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第3話

 視線がまるで細い針の先のようだ。  あれ以来、俺は穂積凛の視線を感じるようになった。絵を教えている最中にふと視線をやると、ぶつかることが多くなった。もう、盗み見るのはダメだ。そう思っていても、気になって彼のほうに目を向けてしまう。  彼はまた籠バッグを作っている。集中しているようで、視線をこちらに向けている。俺にはそれがよくわかる。周りの患者にわからないように。スケッチブックは持って帰ってしまった。少し話をしたあの晩、持ち帰り中をよくよく見ると、見事に穂積凛のオンパレードだった。描かずにはいられない引力のようなものが彼にはある。それは美術に携わる一学生として、当然の欲求であったが、ここでは通じない。しかも彼はそれに気づいてしまった。そして試すような、含みのある視線をよこすのだった。    絵を描く患者はここには多かった。午後になってクラスが終わると、それぞれ集まってきて、長細いテーブルにキャンバスを置き、自由気ままに描いている。イーゼルはないので自然とその形になるが、ここにきて驚いたのは患者の豊かな感受性と想像力だった。精神科、というとルイス・ウェインの猫の絵の変遷を思い出してしまう俺に、いい意味での裏切りだった。そこにない景色、目の前の物体、自画像、現代アート、さまざまなテーマを自由にキャンバスに描く。そこにためらいはなくて、いっそ清々しいほどの潔さに、俺は憧れる。いちいち考え込んでしまう神経質な俺は描くことに大胆になれない。教えることはたいしてなくて、患者から教わることのほうが多かった。  講義が終わって、だいたい四時くらいにこちらにやってくる。その時に一斉に色の置き方や、新しいキャンバスの要求などがあり、それに一通り答えると、何もすることがなくなる。患者と適度な位置を取りながら、たまにアドバイスするが、本当は、そんなものは美術に必要ないのだ、と俺は思う。  その日も穂積凛は六時を越えて作業していた。俺はどうしようか迷っていた。聞くところによると、彼は十時から六時を徹底して守っているようで、それを越えるのは家庭の事情か、本人の決まりで嫌がっているようだった。患者の中にはマイルールを持つものが少なくない。こだわりを持つのは個性だが、本当は患者がこんなに集中して作業するのは、身体的にも精神的にもよくない気がした。けれど彼の必死さが伝わってきて、それを邪魔するのはいけないような気もする。だが六時の夕食の時間で患者が誰もいなくなると二人きりになってしまう。俺はなんだか居心地が悪くて、咳払いをする。気付かないのか、気付いていて俺を試しているのか。そう思って、俺は少し笑ってしまう。試すって、なにを? 考えすぎだ。  とりあえず、俺は彼を見た。彼も俺を見ていた。胸の鼓動が跳ねる。手が止まっていて、明らかに意思を持って、俺を見ている。喉が渇く。 「穂積さん、根を詰めないように……」 「葛西さんは、なんで俺を見ているんですか」  咳き込んでしまう。その言葉を反芻する。いきなりの質問に、やはりあのスケッチブックはまずかったな、と反省した。しかしそうしたところで落として見られた事実は変わらない。彼は自分が描かれていることを知ってしまったのだ。なんと言う? 興味があった。それはまずいし、描きたかった、それもわかってもらえないだろう。それ以前に、患者にうまく伝える言葉が見つからなかった。彼は患者。それを一番に考えなければならなかった。  あの時と同じようにテレビの画面はニュースを伝えていて、音が二人以外いない大きな部屋にやけに大きく響いた。言葉を考えている俺に、穂積凛は不適に笑った。 「患者を傷つけないように、言葉を探すのも大変ですね」  確信を突かれて、俺はさらに黙り込む。容赦のない言葉を突きつける姿が、まるで身を守る小動物のように見えるのは気のせいだろうか。彼は続けた。 「患者と二人きり。やりにくいのはわかりますけど」 「いや、そんな……」 「なんで、俺のこと、描いたりしてたんですか」  追及の手を緩めない。返事を考えるたびに、新しい言葉が投げつけられて、俺は困惑した。 「あれは……」 「葛西さん。なんで俺の名前、知ってるんですか」 「穂積さん」 「怖いでしょ」  彼は自嘲に近い笑みを浮かべた。そして、しみじみと言った。 「でも、本当に怖いのは、俺だ」  怖い? どちらの意味で? 俺は聞きたくなって、純粋にその問いを投げた。 「君が怖がっているの? それとも、君は怖い人なの?」  拍子抜けしたように、彼は唇を緩めた。目を丸くして、俺をテーブル越しに見つめている。ころんと転がった、素顔のひとつ。手にしていたはさみを持って、彼はいきなりこちらに歩いてきた。 「それは下してくれ」 「……ああ」  特に意味はないようだった。だが患者が刃物を持っている姿は、素直に怖い。俺の怯えは、伝わってしまっていたようだ。 「大丈夫。自分を刺すことはあっても、人を刺したりしない」 「いや、どっちもダメだ」 「はい。これでいいでしょ」  彼ははさみを乱暴に俺の前に置いた。見下ろされる気分は少し気まずい。だがその真剣な表情は、いつもの空虚なものより生き生きしていてずっといい。 「俺の問いになにも答えてない」  いや、間も与えられていない。冷たく見えるその顔に、なんと答えればいいか迷う。どれから答えればいいか、わからない。彼の片手がいきなり机を強く叩く。 「俺に、面白がって興味を持つのはやめてください」  面白がって。思ってもみなかった彼の想像に、俺の語気は荒くなった。 「面白がってなんていない」  彼の挑発に簡単に乗っていた。いや、とにかく彼は誤解している。 「へぇ? 俺をじろじろと盗み見て、俺の姿をスケッチして? それとも」  彼の顔が間近に迫る。逃げられない。 「葛西さん、男が好きなの?」 「穂積さ……」 「どっちなんだよ!」  彼が苛立ったように、また机を叩く。いけない。これは完全になにか、精神的な症状が出ているのだ、ととっさに思った。俺はバカなことに立ち上がり、いきなり彼を強く抱きしめていた。息を飲む小さな声が聞こえる。とにかく落ち着かせなければ。それだけを考えてゆっくりと背中を叩く。胸に抱きこんだ頭は小さく、思わずその髪に俺は顔を埋めた。 「……葛西さん」 「落ち着いて。大丈夫だから」 「……葛西さん」 「俺はなにもしないよ。心配しないで」  腕の中の彼は身じろぎもせず、先ほどまでの激昂が嘘のように、くぐもった笑い声を漏らしている。俺を見上げた彼は、もういつもの顔に戻っていた。 「なにも答えてない。なにも」 「穂積さん」 「苦しいです。離してください」 「あ、ごめん!」  俺の身体はすっぽりと彼を包み込んでいたのだ。少し、ぞっとする。彼が暴れていたら。手近のはさみに手が行っていたら。そうだ。簡単に患者の身体に触れるものではない。だが、その辺りの対処の仕方が俺にはまるでわからない。  離れた後、彼はその場で少しうつむいて、それが淋しそうに見えて、俺はかがんで彼を見た。 「葛西さんに悪意がないことはわかりました」  その言葉にほっとする。どの部分でそれがわかったのか知りたかったが、聞けなかった。 「女性にも、この手を?」 「この手?」 「抱きしめて、なにも言わせない」  俺は慌てて両手を振った。そんな簡単に女性に触れたりしない。 「まさか。こんなこと、誰にもしない」 「俺にはしたのに?」  無言になる。瞬間的にそうしなければと思っただけで、他意はない。 「触れたことは謝るよ」 「そうですね。俺だからよかったものの、他の人にしたら問題ですね」  この話し方。なんだかカウンセラーの小泉さんによく似ている。穂積凛はああやって感情を爆発させない限り、至って大人しい性格なのだとわかった。本人は苦痛だろうな、と改めて思う。抑えられない怒りで人を一度傷つければ、信頼関係はすぐに崩れる。そのような症例の病気。すぐには思いつかなかった。 「帰らなくて、いいのかい? もう六時を過ぎてるよ」  彼はテレビの時間表示を確かめて、少し考えて言った。 「患者と食事をしたことは?」 「……ないよ?」 「俺と食事、できますか?」  言葉に詰まった。患者とは一線を越えない。それがポリシーだ。出禁になっている女性の姿が脳裏をかすめ、ここは断るべきだと判断した。だが、その言葉を発した彼が、俺の目も見ずうつむいて、やっとのことで心を少しだけこぼしたように見えて、言葉は悪いがとてもかわいそうに見えたのだ。 「……できるけど」 「無理しなくていいですよ」 「無理はしていない」 「……そうですか」  彼はあの日と同じようにさっさと作業テーブルの向こうに歩いていくと、いつもの大きめのトートバッグの中に所持品を無造作に入れ、こちらに来て俺に鍵を渡した。 「では、一階で待ってます」  そのまま振り返ることなく、エレベーターのほうへ行ってしまった。  まずいことをしたかな、と、一階に下りるまでずっと考えていた。食事はいいが、先ほどのようにまた精神的に乱れたら。俺のせいで、彼が悪いほうに向かってしまってはよくないと思った。  エレベーターが開くと彼はロビーの隅に立っていたが、こちらを見てほんの少し笑った。その微笑みがとても可憐で、俺の頭から罪悪感があっという間に消えてしまった。 「待たせて悪かったね」 「待つのは苦にならないので」 「じゃ、行こうか」 「はい」  こうしていると、病気を持っているとは思えない。だが、ここに来ている患者は長く病気を患っている人も多い。彼の病気が長引くものでなければいいが、と心底思った。  夕食の時間帯のファミリーレストランはとても騒がしく、彼の具合にどうかと思ったが、別に気にならないようだった。メニューを閉じて俺の様子をずっと眺めている。呆れているのでもなく、怒っているわけでもなく、ただ、ぼんやりと。 「ごめんね、俺、食べたいもの選ぶの、すごく遅いんだよ」 「嫌いな食べ物が多いとか?」 「そうじゃないんだけど、苦手なんだよ」 「どうぞごゆっくり」  彼は水を飲みながら、もう一度メニューを眺めていた。あまり待たせるのも悪いので、とりあえずいつも注文するハンバーグ定食にすることに決めた。 「穂積さん、なににしたの?」 「ハンバーグ定食」 「あ、同じだ」 「子供みたいですね」 「そういう君だって」  店員にオーダーしたが、それから待つ間を考えていなかった。彼は遠慮なく俺を見つめているし、俺も視線から逃げる理由もないので、彼を見つめていた。周囲から見ると、なんだかおかしな二人に見えるだろう。 「そうやって、遠慮なく人を見るんですね」  そう言われて、俺は戸惑う。 「君だって、見てるだろう」 「観察してるんです」 「観察?」 「どういう人なのかな、って」 「聞けばいいだろ? なにが聞きたい?」  彼はグラスの水滴を指でたどりながら、考えている。その後に続く言葉を待った。 「そうですね。……好きな映画は?」 「…………? 「グッド・ウィル・ハンティング」かな」 「あの、心理学者の出てくる。それで精神科にアルバイト?」 「いや、違うけど」 「好きな小説家は?」 「……三島由紀夫だな」 「どの作品が好きですか?」 「……「金閣寺」かな」 「犯人の「溝口」の気持ちはわかりますか?」 「……少し」 「好きな画家は?」 「フェルメール」 「それじゃ聞きたいんだけど「絵画芸術」って絵がありますよね? なぜフェルメールはあの絵を手放さなかったと思います?」 「それは」  俺はおよそ年下の青年と話している気にはならなかった。あまりにも的確な返しに驚いたからだ。知識が豊富で、先程感じたカウンセラーと話している、または同等の友人らと話しているような気になった。 「恋人みたいなものだと、俺は思うなぁ」 「なるほど。画家が最期まで手放さない最後の一枚というのをよく聞きますから、気になっていたんですが。恋人。みんなそうして、最後の一枚を持っているのかなぁ」  彼は水を一息に半分ほど飲んだ。白い喉がとくとくと動いて、また妙な気持ちになる。 「なるほどって? なにが?」 「いや、そのままです」 「俺のこと、なにかわかった?」 「なぜ?」  グラスを置くと彼は真面目な表情でこちらを見た。 「二つ三つの質問で、その人のなにがわかるんですか?」 「それはそうだけど……」 「葛西さんがなにを好きか、知りたかっただけ」  テーブルの上で両手を組んで、彼は一呼吸した。 「俺も知りたいんだけど」 「俺のことですか?」 「うん」 「いいけど、なんですか?」  俺は謎めいた穂積凛の人となりを知りたくて、口早になった。 「好きな映画はなに?」 「なんですか、それ」  彼が困ったように笑った。 「同じこと聞かれるの? なんだか恥ずかしいです」 「君のことを、知りたいんだ」  頷いた彼に、同じ問いを返す。 「好きな映画」 「「アンダルシアの犬」」 「…………」  食事を前に、冒頭のシーンを思い出して、俺は飲みかけの水を吹き出しそうになった。 「ほら、聞かないほうがよかったでしょう?」 「……他には?」 「「去年、マリエンバートで」」  俺も観たことはあるが、壊滅的に意味がわからなかった典型の映画だ。「アンダルシアの犬」は画家のダリと映画監督、脚本家だったルイス・ブニュエルのショートフィルムだ。最近までDVD化しなかったこともあり、大学の図書室で観たことがある。断片的場面の連続で、特に冒頭のシーンがショッキングだ。女性の眼球を剃刀で真一文字に切る、というもので、俺はもう二度と観たくない。彼はどこで観たのだろうか。「去年、マリエンバートで」は三人の男女の話のようだ。作中、ホテルの回廊や廊下のシーンが流れるように映るのだが、天井の方を映すことが多く、なぜか目の廻るような感覚になる。中では時々ゲームが行われ、二人の男が対峙するが、勝つのはいつも同じ男。何度も観れば意味がわかるのかもしれないが、その気力を無くすような不可解の連続。  彼は瞬間的なシーンのほうに重きを置くタイプなのだろうか。どちらもモノクロで、観ている姿が想像できないほど古い映画だった。 「どう解釈する?」 「……解釈?」  彼は肩をすくめる。感想を聞いてみたかった。だが実にあっけらかんと答えが返ってきた。 「楽だからです。感覚的に」 「ストーリー重視の話は無理なの?」 「体力と気力がないと無理です。集中力が続かないんです」 あっさりとした感想に、それでもそれが彼らしいと思った。 「男女のストーリーってのがわかっていればそれでいいかと」 「なるほど、だね」  どちらともなく笑い合う。まるで旧知の友のような感覚に、すこぶる気分がよかった。  食事を始めると、それでも彼は俺への興味が尽きないようで、あれこれ聞いてきた。それはうれしいことだったが、あまり仲良くなりすぎてはいけないのだろう、という思いも頭をよぎる。彼はあくまでも患者だ。それを忘れてはならない、そう思いつつ、俺は会話を止める気にはなれなかった。 「葛西さんはどういう絵を描くんですか?」 「んー、風景画」 「それでフェルメールですか? 不思議だな」 「そうだね、でも、好きと得意は違うから」  器用にハンバーグを切り分けながら、彼は言った。 「好きなものを描かないんですか?」 「うーん」  昔からフェルメールが好きだった。だが、そちらの才能とでもいうべきものはなにもなかった。そして風景画が得意で何度もコンクールで入選してきた。だからそれでなければ行きたい美術大学の推薦がもらえなかった。そこに矛盾があったとしても、それは取り立てて問題ではなかった。  切ったそばからハンバーグと飯を口に放り込む俺を見て、彼は不思議そうに言った。 「葛西さんて美大生って感じがしません」 「うん、よくそう言われる。体育会系だろって」 「……あまり細かい感じがしません」 「ええ?」 「いえ、これは俺の勝手な思い込みです。美大の人って繊細で神経質そうな人が多い感じがしたからです」 「それはそうなんだけどね、合ってないと思うよ……」 「細かくないってほめ言葉ですよ?」 「落としたり、上げたり、君、なんなの?」  眉根を寄せた渋い表情を見て楽しんでいるのだろうか。彼は終始笑っている。 「好きなことできるのって、いいですよね」 「君も好きなことをやればいい」 「……その前に、やらなきゃならないことがありますから」 「なに?」 「好きなことの前に、やらなきゃいけないことがありますから。それをしないと」 「……そう?」  その意味もわからず、そのあと俺たちは無言で食事を続けた。  彼と話をすればするほど、まるで引力に逆らえないように、惹かれていくのを俺は感じていた。  

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