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第1―1話

柳瀬は神田のホームで中央快速が来るのを待っている。 今日は12月24日。 もう日が暮れる。 ビューッと北風がホームに吹き付ける。 柳瀬は北風の冬の匂いに包まれる。 春の匂い。 夏の匂い。 秋の匂い。 冬の匂い。 季節にはそれぞれ特有の匂いがある。 それはある日突然感じられる。 そうして人々は季節の移ろいを実感して、嬉しくなったり、切なくなったりするのだ。 柳瀬も同じだ。 そして匂いは、香りは、記憶を呼び覚ます。 柳瀬の頭に吉野が浮かぶ。 その時、電車がホームに滑り込んで来て、柳瀬の思い出は一旦断ち切られる。 今日の修羅場はここから快速でも45分かかる23区外にある。 今日の担当の先生は仕事で成功を収めると、生家の側に自宅兼仕事場を建てた。 柳瀬にしてみたら出版社が集中している都心に家を構えた方が合理的だと思うが、人の価値観は様々だ。 先生は週間の少年誌で描いていて、しかも月刊誌だ特別号だと、週間の少年誌以外にも毎月4~5本の仕事を抱えている超売れっ子だ。 伝説のスーパーアシと有名な柳瀬は、この先生に何年も専属にならないかと口説きを通り越して説得されている。 たが、柳瀬が首を縦に振ることは絶対にない。 柳瀬には好きな人がいて、その人は少女漫画家だから。 誰かの先生の、しかも超売れっ子と呼ばれる先生の専属になれば、生活も収入も格段に安定するのは分かり切っている。 けれど誰かの専属になれば、その人のアシスタントには行けなくなる。 でも、その人の――吉野千秋、ペンネーム吉川千春――のアシスタントでいることは、金にも名誉にも変えられない柳瀬の幸福なのだ。 それに吉野とは、先生とチーフアシスタントだけの関係じゃない。 親友だ。 柳瀬は吉野に中1の頃から、15年以上も片想いをしていた。 柳瀬の初恋。 そしてついに告白した途端、殴られて振られた。 殴られたのは、強引に吉野に肉体関係を『試しに』と迫った自分にも非があるので、気にしてはいない。 だが柳瀬がこの世で一番嫌いな男、吉野の担当編集をしている羽鳥芳雪と吉野が付き合っていることまで分かってしまった。 最悪の日。 そんな事があっても柳瀬と吉野の関係は変わらなかった。 それは吉野が今まで通りでいたいと望んだからだ。 柳瀬に吉野の希望を拒否するなんてことは、選択肢にすら上がらない。 柳瀬は受け入れるだけだ。 吉野に気を使わせないように、 「千秋のことはすっぱり諦めた。 けど友達は続けたい。 羽鳥は嫌いだから邪魔はする」 と嘘までついて。 友達と羽鳥の件は真実だが、前半は嘘だ。 15年以上、恋焦がれていた人を、そんなにすっぱり諦められる人がいるならお目にかかりたい。 でもこの恋心は、もう一生告げることは無いだろう。 俺は千秋の一番の親友でいて、一番のアシスタントとして傍にいられれば、それでいい。 下りのラッシュに辟易しながら、柳瀬がそんなことを考えていると、神田の駅のホームで北風の冬の匂いに包まれた時に頭に過ぎった、学生時代の吉野との思い出が鮮明に蘇った。

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