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Ⅱ-Ⅲ
「………」
「…どうかな…?」
颯也は小首をかしげてみせた。いたずらっぽく笑いたいんだろうが、緊張のせいかうまく笑えていない。…颯也らしくもない。
俺が何も言わないので、颯也は俺の左手をひじ掛けから取り上げ、真ん中に持ってくると今度は両手で包んでみせる。
あたたかな手のひら。
顔を寄せ、目を閉じ、俺の指に優しく唇を付ける。
ふせられた瞳からのぞく、長くふさふさとしたまつ毛。
そのまま、颯也は俺の指を撫でるように鼻先を軽く揺らし、うつむいて俺の手に額を寄せた。
…その様子は、あたかも、神か聖職者に祈りを捧げる信徒のようだった。
俺は、颯也への愛おしさと裏腹に、不自然なくらいに冷たくなっていく自分の心に気づき始めていた。
空の青と、海の青と、その挟間に、愛おしくてたまらない颯也の、全身が、ここに、目の前にあるというのに。
目を閉じたまま、颯也はつづけた。
「俺は、優海 の足になる。俺を履きつぶすまで使っていい」
左手が痛くなるほど、颯也の両手に握りしめられる。
心臓を、直接握られているかのようだ。
颯也は顔をしかめ、眉をひそめた。
「…だから、頼むから、俺を置いて死んだりしないでくれ…」
………。
――『ありがとう』
ここは、そう言うべきときだ。絶好のタイミングだ。
颯也は事故後、足を失った俺のために忙しい仕事の合間を縫い、駆けずり回って俺好みの物件を探し、俺好みにリフォームし、俺好みの家具を用意して、そして、俺を待った。
感謝すべきときなのだ。今は、素直に。
だけど、俺の中の別の中枢が、歓喜に弾もうとする俺の神経を抑えこむ。
暗い煙みたいな雲が腹の底からぐんぐんと湧いて出て、俺の頭を押さえつける。
――どうして、俺なんかのために、ここまで?
颯也はついに顔を上げ、俺を見た。
いつものバターみたいなほほ笑みは消え去り、硬く不安げな表情が、再びペーストされている。
…俺は、どんな顔になってる?
颯也の指先が俺の頬に触れた。
「…どうしてそんな悲しそうな顔するの…?」
…そうか…やっぱり笑ってないのか…俺も。
「……じゃ…、……なくても…」
「え?」
口にしてはいけない言葉が、喉の奥から込み上げてきてついに唇を動かした。
言ってはいけない。
すでに颯也も気づいているかもしれないことだ。
そのことを、俺たちが自覚すべきじゃない。
俺が口にするべきじゃないのに。
「俺じゃなくても、いいんじゃないのか…」
腫れあがった傷口から汚れた中身が噴き出すように、止まらなくなった心の膿が、俺の脳全体を覆い尽くそうとしていた。
ほら。ささやき声が聞こえる。
俺のために、わざわざここまでしなくても。
だって、俺は、お前にとって、明らかに無用な人間なんだから。
「優海?」
俺を呼ぶ颯也の声が聞こえた途端、そこが一気に弾けた。
「なんで俺なんだ?お前ほどの人間が、なんで、俺ごときのためにここまでするんだよ」
「“俺ごとき”って…なに?優海だからだよ。優海のことが好きだか 「ちがうだろ!!」
自分が俺らしくもないわめき声を上げながら颯也を全否定していたので驚いた。
思わず前を見ると、優海も目を見開いて呆然とした表情で俺を見ている。
膿はまだ治まらない。
「お前は気づいてないかもしれないが、車だってこの部屋だって…俺に対する、ただの、罪滅ぼしなんだよ」
…どんな顔になってる?
「俺の両足を奪ったっていう罪悪感が、お前を動かしたに過ぎないんだ。わかるか?」
どんな顔で言ってるんだよ、俺は。
「お前は、俺なんかいないほうが、もっと自由に、好きなことが、なんだって出来るんだ…。…それを、俺のせいで、こんな…、」
たぶん、颯也が一番嫌いな人間の顔をして、
「…車や家やら…ははっ…こんなの…散財だぞ颯也…!……俺は…、俺なんかは、お前の人生の無駄遣いだ!」
笑ってる。
颯也の目を覚ましてやりたい。
俺は、颯也には不釣り合いだ。颯也の人生にふさわしくない。
「なに言ってんだよ優海…優海のことが大好きだから、優海の足になりたくて、今回だけは俺が勝手に動いたんだよ。…気に入らないなら謝るから。…それとも、優海は、俺の心が信じられなくなったの?」
くそっ…!
だから!
「だからどうして俺なんだよ!なんで俺なんかを好きになったんだ!」
左手を乱暴に動かして颯也の手を振り払った。
喉の奥がちりちりと激しく痛み始めているのに、溢れ出た膿は容赦なく俺を攻めたて、声を上げさせ続ける。
「お前に比べたら俺なんか欠陥だらけだぞ!?俺より優秀な奴なんか、そこらへんに掃いて捨てるほど転がってるってのに、なんで…!
……どうしてお前は…俺なんか…選んだんだよ…!」
なに言ってんだ俺は…
最後が尻すぼみになっていったのは、膿が全部出尽くしてしまったせいだ。
代わりに今度は、いつの間にかあふれてきた涙が止まらなくなっていた。
ああ。
終わった。
切ってはいけない糸を切った。
開けてはいけない扉を開けた。
――嬉しかったのに。
ただ、感謝したかっただけなのに。
…俺も好きだと、そう…言いたかったはずなのに。
颯也の手を振り切った手で両目を覆う。
「…ウッ……ク……」
なんにも見えない。
さっきまでの青空も。海も。颯也の顔も。
突然目の前がもっと暗くなった。
背中に大きな腕がまわりこんできて、押される。
ガツッ、と、半ば乱暴に颯也の胸が俺の頭を突いた。
その拍子に顔を覆っていた手が取れて、そのままぎゅう、っと抱きしめられる。
颯也の吐息が首筋にあたった。
「…優海が好きなことに、なんか理由がいんの?」
目を開くと、颯也の肩越しに潤みながら震え続ける青空が見えた。
背中にまわされた手が、俺の頭を、一度だけ、優しく撫でた。
「俺は、中学のあの夏から、ずっと優海のものだよ。理由なんか、いつか優海が死んだときに、神様にでも聞いてみたら?」
潤んだ青空が動いて、次に映り込んできたのは颯也の、俺の大好きな颯也の笑顔だった。
「でもまだ死んじゃダメ。俺の目の黒いうちは死なせない」
颯也は片手を上げて、コートの袖で俺の顔を躊躇もなく拭ってみせた。
…あーあー汚ねえなあ…。だからコートで拭くなって、コートで…
「――ふっ…」
まだうまく声を出せない代わりに軽く吹き出してみせると、颯也はますます嬉しそうにした。
ぺたん、と、颯也は俺から離れて床に尻もちをつくみたいにして座った。
「寝てないの」
俺を見上げたまま嬉しそうに言う。
「優海がいなくなってから、あんま寝てない。眠れないんだ」
「……え…?」
「最初は勃起できなくてうまく抜けなくなったから、欲求不満で眠れないのかと思ったけど、ちがう。優海がいないからなんだ。俺の周りに」
「……」
少し痩せたな、とは思っていた。仕事のせいかと思っていた。
「前にもあったんだよ。高校に入る前。9月に優海が消えちゃって、翌年の3月まで、俺ほんとに眠れなくて」
颯也は少し照れ臭そうに、鼻を2,3度、爪で掻く。
「…優海がいないと、だめなんだ。さわれる場所に優海がいないと。思い込みなのかも知れないけど。…でもあんときは頭痛や吐き気までして、…最悪だった。親にもめちゃくちゃ心配されたよ」
…そんな話…、
「……知らなかった」
颯也はにっこりと笑って見せた。
「優海と同じ高校に入学して、毎日会えるようになったらぐっすり眠れるようになった。だから別に言う必要ないと思って。俺が優海から離れさえしなければいいだけのことだし」
「………」
俺の知らなかった事実を打ち明け切ったことに満足したのか、颯也は大きくため息を吐き出しながら手を後ろについて背中を反らし、上を見てのんびり続けた。
「なのにさー、あんなのはコリゴリだったのに、今回またやっちゃったんだよ。しかも俺が事故ったせいで。コーレかなりきつかったー…」
優海は、まるで『昨日転んで怪我して痛かったよー』くらいのノリで話しているが、この数か月、本当に大変だったんだ。…俺なんかより、きっと、ずっと。
「だからね、どうせ眠れないし抜けないし、することないから俺、金儲けばっかしてた。いろいろ」
「………」
…あ。
…それって…
「優海がいないせいで思うように頭が働かなくてイライラしたけど、…まあ、暇つぶしにはちょうど良かった」
「………」
颯也は昔、編入したての名門校で、『ちょっと本気出してみた』みたいな軽いノリで、半年分の授業内容を数週間で完全マスターし、学年トップに躍り出てみせたことがあった。
…天才の本気は怖い。
そのときも思った、けど…
あのとき颯也は、眠れない時間を勉強に費やしていたんだ。
努力知らずの天才が、わずかな努力をすると、どうなるか…
――金儲けばっかしてた
この家とか…車とか…
まさか…このコ…
「颯也……お前、これ、車とか、あのこれまさか全部、…キャッシュで、買ったのか…?」
今までのその稼ぎを、全部つぎ込んで…
颯也は俺の問いかけに対し、天井を見ていた視線を顔ごとくるんと引き戻した。
「え?ああ、まあ、こんなのは裏カジノで一晩あればすぐだよ。いや、金はどうにでもなるんだ。問題は、優海が気に入るかどうか」
……うそでしょ……え…?ひとばん…え?カジノ?…裏ってナニ…
俺の脳内はまた別の意味で大混乱し始めた。
そんな俺の様子なんておかまいなしに、正面に向き直った颯也は俺の義足に手を伸ばす。
「…だから、良かった。優海が俺のところに戻ってきて。…今日からやっと、また眠れる」
颯也は義足を上下にぶらぶら揺らしてから、にいっ、と笑って俺を見た。
…そして、低い声で確かに言った。
「死ぬまで離さないぞ。覚悟しろ優海」
俺が何か言う前に、颯也はやおら立ち上がった。
「この家が嫌いなわけじゃなかったんでしょ?俺のやり方が気にくわなかっただけで」
颯也はまた、秘密のプレゼントを見せたくて仕方がないような子どもの顔に戻っている。
「な!バスルーム見せるよ!あと、優海専用にトレーニングルームも作ってんの!だって優海、自分が汗かくとこ、人に見せたがらないもんね。…ぜったい気に入るから!」
…俺の涙の独白なんてなんでもなかったことのように、颯也は嬉しそうに俺の後ろに回ろうとする。
「待て、ちょっと待て颯也、」
少し慌てて、後ろに回ろうとしていた颯也の腕をつかんだ。
「ん?なに?」
颯也が振り向く。
「ありがとう颯也。お前のこと、大好きだ」
颯也を見たまま、俺はようやく、ちゃんと、まっすぐに言えた。
あまりにさらさらと言えたので、満足した半面、とんでもない恥ずかしさがあとから来た。
「…もちろん金のことで言ってるんじゃないからな」
口を尖らせ、冗談交じりで一言付け足す。
颯也は一瞬で真顔に戻り、一度大きく開いた目を何度かしばたかせた。
「…やばい、またたった」
「………はい?」
「なんで急にそんなこと言うの…しかもそんな…エロい顔で…」
エロい顔?いや顔は普通のはずだ。
颯也はモゾモゾし始めた。
「あ、ヤバイ、あもうここでイ?舐めたいすごく優海の昨日のおいしかったヒザんとこ今スグ」
天才は、天才とは思えないおぼつかない言語力でオタオタとコートを脱ぎ始める。
…あーハイハイ。
まったく、バカ犬が…
「ここでいいよ。来いよ、早く脱がせ。めっちゃエロいことしてやるから」
首をかしげてわざと軽く舌舐めずりしてみせると、
「うわあちょっと優海!たまんないから!」
颯也は全力で俺に飛びついてきた。
車いすから投げ出されて痛い。
俺がどなろうとするとバカ犬はそれをまったく無視して舌を入れてくる。
(…タバコ、止めよう。)
颯也のために。
そう思えている自分を、俺は素直に誇らしいと思えていることに気づく。
コートの上に寝かされて、必死で俺の服を脱がしにかかっている颯也を見ていて思い出した。あーそうだ。
「…実家に帰る時間が下がるって、オフクロに言わないとな…」
「ああそれなら大丈夫、キョーコさん知ってるから全部俺と優海のことも。今日も遅くなるって言ってる。『若いのって素敵ねえ頑張って』って、『やったあ』っていう猫のスタンプ付きでLINE来てた」
あたふたと自分のズボンを下ろしながら颯也が早口でつぶやく。
…………。
えっ
「ちょっと待て颯也、俺とお前のこと母さんは知って「いっただ~きま~す!!」んのあああああああ!」
あ、青空だ。
昨日と同じ景色だ。
でも今日は青姦じゃない。
…こんなこと、誰が予想できただろう。
この世というものは、実に、予測不能にできている。
空が青い。
太陽がまぶしくてあたたかい。
きらきらとした颯也の髪。
心地いい肌のにおい。俺を呼ぶ声。
…そうか。
冬は、終わっていたんだな。
【後編 ~おわり~】
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