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はるかわくんの やみ -1-
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春 川
《 Last Year 》「逃亡 1」
《 DATE 3月21日 午後5時37分》
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俺にはろくでもない身内がいる。
少なくともあと1年弱、俺はそのひとから逃げ続けなければならない。
美大進学と同時に家出をし、親が不動産業をやってる親友の大窪(おおくぼ)のつてで入居できたそのころの俺の部屋にはロフトが付いていて、けっこう、いや、断然気に入っていた。
昔住んでいた家の子ども部屋にもロフトがあった。
大学も近いし、近所にはきれいに整備された小川と遊歩道がある公園もあって、立地面でも俺は大いに満足していた。
でもその日、いつもみたいに遊歩道の片隅でゼミの仲間と話したあと家に戻ると、そこにはなぜか、あのひとがいた。
見た瞬間、頭から氷水をたたきつけられたような衝撃が走り、玄関で、俺の身体は突っ立ったまま凍りついてしまった。
俺の親類と知って、元カノだったアヤネさんが招き入れたのらしかった。
あのひとは真新しいトレンチコートを羽織って、高そうなスーツをのぞかせながら、いつものように堂々と、部屋の奥に立っている。
小柄なアヤネさんの頭は、あのひとの胸の下あたりにやっと追いついてあって、あのひとはそこから威圧感たっぷりに俺を見下ろしていた。
アヤネさんはにこにこしながら俺に向かって何かを言ったが、そのときの俺にはまったく聞こえなかった。
玄関の冷たい床に足が埋まってしまったような感覚を覚え、前につんのめりそうになるのをなんとかこらえて立っていた。
そしてそこに、大嫌いなイズミさんも一緒なのが見えたときは、体中の細胞が恐怖でさらに泡立った。
いつもの白衣じゃなく、紺色のジャケットを羽織っていた。淡いピンク色のシャツの詰め襟を軽く立てている。
あのひとの隣で俺を見ていた。手にはいつもの黒い革の手袋。
そこには、開かれた俺のスケッチブックがあった。
(…勝手に見るなよ!)
思わず声が出そうになる。
イズミさんとまた目が合うと、イズミさんは俺に向かって微笑みかけた。…昔みたいに。
その笑顔を見たとたん、白衣を着て、ゴム手袋をはめた手を伸ばしてくるイズミさんが脳裏によぎり、俺は吐き気を覚えた。
「いいところに住んでるじゃないか。心配してたんだ。」
あのひとの声は、頭のなかで、重たい鐘のように反響して聞き取りづらかった。
「春くん大丈夫?」
気づくとアヤネさんが心配そうに俺を覗き込んでいた。
なんと答えたか、今となっては覚えていないが、たぶん「ナニガ?」とか「大丈夫大丈夫」とか、そんな感じ。
彼女に余計な心配をかけるべきじゃない。それは俺自身のプライドの破綻を招く。
「ゴメンね。」勝手に入れちゃって。
彼女は小さく詫びたが、そのあとで嬉しそうに
「でも春くんにあんなカッコイいオジサマが2人もいるなんて知らなかったよー。」
と、わざわざ奥に聞こえるように楽しそうに言った。
アヤネさんはかなりのメンクイだから、純粋に喜んでいた。あのひともイズミさんも、「見てくれだけ」はいいから。
―― ふふっ
あのひとの笑い声。
すぐ耳元で聞こえた気がした。
俺は、「1人は違うよ」 と小声で言うのが精一杯だった。
「晩飯まだだろう。」
予約してあるから、と、予約したレストランが入ったホテルの名前をあのひとが言うと、アヤネさんは「えー」 とか「スゴイ」 「マジで」 を連発した。
そのあとであらたまって、
「あゴメン、せっかく久しぶりに家族水入らずになるんだから、私はオジャマだよね。春くん、写メ撮ってあとで… 「なに言ってんのアヤネさんも行こうよ」
声がうわずっていたかもしれない。
でも言ったあとで、もしかするとアヤネさんにまで危険が及ぶ可能性だってあることを考えて、ゾッとした。
ホテルの高層階にあるレストランで、アヤネさんはやけにはしゃいでいた。
たぶん俺のテンションが異様に低いことで、場を取り繕おうと無理をしていたんだと思う。
料理になかなか手をつけられないでいると、彼女がまた心配そうにするので、無理やり口に押し込んだ。
味はまったく覚えてない。
あのひととイズミさんは気持ちが悪いくらい優しかった。
イズミさんの視線がたまらなく気になる。
「そうなんですよー全然話してくれないんです昔の話とか。だからお二人のこともちっとも知らなくて。だから今日は来てよかったあ。これでちょっとは春くんのことがわかるかな。」
「俺も知らなかったんだよ、美大に行ってたなんて。今日は仕事でたまたま近くに来たもんだから。」
一皿ずつ次々と運ばれてくる料理に、アヤネさんはちくいち感激していた。
「こないだ春くんにコースおごってもらったんですけど、駅前のチェーン店で。でもやっぱ全然ちがーう!」
アヤネさんはいたずらっぽく言って俺を見たけど、俺はそれらの料理をただひたすら片付けることだけに必死になっていた。早くあの部屋に戻りたい。
「小さいころからチビだったけど、結局背はあんまり伸びなかったな、俺の血筋じゃないみたいだろ。」
……やめろ。
あのひとが何か口にするたびに震えそうなほど怒りがこみあげてきたが、アヤネさんは笑っている。
「でもモテるんですよ春くんは。かわいいから。ねー?」
やめてくれ。
「私もまだ春くんには彼女として認められてないみたいで、まだ手もつないだことないんです!信じられます?」
2人が笑う。
俺は、2人がなにを言い出すか、生きた心地がしなかった。
「君たちは、でもあれだな。いい雰囲気だよ。似合ってる。もしかして、学生結婚とかする気じゃないのか?」
「やめてくださいそんなわけないでしょう!」
俺が語気を強く言ってしまったので、「まさかー」 と笑いかけたアヤネさんは固まった。
そんなことになったらアヤネさんにどれだけ迷惑をかけるか、そう思ってとっさに出た一言だったが、その言葉は確実にアヤネさんを傷つけてしまっていたことだろう。
でも、そのときの俺にはアヤネさんを気遣う余裕なんてなかったのだ。
場はすっかりしらけてしまい、それからはアヤネさんもおとなしくなってしまった。
食事が終わって店を出てから、俺はアヤネさんの手をずっと握っていた。
アヤネさんは困惑していたようだった。
それからタクシーで家まで帰る間が一番苦痛で、ずっと息苦しかった。
アヤネさんには本当に悪かったのだが、あのひとと俺から挟まれるカタチで後部座席の真ん中に座ってもらった。
あのひとがアヤネさんを先に送ると言い出したので、必死に「彼女も俺の家でいいです。」 と訴えた。
俺の家に泊まったことなんかなかったので、アヤネさんはかなり動揺したと思う。
汗ばんだ手で、とにかくずっとアヤネさんの手を握っていた。
アヤネさんの手の温もりが異様に熱く感じられていて、それは、俺の手がずっと緊張して冷えきっていたからだ。
「じゃあな。」
アパートのまえであのひとが言ったので、連れ戻されるのだと緊張していた俺の体は、少し弛緩した。
あのひとは名刺を取り出し、俺に差し出してきたので、おそるおそる手を伸ばすと、その手をいきなりつかまれた。
「!」
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