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第1話
随分ときれいな子がいる。
噂が流れるのはすぐだ。ちょうど彼を作業ルームで見掛けるようになって、すぐにその噂の的が彼のことだとわかった。
きれいは元より、透明な子だな、というのが、俺のイメージだった。
ここにくる患者はいろいろとわけありで、なにがしかの色に染まっているという俺の考えを覆したのが彼だった。
今日も彼は籠バッグを作っている。クラフトペーパーバンドを時々切りながら、今は底の部分を作っている最中だ。本からコピーした図面を見ながら、きちんと編みこんでいく様は見事だ。俺にはとてもできそうにない。ここ一週間、朝から晩まで、昼食の時間以外、なにかのクラスがあれば場所を変え、根気強く作っている。その集中力は見習いたいくらいだ。出来上がるとしばらく眺めて、それでも満足そうではない。一つ目は周りにいた女性たちが取り合いを始め、スタッフが止めにきた。それ以来、作り上げる時間を計算しているようで、二つ目はいつの間にか持ち帰っており、また翌日作り始める。
今週は三つ目だ。今は籠バッグ作りにハマっているのだろうか、彼はいろんなことにチャレンジしていた。フラワーアレンジメント、アイロンビーズ、ビーズアクセサリー……。どれもスイッチが切れると次はなかった。出来は素人の青年が作ったものとは思えない精緻な出来だった。区の文化祭などで病院代表としてそれらが出品されたが、彼はあまり喜んではいなかった。選ばれれば、みんな誇らしげな顔をして自慢しているのに。
ここは精神科のデイケアサービスのフロアのひとつだ。社会復帰へのプログラムの一環や、患者の治療への更なる補助が行われている。
俺は油絵を専門にアドバイスするアルバイトの美大生だ。二年にもなると講義に余裕ができ、夕方からはだいたいこのデイケアの一室にくる。患者はさまざまだ。だがあまり病気については考えず、普通に接している。重症な患者はここにはいないと聞いた。それはトラブルになって誰かが負傷すると困るからで、それでも予期せぬ出来事がある時、ここはそういう場所だ、と改めて自分に言い聞かせる。発言にも気をつけている。余計なことは言わず、絵のことだけについて答えるようにしている。
ただ、しばらく前に一人の女性にずっと言い寄られた時だけは、どうしていいかわからなかった。最初はずっとそばにいられた。質問攻めにされた。携帯電話の番号を聞かれる。住所を聞かれる。帰りを付けられる。それを撒く。ストーカー。そんな言葉が脳裏をよぎった。こういう場合、どうすればいいのか、スタッフの鈴木さんと大谷さんに相談するとその女性を見ることはなくなった。ここには出入り禁止という制度があって、度を過ぎる行為をするとその出禁になる。しばらく時間を置いて、また戻ってくるだろうが、そのことを思うと気が重かった。もう少しうまく立ち回れれば、彼女が傷つくこともなかったかもしれない。それから、少しずつではあるが、時間がある時に病気のことについての本を読んだりしているが、なかなか理解するのは難しい。だいたい人の心が何冊かの本で計れるわけがない。結局、俺の立ち位置はしっかりと意思を持ち、絵について聞かれることに答えること。それだけだ、と認識した。
俺がアルバイトを始めて二年目の秋、穂積凛(ほづみりん)はこのデイケアにやってきた。フロアの入り口でスタッフに説明を受けている彼を初めて見た。すれ違っただけだが、随分ときれいな子がやってきたな、と思った。同時に、変なトラブルにならなければいいが、と胸がざわめく。色素の薄い栗色に近い髪がふわふわと揺れ、視線がどこか遠くに流れて、説明を聞いているようには見えなかった。
翌日から毎日彼はやってきた。朝十時から夜六時まで。俺は土日と、時々平日に休ませてもらっているので、その時はわからないが、スタッフたちから漏れ聞こえる噂では、彼の評判は上々だった。生真面目で礼儀正しく、規則をよく守る青年。そんな彼がどうしてここにきたのか、少し興味を持ったのも事実だった。
その日、俺はスケッチをしていた。彼は必ず大きな作業台のテーブルの端に座る。そのテーブル越しのテーブルに、俺は右四十五度の位置で座っているので、彼の姿は目の端にしか映らない。だが、日々二人きりになることも多いようになると、やはり気になって、俺はいつの間にか彼の姿をスケッチするようになっていった。薄すぎる肩、痩せている身体。白いシャツが白い肌によく似合う。潤んだ赤い唇はほとんど言葉を発さない。時々話し掛けられると少しだけ露わにする困惑の表情。彼は誰とも話をしたくないようだ。
ある日、六時を少し過ぎた頃、俺は見かねて彼に初めて声を掛けた。その時、作業ルームには誰もいなかった。夕食の時間で、みんなが席を外していたからだ。
「穂積さん、根を詰めすぎないようにね」
声を掛けてから、しまった、と口を噤む。スタッフや患者の間でも彼の噂はいろいろ流れていたが、もう少し興味を持って聞いていればよかったな、と思う。中にはパニック障害といって、声を掛けられただけで発作を起こす患者もいたからだ。
彼はしばらくして、ゆっくりと視線を俺に合わせた。その視線は俺を通り越して、どこか遠くを見ているような気がした。
「……はい、ありがとうございます」
急に、余所行きの顔になった。対外的に使うのは、この程よい感じの笑顔なのだろう。そんなに作らなくてもいいのに、と思うのと同時に、彼は俺を敵か味方か品定めしているのだ、と感じた。
彼はこちらに歩いてきて、近くの鍵付きロッカーから透明なケースを出してきた。本当はスタッフがいないとはさみやカッター類は使えない。だが、彼には暗黙のうちに許されていて、いつでも使えるように鍵も渡してくれるようだ。俺の前にケースを持ってきて、はさみに貼られたシールの確認を目の前で始めた。
「一、二、三、四、五。五本全部揃ってます」
「確認しました。お疲れ様」
「ありがとうございます」
ケースに入れて蓋を閉め、持ち上げた時、彼はどうかしたのか、それを落としてしまった。俺は驚いて立ち上がった。
「大丈夫かい?」
「すみません、俺……」
手が震えている。作業のしすぎか、薬の副作用かわからないが、それには触れないで、彼を刃物から少し遠ざけてしゃがんだ。その瞬間。スケッチブックの角に当たり、ばさりと落ちたそれの、ちょうど彼の横顔を書き込んだページが開いた。しまった、と思った。焦ってそれを閉じ、机に置きなおす。刃物をまとめてケースに入れて立ち上がると、彼は不思議そうな顔で、俺を見上げていた。初めて間近に見る瞳は、淡い栗色がかった黒で、俺はなんだか妙な気持ちになった。自分の顔だと気付いたのだろうか。彼は相変わらず俺を見つめている。ここで目を逸らすのもおかしな気がして、一呼吸置いた。
「……穂積さん」
「名前……」
あまり聞いたことのない声も柔らかな低音で、耳に心地よい。名前? 名前がどうしたのだろう。彼が一歩、俺に近づいた。テレビの音が静かな空間を奇妙にかき乱す。これ以上の不協和は無理だと離れようとした、その時。
「あれ? 穂積くん、まだいたの?」
スタッフの鈴木さんの声だ。俺は弾かれたように彼から離れる。彼はそのまま、首だけを鈴木さんに向け、はい、と答えた。
「でも、もう帰ります」
「夕ご飯食べていけば?」
「いいえ。うちで食べます」
「そう、気をつけて帰ってね。かっちゃん、戸締り、お願いしてもいい?」
「……はい」
パタパタと階下へ向かっていく彼女を二人で見送った後、彼は何事もなかったかのように作業テーブルに戻り、帰り支度を始めた。俺はケースをロッカーに入れ、それから鍵、と思ったが、彼が持っているのを思い出して、気まずい思いでいた。すると彼は真っ直ぐこちらへ向かってきて、さっと鍵を出した。
「ありがとうございました」
「ああ、ありがとう」
「それでは帰ります」
「気をつけて」
「……葛西さんも」
「え?」
彼はトートバッグを肩に掛けると背を向け、そのまま帰っていった。俺の名前を知っている? 彼はいつも自分の作業に熱中していたから、まさか俺の名前を知っているとは思わなかった。
本当にきれいな子だった。近くで見ると迫力がある。無表情でいてもそれなのだから、本当に心から笑ったら、どんなに魅力的だろう。そんなことを考えた自分を戒める。俺は単なるアルバイト。彼は患者。深く関わってはならない。他のスタッフはわからないが、俺は一定の距離を置いて患者とは付き合っていきたい。
なのに。乱暴に置いたスケッチブックを開いてみる。いったい、俺は何枚彼の絵を描いたことだろう。彼に興味を持ちすぎている。これではまるで恋をしているみたいではないか。
おかしな自分を律するように頬を軽く叩く。そしてロッカーの鍵を閉めに行った。
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