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