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はるかわくんの やみ -2-

 すごい力で引っぱられて、そのまま抱きしめられる。  握っていたアヤネさんの手がはなれる。  あのひとの香水と、タバコの匂い。  背中を何度か軽くたたかれながら、耳元でささやかれた。 「…待ってるからな。」  それだけ言うと、そのひとは俺を離した。  凍りついたままの俺の頬を手のひらで軽く2回たたいて、アヤネさんのほうを見ると 「いい彼女が出来て、ほんと、良かったな。」 と言い、また俺を見て 「かわいい顔してるしな。…」 ――大事にしないと、な。  意味ありげにつぶやき、ふふっ、と笑った。  睨みつけてやったつもりだが、たぶん俺はすでに泣きそうになっていたと思う。  そのくらい俺は、すっかり怯えきっていた。  あのひとの奥には、タクシーのなかで俺に微笑むイズミさんが見えて、その表情で俺はさらにどん底に突き落とされた。  イズミさんが、なにか、とんでもなく残酷なことをしでかすときの、いたずらっぽい顔をしていたから。  タクシーが去ったあと、アヤネさんを振り返る。  アヤネさんはうつむいていた。 「春くん、ごめんね。」  その言葉に答える余裕は、もう無かった。  手の中の名刺を、街灯の明かりでぼうっと眺める。  そこには会社名と、代表取締役という文字と、あのひとの名前と、住所と電話番号とメールアドレスが印字されている。 「春くん、」  裏返すと、あのひとの字で、[21:00まで待つ]とあり、近くのコンビニの名前が店舗名と併せて付け足してあった。 「春くん、私に話せることがあったら、言って…」  アヤネさんは、そう言って俺に手をのばしてきた。 「……俺、行かないと。」 「―― え?」 「アヤネさん、もう、俺とは会わないほうがいい。」  アヤネさんは目にいっぱい涙を溜めていた。 「さっきのひとたちは、…ケーサツ、とかなの?…教えてよ、春くん。私、力になるから…」  アヤネさんを見ながら、後ずさる。 「春くん…」  そのときの、街灯の下のアヤネさんは、すごくキレイだと思った。  スクーターが俺の後ろから走ってきて、アヤネさんを一瞬不思議そうに見たが、すぐに去っていった。  赤と橙色のテールランプ。  アヤネさんの白い顔と手。  赤いくちびる。  その一連を目に焼き付けてから、俺は後ろを向いて駆け出した。 「春くん!」  アヤネさんの声が遠くなっていく。 「手をつないだだけで、サヨナラなんて、ヤだから!私!」 ―― 連絡、待ってる!  アヤネさんの声を聞いたのは、その言葉で最後。  足がもつれながらも、どうしてあのとき俺はあのひとが待つコンビニを目指したんだろう。  なにも考えられなかった。  止めてくれたのは大窪だった。  コンビニの明かりが見えてきたころ、突然大窪から電話があった。 『ダイジョーブか』  息を切らせながらも、小声でささやくように大窪は言った。 『春川だよな』 俺が何も言えず黙っていると、 『アヤネさんから電話があって、さっき』 雑音が混ざるのは、大窪が移動しながら電話をしているせいだ。 『春川なんだろ?あいつじゃないよな?…だったらそう言えよ、頼むから!』 「…おおくぼ…」 『春川!…なんでだまってんだよ、あいつがそばにいるのか?』 「…ちがう…」  大窪が息を吐くのが聞こえた。 『よかった、間に合って。いいか止まれ、今すぐ。どこだそこ。すぐ行くから。』  腕時計を見る。  デジタル表示は暗くて見えなかったので、電話をいったん離して画面表示で時間を確認した。8時53分。 「…行かないと『だめだって!お前、またちゃんと頭が動かなくなってんだよ!いいから、そこ動くなって!』  大窪はちくいち俺の言葉にかぶせるように言ってくる。 「また、迷惑を 『ばか!いいんだよそんなことは!』  電話の向こうで車のドアが閉まる音がした。 『俺、車買ってもらったんだよ。だからどこにでも迎えに行けるぜ。ナビ設定するから、そこどこだか言えよ。家の近く?とりあえずお前の家でいい?』 「アヤネさんには、」 『言わないよ。もう会わないって言ったんだろ。…悪かったな。前、一緒に飯食ったとき、彼女に俺のアドレス教えてたんだ。なにかあったら連絡してくれって。』  それから大窪はゆっくり、明るく話し始めた。 『彼女のアドレスは聞いてないから!そこはぜったい。うん。電話だって、今日のが初めてだし!な、聞いてるか?俺、釈明してんですけど。』  俺が動かないように話し続けてくれてるんだ。  大窪の声を聞くうちに、俺はだんだん「覚醒」してきた。 「大窪」『うん。』  “ありがとう”とか、“大丈夫だから”とかを言おうとしたのに、つぶれそうなのどからようやく出てきたコトバは、俺のモロさを大窪に向かって再びあらわにしてしまった。 「…―こわい―…」  ばか!  なに言ってるんだ俺は!  また大窪に心配かけるようなことを!  頭ではわかっているつもりなのに、足元はふわふわするし、目の前はかすみまくって何も見えない。  不安でたまらなかった。 『…うん。春川。大丈夫だ。俺が行くから。すぐ。…』  大窪は声を詰まらせていた。そしてすぐ鼻をすする音がして、また明るい声で言った。 『…なーんでバレたのかね。』 とりあえず公園でいい?あのでかいとこ。いつもお前が行くっつってた。な、いいよなそこで。そこ向かえ。すぐ。 『見つかるなよ。』 「…だけど、やっぱり」 『大丈夫だよ。すぐだから。』  ふらふらと回れ右をしてコンビニから遠ざかり、俺はなにも考えられないまま公園に向かった。  公園について、川べりのベンチにしゃがみ込むと、あのひととの期限の時刻はとっくに過ぎていた。  川のうえには、のどに刺さりそうなほどの、白くて、細い、月。  水面にきらきらと浮かんでいて、すごくきれいだった。 ―― あのひとが探し回っているころだろう。  でも、見つかってしまえば楽になれるような気もする。俺も、大窪も。  結局、誰かに迷惑をかけなければ、生きていけないのだから。俺は。  ベンチのうえで動けないまま、「誰か」の迎えを、ひたすら待った。  どのくらい経ったのか、あのひとではなく、大窪が走って現れた。  まだ馴れない運転で、本当に俺を迎えに来てくれたのだ。  大窪を見たとたんに、体の震えが止まった。  さっきまで迷惑をかけるからと拒もうとしていたくせに、迎えに来たのがあのひとじゃなくて、俺は、心から安堵していた。 「なんでこんな、目立つとこいんだよ。」  息を切らせながらも、大窪は「俺のために」笑って言った。 「遠くから見たら、めっちゃ絵になってた。」  大窪の、無理に作った笑顔に、俺はしばらく何も言えなくなった。  大窪も、俺が泣き止むまで、俺を守るように静かに座っていてくれた。 ・・・‥‥…………‥‥・・・  大窪は俺が新しく住む部屋も手配してくれて、あのひとに見つかる5月まではそこに息を潜めることが出来た。  大学にはあれから行っていない。  2年生には進級できたようだったが、すぐに休学届を出した。  アヤネさんからは携帯電話を捨てるときまでちょくちょくメールが来ていたが、俺から返信することはしなかった。  それでも、メールが届くたび、彼女が無事であることにいちいち安堵した。  知らないひとは、怖い。  俺の「闇」の部分をかいま見ると、みんな俺の苦しみを分かちあおうとすり寄ってくる。  でも、それには、俺の傷をさらけ出すのが前提だ。  俺の「闇」を知ってしまった大窪には迷惑をかけどおしで、その事実は俺を自己嫌悪におとしいれる。  だから、俺の「闇」は誰にも話すわけにはいかない。  話せるわけない。  俺が、 ずっとあのひとたちの慰み者にされていたことなんか。 (咲伯 DATE 2月13日 午前8時23分 へつづく)

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