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第2話

 俺は高校にほとんど行っていない。そのまま十九になった。 「社会復帰への一歩として、デイケアに通ってみないかい?」 「デイケア?」  病院を転々と変わり、不安になっていた俺に、太田先生はそう言った。 「うん。君ならもう大丈夫だと思うんだ。同じような病気を持った人たちがたくさんいる。軽い作業をしたり、しっかりとした生活リズムを作るいい機会になる。社会復帰に役立つと思うよ」 「…………」  俺は答えを保留にした。自信がなかった。症状が緩和したとはいえ、俺はずっとこの病気と共に生きていかなければならない。これから先。何日? 何年? いつになったらこの苦しみは終わる? また不安の輪を自分で作って、それをなぞっている。  ベッドの上で、俺は真っ白な天井を見上げる。あの時もそうだった。ずっと、それだけしかできなかった。  目をつむり、胸に手を当ててみる。規則正しい音が、あとどのくらい続くのだろうと意味もないことを考えてみる。  先生の言う通りにデイケアに通い始めたのはすぐだった。それはやはりなにかしていないと不安だったし、今を変えることはできないと感じたから。  毎日同じ時間に起きて、同じ時間に眠る。それがこんなに大変なことだと思わなかった。三年間、俺はなんて不摂生をしてきたのだろう。  土日はデイケアを休んでも、生活リズムを崩してはいけない。何度も先生に言われたこと。これを矯正するのがつらかった。朝、起きるのがつらい。夜、少し体調がよくなる。それで夜更かししそうになる。  通学、通勤時間を少しずれてはいるが上りの電車に揺られて二つ駅を移動する。これも最初はきつかったが、一週間もすると慣れてきた。駅から十分ほど歩いて白い建物の中に入るとエレベーターを待つ。八階に着くと受付に「デイケア利用可」のシールが貼ってあるカードを出す。俺が最初に覚えたのは、受付の斉木さんだった。  その後担当してくれるスタッフの鈴木さんと大谷さんを紹介された。他にもスタッフがいたが、ネームプレートを付けているから追々覚えられるだろうと思った。八階は受付とその後ろにスタッフが常駐していて、通り抜けると大きなメインホールになっていた。そこに多くの患者がいて、テレビを観たり、スタッフと話をしたりしている。  七階には患者の中でも比較的病気が軽い者しか入れない部屋があって、大きな棚で仕切られていて、テレビ、電子ピアノ、パソコンのあるほうは男女共用スペース、ソファやローテーブルがあるシックな感じのほうは女性専用のスペースだった。俺はここに来てもいいことになっている。九階は作業スペース。学校の時間割みたいにいろいろな趣味のクラスがあって、好きな時間帯にくれば、スタッフの元、その作業ができるというものだった。不謹慎だが、俺は窓の外が気になっていた。これだけの高さがあれば、スタッフのいない隙に飛び降りることができるのではないか、ということだった。だが、すべての窓は施錠されている。作業スペースにいたっては部屋の左側が高いロッカーの上に患者の絵がたくさん置いてあって、とてもそんなことはできそうになかった。  デイケアは自分にとってちょっとした戦場のようなものだった。周りの患者の勢いがすごい。パワーに満ちていて、俺は大概彼らの後を着いていき、それに倣った。ひとつのことに打ち込むのは好きだった。時間も忘れて集中するこの感覚。ずっと忘れていた。だが、慣れていくと少人数でも一緒に作業することが困難になってきた。そのうちスタッフの手伝いをしながら、一人で作業することが多くなっていった。  女性が好きそうな手芸道具がたくさんあったので、そのうち、俺は籠バッグ作りに夢中になった。竹や藤などではなく、もっと柔らかいクラフトペーパーバンドという素材で作るのだが、なかなかに奥深い。十二本の細い紙の円棒が平たくくっついているものなのだが、それを二本に裂いたり三本に裂いたりして使う。組み合わせて編んでいくうちに詰めや押しが甘かったりすると歪みが生じていく。それが嫌できっちり作っているつもりなのだが、どうにもきれいに角が出来ず、気がつくとハマっていた。そのうち大テーブルの隅っこで一人で作業しているのにも関わらず、声を掛けてくる患者がいた。主に女性だが、名前は知られていても仕方ないとして、年齢、住所、電話番号やメッセージ交換アプリのアカウント、とにかくうるさい。それがダメなら世間話や悪口だ。俺はとにかく集中していたい。それだけなので、生返事をしていることが多かった。  その中に麻理さんという女性がいた。歳は俺より五歳年上の二十四だと言っていた。俺を見掛けると必ず話し掛けてくる。挨拶はするが、話はやはりしたくないので、適当に相槌を打っているか、その場を離れる、その繰り返しだった。その女性と数人が、俺の周りで話をしていた時だった。籠バッグのひとつが出来上がって、その時事件は起きた。 「凛くん、これ私にちょうだい!」 「ずるい! 私も欲しい!」 「私も!」  籠バッグはあげてもいい。けれど、それは不出来だし。なによりなんでそんなに取り合うの? それにそんなに騒がないで。うるさい。うるさい。うるさい……。静かだけれど激しい苛立ち。その時だった。 「こら! 騒がない!」  貫禄のある大谷さんがきて、騒ぎを止めてくれた。 「これは穂積くんが作ったもの! ダメ!」  一瞬にしてその場が静かになった。俺は小さな声で大谷さんに礼を言った。 「穂積くん、嫌なら嫌って言っていいんだよ」  そうなのか。俺は棚の箱に詰まっている紙袋を一枚引き抜くと、その中に出来立ての籠バッグを放り込んだ。彼女たちは大谷さんに怒られて散っていったが、俺は気まずい思いでその場に座った。疲れた。今日は帰ろうと大谷さんにはさみを渡した。ここははさみやカッター類の管理が厳しい。もちろん、自傷や他人を傷つける行為につながるからだ。俺には七階への出入りが許されているからか、スタッフが鍵を貸してくれることがあった。一緒に本数を数えて、ケースに入れると大谷さんがロッカーに持って行ってしまってくれた。 ――……まただ。  時々、鋭い視線を感じる。彼はここからだと横顔しか見えないが、俺を見ている時がある。患者だから、ぼんやりしていると思ったら大間違いだ。何度も感じる視線は、俺をひどく疲れさせた。  一度、彼がいない時に麻理さんに聞いてみた。麻理さんはうれしそうに教えてくれた。 「絵の先生だよ。ここ、絵を描く人が多いでしょ。まだ大学二年生だけどアルバイトで来てるんだって。葛西智弘(かさいともひろ)さん、だっけ? 葛西さんね、少し前にここの女の人にストーカーされて大変だったんだよ。それでその子が出入り禁止になってね……」 話は延々と続いたが、俺はあまり聞いていなかった。  骨格がしっかりとしていて身長は高く、背筋がきちんと伸びていて黒縁の眼鏡を掛けている、品のいい顔をして、すましてるように見えるけど、どうしても体育会系にしか見えず、とても美大生には見えない。あの黒縁をやめてすっきりした眼鏡にすれば、もっといい男に見える。それまでよくよく見たことがないし、話をしたこともないからわからないけど、平日の夕方に現れては絵を教えて、スケッチをして、絵の整理をして、その隙間に俺のことを観察してる。俺にとってよくわけのわからない敵みたいなもんなんじゃないかって思ってた。  そうあの日までは。  その日、俺は三つ目の籠バッグを編んでいた。これはうまくいきそうな予感。患者はいないし、いるのはあの葛西という絵の先生だけ。でも、そんなこと気にならないほど俺は夢中になっていた。その時、張り詰めた糸がぷつんと切れた。 「穂積さん、根を詰めすぎないようにね」  集中が途切れるのは空しいものだ。けれどとりあえず気を遣ってくれた葛西さんに視線を合わせた。 「……はい、ありがとうございます」  人当りのいい笑みを浮かべて、初めて真正面の顔を見つめた。邪魔をしてほしくない。それが本心だったが、もう帰らなければならないのも事実。仕方ない。今日はもう帰ろうと思った。  俺は鍵付きロッカーまで行き、透明なケースを出した。スタッフの人に頼みたいが葛西さんしかいなかったので、俺は彼の前ではさみに貼られたシールを見せていった。 「一、二、三、四、五。五本全部揃ってます」 「確認しました。お疲れ様」  ルールを知っているようで、彼はそう答えた。 「ありがとうございます」  蓋を閉め、持ち上げた瞬間だった。眩暈がした。奥歯が浮くような、身体全体が左右に引っ張られるような、なんともいえない不快感。気がついた時には、手に持ったケースを落としていた。 「大丈夫かい?」 「すみません、俺……」  手が震えている。頓服を飲まないとダメだろうか。葛西さんの指がとん、と胸に触れた。俺は下がった、その時。しゃがむ彼の腕がスケッチブックに触れ、それが落ちた。拾おうとそれを見ると、それは多分、俺の横顔だった。なんで。いつの間に。見られていることに気付いたが、描かれていたことには全然気付かなかった。  葛西さんは乱暴にそれを閉じ机に置くと、刃物をまとめていた。ふと、先程の彼の声がよみがえる。 ――穂積さん、根を詰めすぎないようにね。  なぜ、名前を知っているのだろう。不思議に思い、彼を見上げた。彼は、俺のどこまでを知っているのだろう。 「……穂積さん」 「名前……」  俺は一歩進んだ。知りたい。そう思っていたのだと思う。純粋に、それだけ。 「あれ? 穂積くん、まだいたの?」  スタッフの鈴木さんの声がした。彼がびっくりしたように、俺から一歩退いたのが、目の端に見える。 「はい」  意識が完全に鈴木さんに移った。 「でも、もう帰ります」 「夕ご飯食べていけば?」 「いいえ。うちで食べます」  家で母が帰りを待っている。夕食を作ってくれているので、俺はここで摂ったことはなかった。 「そう、気をつけて帰ってね。かっちゃん、戸締り、お願いしてもいい?」 「……はい」  テレビに目をやる。六時をもうだいぶ過ぎている。母が心配する。メールして、それから帰ろう。  トートバッグの中に必要なものを無造作に詰め、俺はロッカーの鍵がジーンズのポケットに入っていることを思い出した。葛西さんに返して、そのあとはお願いしてしまおう。鍵を渡す。 「ありがとうございました」 「ああ、ありがとう」 「それでは帰ります」 「気をつけて」  気をつけて。そう言った顔は、ほっとしているように見えた。やはり患者となど二人きりになりたくない、というところだろうか。 「……葛西さんも」 「え?」  彼に背を向けるとさっさとその場を後にした。名前など、誰かから聞いたのだろう。アルバイトとはいえ、彼もスタッフには違いない。  エレベーターのボタンを押す。  それにしても。  あの絵はなんだろう。多分、俺の絵だ。俺をモデルにデッサンでもしていたのだろうか。別にそれならそれで構わないが、あの視線は痛い。患者を見る目でないのが救いだが、興味本位で見られるのも嫌だ。  とにかく早く家に帰ろう。  帰る家がある、待つ人がいるというのは幸せなことなのだと、この時、俺はまだそんなに気付いてはいなかった。  

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