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Ⅱ-Ⅱ
後部座席が開き、颯也が電動カートの上の車いすを下ろす気配。
後ろを向いて「なんか怒ってる?」…と一声かけることは簡単そうで、でも俺にとっては容易なことじゃない。
完璧な颯也にとっていつも完璧でいたい俺は、オタオタと間抜けな質問なんかしたくないのだ。
後部座席が閉まる直前に一度だけ振り向いてみた。
硬い表情。
その顔は、すぐに電動スライドドアの向こうに消える。
……あのー…
どこなんですか、ここは。
そんなことも聞けない顔だった。
あたりを見回す。
薄暗い駐車場。高級車ばかりがじっとこちらを凝視していて、なんとも居心地が悪い。
助手席のドアが開き、はっとして横を向くと、颯也が表情を強張らせたまま腕を広げてくる。
「…どこに連れて行きたいんだ…?」
ホテルか?エッチがしたいのか?だったらそう言ってくれ。そんな顔のお前、見たくないし。
「…うん…」
颯也は答えにもならない、不安げな声を出した。
いぶかりながらも颯也の腕に身を任せ、車いすへ下りる。
颯也は俺の車いすを押して入口へ向かい始めた。
エレベーターホールのようだ。
ガラス張りのホールへとつづく自動ドアが開く。
「駐車場とここは、鍵を持ってないと開かないから」
「…鍵?」
センサーが反応して開く仕組みのようだ。
そんな設備、やっぱり、
「ホテルか。そうだろ颯也」
颯也が口を開いたのでからかうような口調で言ってみたが、颯也は
「…ほんとはエントランスから入るべきなんだけど…」
とつぶやくように言っただけだった。
エレベーターが開くと正面の鏡に俺と颯也が映り込む。
相変わらず硬い表情だ。
ズラリと並んだ階数表示を見て、やはり間違いない、と思う。
(ホテルじゃねえか。)
颯也が乗り込んだとたん「35」と表示された階数表示が点灯したのがエレベーターの鏡に反射して見て取れた。
入り口のセンサーといい、自動で点灯する階数表示といい、かなりの高級ホテルだな。
そういえばさっきの真新しいショッピングモールの周辺は、都市開発プロジェクトの一環として重要開発地域に指定され、近年、ホテルや高層マンションの建設と整備が盛んに行われていたようだった。
高層階の点灯からして、これはかなり手のこんだ颯也なりの演出が待ち構えているのだと身構える。
さっきからの、やたらと冷たい颯也の態度もたぶんフリだ。
俺の不安を煽っておいて、『じゃーん』、なにかしら、俺の喜びそうな景色や部屋を用意している。
…なるほど。
『ありがとう』だ。
『ありがとう、颯也、大好きだよ』
颯也の計画が明らかになったとき、今度こそ俺はそれを口にして、颯也を少しでも喜ばせ、満足させてあげなければいけない。
颯也の演出に付き合うために、俺も黙っておいてやることにする。
「ごめんね」
「えっ?」
颯也が突然声を出したのでこっちも思わずうわずった声があがる。
「車、気に入らなかった?」
あ。
「そんな《ポーン》「ついた。降りよう」
俺の言葉はエレベーターの到着のせいで遮られた。
――そんなことないよ。
――すげー気に入ったよ。
なんだよ、せっかく言おうとしてやったのに。
車いすを引かれて外に出ると、てっきり明るいホテルの廊下が広がっているのかと思ったら案外薄暗い。
空気が冷たい。
車いすが方向転換すると、殺風景なグレーの廊下が見えた。
廊下の袖壁の向こうは吹き抜けになっているらしく、上の階の袖壁が何層か連なっているのが見てとれる。
いくつかの層の上に四角くくり抜かれた青空が見えた。
(…なんだ。)
やっぱり、俺が車の礼を言わなかったから少し不機嫌になっていただけか。
まあ、それはそうだ。
これは本当に今度こそちゃんと言おう。
しっかり目を見て、『大好き』って言ってやろう。
苦手だけど、昨日はちゃんと出来たんだ。
じゃないと本気で捨てられる。…いや、それはいいんだけど。…いや、本当は…(よくないから…)
車いすは廊下に沿って進み、直角に折れて、長い廊下をまた進む。
ホテルにしては部屋数が少ない。廊下の横に大きな2か所のくぼみがあり、その奥に、それぞれ重たいダークブラウンのドアが配置されている。
自分で泊まるホテルといえばたいがいビジネスだったから、もしかするとスウィートばかりが入った階だとこういうゆとりを持った配置になってるのかも。
颯也はエレベーターの真向かいの廊下まで進み、手前のくぼみでようやく止まった。
ここか。
「っ!」
車いすが回転するのと同時にドアに張り付けられた表札が目に飛び込んできた。
「……えっ…」
俺たちの会社の名前が、透明なアクリル板を通してステンレスに彫り込まれている。
ホテルだと思い込んでいた俺はおおいに混乱した。
「…颯也…、これ……」
「…事務所の看板。でもここは…優海 の家」
……いっ…!
いえ!?
予想だにしなかった展開に思わずのけぞりそうになる。車いすの手すりを無意識につかんでいた。
「…い…、…え…、どう…え?どういう…」
颯也はいったん車いすを固定し、ドアの前に立って、コートのポケットから何か取り出した。鍵だ。
「鍵穴もあるけど、これで開くから」
そう言って、少しかがんでドアの横にある黒くて四角い合成樹脂の板に鍵を近づけた。
ガチャッ、と鍵が開くらしき音がして、颯也はドアにつけられた縦長でシルバーの手すりを引く。
「…手すり、長めにとってあるから、車いすの人でも使いやすいって。開き戸はここだけだから。中は全部引き戸になってる」
ドアが開くとフワッとしたオレンジ色の灯りが自動でついた。
颯也はドアを固定させると、また俺の後ろに回り、車いすを押し始める。
各廊下のくぼみになっていたところは玄関ポーチだった。
つまり、この建物はホテルではなくマンションだ。
――『優海の家』
えっ、でも、やっぱり……どういう、ことなの?
わけがわからないまま車いすの上で固まる俺。
玄関は、広い。
俺が入っていた賃貸物件のそれとは比べ物にならない。
塗り壁調で細かな凹凸のある白い壁紙は、半分から下が無垢の木に変わっていて、なんというか、ぬくもりのある北欧風な家のイメージだ。
いすが左に方向転換すると、少し先に行き止まりの壁が見え、右へと通路が続いている。
玄関の左側にある木製の扉は、おそらく靴箱なんだろうが、そう呼ぶにはもったいないようなデカさだ。扉は白壁に埋まるようにして天井まで続いていた。
突き当りを右に折れる。
白い大理石だった玄関の床は、右に折れる手前で横一線に仕切られて、今度は落ち着いたダークブラウンの木目板が並んだ廊下が続く。
段差がまったくない。
颯也も靴を脱ぐ気配はなく、そのまま車いすを押してくる。
土足でいいんだ…。…廊下も広いな。
…たしかに、この広さなら車いすでも十分方向転換できる。
廊下には、床よりは淡いブラウンのドアが両方にいくつかあり、ノブがなく手すりが付いているところをみると確かに引き戸になっているらしい。
廊下をまっすぐ行ったその先に、他とは違うスケルトンの採光部が細長く切り取られた扉があって、採光部からはリビングと思われる広いスペースが垣間見える。
コロコロと、車いすは颯也に押されるままスムーズにその扉へと向かっていく。
…ああ!
ああ、やっぱりちょっと待って!
なにこの高級感!
買ったのか!?金はどうした!こんなとこ、保険なんかで対応できる額じゃないよな!?
事務所ってナニ!?家って、どういうことなの、ねえ!!
「そ、颯也、ちょ、待て…」
振り返るようにして後ろの颯也を仰ぎ見たが、未だに硬く無表情なままだ。
ええ!?なんか言えよ!
俺を無視した颯也が扉の手すりに手をかけたので俺も半ばパニック状態のまま前に向き直る。
扉が静かに右に開いた。
「……っ…」
……目の前は、青空だった。
「…は…」
思わずため息を漏らしていた。
扉の向こうには20畳はあるだろう広いリビングが続き、その先が、一面青空になっている。
明るい。
颯也がその空に向かってさらに俺を進める。
空の青に目が釘付けになっていた俺は、展開される部屋の景色を、ようやく、首を必死に動かしながらおぼつかない視点で探り始めた。
入ってすぐ右に広々としたフルフラットのカウンターキッチンがあった。
高さは1m弱くらいしかないし、作業台や流し台の下がガッツリくり抜かれてあって、明らかに車いすの人専用。
あ、ちょっと待て、後ろにももうひとつ作業台がある…あっち颯也用?
あ、あ、そこ、もうちょっとちゃんと見せて…
うわデカ!
カウンターキッチンの向こう、右側の壁に張り付けられたテレビのデカさにビビる。
え、何インチ?アレ…
テレビの前には真新しい黒い革張りのソファセットがどっしりと構えていて、あ、うん、俺の好きな、落ち着いたデザイン。
ソファは床の上に直接あって、絨毯やラグマットは見当たらない。
そういえば車いすの人間がめくれたラグマットに引っかかって転倒し、身動きが取れなくなって困った、という話を聞いたことがある。そこに配慮してるのかもしれない。
玄関や廊下の壁が途中から無垢の木に変わっていたのも、傷をつけてもそれがアジになって気にならなくなるからという、車いすの俺に対する配慮なのかもしれない。
左からも光が差してきたので今度はそっちを見やると、青空がずっと続いていて、まるで壁が無いみたいだ。
向こうの部屋には真ん中にデスクが2つ、少し離れて置いてある。
颯也が前から使っていたヤツと、真新しい、シルバーの机。俺用か?
青空が途切れた左側の壁面は収納棚になっていた。本が何冊か置かれてある。
義足に引っ張られ、はっと我に返ると、俺は車いすから身を乗り出すようにしてほとんど後ろ向きの姿勢で部屋を眺めまわしていた。
ショーウィンドウをヨダレを垂らしながら覗き込む子供のようになっている。
気が付くと、後ろにいたはずの颯也がいない。
あれっと思って前を向くと、いつの間にか俺の前に回り込んで膝をついて座っていた。
表情は硬いままだ。
え、あ、それより今は向こうのベランダが気になるぞ!
広いうえにスケルトンの袖壁があって、海だ!一面、海!
「優海 」
「え、あ…、ん?」
颯也がようやく俺を呼んでくれたのに、気もそぞろになっている俺は間抜けな声を出して半ば反射的に颯也を見た。
颯也は、きれいな口角を少しだけ上げてほほ笑んだ。
「…気に入った?」
…いや、気に入るも、何も…
「…どうした…これ…」
…ああ。
ありがとう、と言うはずだったのに。
予想をはるかに超えた展開に唖然としてしまい、感謝を通り越して、今や俺の頭の中はいろんな疑問でいっぱいだ。
「優海のために用意した。…車はイマイチだったみたいだけど…ここは、どう?好き?」
さっきからの硬い表情は、演出なんかじゃなく、ただ単に、本当に、緊張していたんだ、颯也は。
それはそうだ。俺は、上昇しようとするテンションを懸命に抑え込み、能天気なお前に相応しいクールな人格を取り繕おうと必死だったんだから。
昨日は素直になれたけど、大人は急には変われない。
だいたい、車みたいな動産と違ってここまで俺仕様にリフォームした不動産を、俺が一言『気に入らない』と拒絶してしまえば、それは颯也にとって由々しき事態に違いない。
…でも…だからって…
急にこんなことされても…俺は…
颯也は膝をついたまま、笑顔を少し強張らせた。
「…ここに、優海と住みたいんだ」
「……は…?」
「まだリフォームが終わったばかりで、荷物も少ししか入れられてないけど…、」
颯也は少し視線を落とした。
颯也の右手が伸びてきて、ひじ掛けを握ったままの俺の左手を上から包み込む。
颯也はまた、ゆっくりと俺を見た。
「優海と、ここで、新しい人生を始めたい」
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