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第1話

「キス……して……」  消えてしまいそうな程、小さく掠れた声で言ってしがみついてきたお前を、今でも思い出す。 「ねー、早くしてよセンセ」 「もう終わるから、ちょっと待ってろ」  後ろから聞こえてくる不満そうな声に急かされるように、書類の上を走るボールペンで書く文字が雑になっていく。    放課後の保健室、今は見えない後ろにある医療用ベッドに座っているはずの生徒。  たまった書類を事務用の机に広げながら、次々と片付けていく俺。  焦ってはいるけどイヤじゃない、いつも感じる少しだけ嬉しくなるような不思議な感覚。 「よし、後一枚……」 「もう、無理。我慢できない」 「あ、瀬な――」  最後の一枚に手を伸ばしかけた時、突然背後から頬に冷たく細い指が絡み付いて、無理矢理上に向けられた顔をくすぐるような細い髪が顎に触れたと同時に、(ひら)いていた口が塞がれた。 「……んっ」 「……っ……痛」  押し当てられる柔らかい感触に目を閉じ唇を動かすと、逃げるように離れた相手の口から低い声がもれる。 「またリップ塗ってないの? マジで痛いんだけど」 「あー、すまん。忘れてた」 「キスするために人待たせといて、カッサカサの唇とか酷くない?」 「いや、だってキスはお前が……」 「俺は別に、先生じゃなくてもいいんだけど?」 「それは――ん……っ」  椅子に座った俺を上から覗きこむようにして至近距離で見つめる瀬名(せな)の表情が一瞬緩むと、再び近づいた相手の唇が軽く開き、生温かく濡れたものが口元に触れる。 形をなぞるように瀬名の舌先が丁寧に乾いた唇を這い潤すと、もう一度押し付けるようにして触れた相手の唇が滑るような動きに、俺の背中を甘い刺激が走る。 「っ……ん……」 「……はぁ……ダメだよ」  何度もついばむように動き唇を食む柔らかく濡れた刺激に誘われて、キスの合間に伸ばした舌は、先端(せんたん)に軽く歯を立てられ進む事を拒否された後、ゆっくりと離れていく顔にキスの終わりを知らされる。 「俺がしたいのは、舌入れないキスなの。前も言ったよね?」 「自分は舌出しておいて?」 「だから、先生がリップ塗ってないからキスしても痛いんだってば……。毎回言ってるけど、舐めてほしくてわざとなの?」  長いまつ毛を軽く伏せるようにして目を細めながら眉間に皺を寄せる瀬名の顔は、男子高校生にしては何故か色気があって、生徒でなければ手を伸ばしてこのまま無理矢理続きをしたいくらいだ。 「悪かったよ、明日はちゃんと塗っておくから」 「嫌なら他あたるから、別に無理しなくていいよ。正直、仕事終るまで待ってるの面倒くさいし」 「……どこで探すんだよ」 「前みたいに、出会い系とか?」 「危ないから、やめろって言っただろ」 「教師と隠れてキスするのは危なくないの?  センセー捕まっちゃうよ?」  俺の頬に触れたままの両手を離して意地の悪い笑顔を浮かべた瀬名が体を起こして視界から消えると、俺は顔を下げ座ったまま振り向くように相手の方へ椅子を回転させた。 「じゃあ、帰るね。今日もゴチソウサマデシタ、小野先生」 「また……明日な」 「気が、向いたらね」  瀬名は小さくそう言って俺に背を向けると、ベッドの上にある学生用鞄を取りに行き、黒縁の眼鏡をかけてから扉に向かって歩き出す。    ここまでが終わると、もう瀬名は声を出さない。 「気を付けて帰れよ」  俺が声をかけても無視するか、振り向かないまま片手を上げて部屋を出ていく。  まるで、キスが終わった後の俺にはもう興味がないというように。    これが、俺と瀬名との関係。  キス依存症の瀬名が出会い系に手を染めないように、教師の俺が毎日彼の欲求を満たす。  何もやましい事なんかない。ただ、毎日唇をあわせるだけの関係。  もしその先を望んでも……いや、望むことは許されない。  俺は教師で、瀬名は生徒。そして、瀬名は俺にキス以外の価値を求めていない。    そんな、不毛な関係だから。

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