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第4話

 食事が終わった後、葛西さんはコーヒー、俺は紅茶を頼んだ。  こんなに話しやすい人だとは思わなかった。いつも難しそうな顔をしているし、なにか一貫した自分なりの哲学を持っていそうで、とても親しくなどなれなさそうだった。  いくつかの質問でわかったことは、美に対して絶対的な信念があるわけではないこと。神経質というより、ほどよく繊細。おおらかで、包容力があり、なにより柔軟性を持っている。人につけこまれそうな優しさを持っているのが気になるが、いざとなればはっきりとノーが言える人間だろう。多分彼は上手にグレーゾーンを持っている人だ。俺にないものばかり持っている彼をうらやましく思うのと同時に、少しずつ惹かれていく自分を感じていた。  いつまでも周りの声がうるさくて、この中だったら、少し自分のことを話せるかと思った。 「……俺、双極性Ⅱ型障害なんです」 「……そう……?」 「わかりやすく言えば躁うつ病で」 「……そうなんだ」  いきなりの告白に困惑した様子もなく、葛西さんはカップを置いた。 「問題は躁の時で。たとえば普通、と言うとおかしいけど、躁になるとだいたいの人は明るくなって、元気になる。それだけならあまり問題はないんだけど、逸脱して買い物、セックス、ギャンブルに走る人もいる。それってまずいでしょ。周りに迷惑を掛けることになる」 「穂積さんは……その」 「躁になると、怒って、暴力を振るうんです」  納得したかのような彼に、言うことはひとつしかなかった。 「さっきの俺の態度、見ましたよね。これでもよくなったほうなんです。お恥ずかしいことに、ここまでくるのに何年もかかりました。母親や妹のことも殴りましたし、人間関係も壊してきました。なので」  楽しい時間はすぐに終わってしまう。いつもそうだった。今回も早く終わらせないといけない。俺は葛西さんをまっすぐに見た。 「俺に関わらないでほしいんです。親しくなればなるほど、俺は依存し、その人を壊してしまう」 「穂積さん……」 「久しぶりに楽しい食事をしました。こんな俺とまともに話してくださって、本当にありがとうございます」  そう、このことをあの場では伝えられないから、今日は誘った。だから、あとの言葉はもうなかった。明日から、また同じ毎日の繰り返しになる。それでいいと思った。それしかない、とも。  俺が食べた分の料金を払おうとすると、いきなり伝票を取られてしまった。 「これは俺に払わせて」 「ダメです。葛西さん、学生なのに」 「穂積さんは働いてないでしょ」 「……それは」 「大丈夫だから。ね?」  葛西さんの後にしぶしぶ付いていく。母に小遣いを貰っている身だし、それはそうなのだけれど、借りを作ってはいけない気がした。明日から気まずくなりそうだからだ。だが、彼は譲ってくれなかった。 「ごちそうさまでした」 「どういたしまして」  俺は頭を下げると、階段を下りる葛西さんの後を、また付いていった。とりあえず横断歩道を渡ると、彼が振り返る。 「穂積さん、ここからどうやって帰るの?」 「俺は電車で」 「そう。じゃ、駅まで送る」 「駅はすぐそこですよ」  笑ってしまう。まるで女の子を扱うみたいな葛西さんの態度に、俺は最後のいたずら心で聞いてみた。 「葛西さん、本当はどうなんですか?」 「ん? なにが?」 「付き合ったことがあるのは女の人だけ?」 「んー」    彼は少し考えて、振り返る。 「内緒だけど、俺はバイセクシャル」 「えっ」 「どちらともお付き合いしたことがあるよ」 「それ、俺に言っていいんですか」 「穂積さんなら大丈夫」  ぽんと頭に手を乗せられた。びっくりして少し横にずれてしまう。 「あ、ごめん、嫌だった?」 「……ううん」  本当は、とてもいい感じで。こんなふうに頭に手を乗せられることはなくて。そのまま髪に指をくぐらせてほしいなんて思ったりする。  実は俺は今まで一人の男としか関係を持ったことがない。それを言ったら、彼はどんな反応をするだろう。つまらない想像をしてみる。  短い駅までの時間、肩を並べて歩けることがこんなにもうれしくて。でも、夢のような時間はすぐに過ぎる。  地下鉄の入り口で俺は頭を下げた。 「今日はありがとうございました」 「気をつけて帰ってね」 「はい」  地下からの風が突然吹いてきて、髪を大きく揺らした。 「では、また明日」 「うん。今度は君のことをもっと聞かせて?」 「……え?」 「じゃ、また」  手を振って、笑顔で今来た道を戻っていく葛西さんを、俺は呆然として見つめた。  さっき、言ったのに。もう関わらないでくれと言ったのに。はっきりと。聞いていなかったのか?そんなはずはない。ならなぜ、俺のことを知りたいと言ったのか。乱れた髪を抑えながら、俺は彼の後ろ姿が見えなくなるまでそこにいた。    どうにかして、自分を変えたい。  俺のこれまでの長いとは言えない人生、何度か自分で終わらせようとしたが、叶わなかった。それが「生きろ」というなにかの力が働いているならば、生きなければならない。なんとかして。  それなのに、今夜は違った。ネットで「死体」を検索して、必死になって、その画像を眺めた。就寝の時間を過ぎているのに、俺はさまざまな死体の画を見る。本物かどうかなんてことはどうでもいい。死は無だ。果てしなく続く虚無を確かめたい。ただそれだけ。部屋を暗くして見るその画像たちは不気味な影をさらに色濃くさせて、俺をしばらくの安心感へと誘う。  生きたい。死にたい。その矛盾と何度闘ったことだろう。人生は矛盾と選択の連続だ。俺はパソコンに突っ伏して、目をきつく閉じる。睡眠薬を飲まなければ。こんなことをして何になる。明日はカウンセリングの日だというのに。  やっとのことで電源をオフにして、俺は立ち上がった。階下と隣りの部屋は暗く、もう母も妹も寝ているようだった。静かに階段を下りて、台所の小さな明かりをつけ、部屋から持ってきた錠剤を流し込む。朝と夜が八錠ずつ。軽い睡眠薬が三錠。本当に少なくなった、と改めて感じる。他人から見ればぎょっとするような薬の量だが、俺には劇的な変化だ。  階段を上がり、部屋に入るとすぐにベッドに潜り込む。  今日は病院で失態もしたけれど、楽しい一日でもあった。葛西智弘。変わった美大生。けれど、もう二度と話をすることもないだろう。言った通り、俺は親しくなりすぎると依存する傾向にある。自分で嫌というほどわかっている。人間関係も、付き合ったと呼べるような人との関係もそれで壊れた。自分はこれだけあなたに尽くしたから、あなたも俺に同じようにしてほしい、と、言葉に出さなくても、そんな態度を取っているらしい。それがかなわないと暴言を吐く、暴力を振るう。自分にそんな気はなかったのだが、それを指摘された時、そんな醜悪な自分に心から嫌気がさした。俺の依存心が顕著に現れるのが人間関係においてだ。人間関係。それなしで人は生きていけない。だが、自分は一人で生きていかなくてはならない。そうしないと、人を傷つけてしまう。周り廻って、自分も傷つく。もう、耐えられない。少しずつ、眠気がしてくる。俺はそのままゆっくりとその波に従った。  冷たく暗い夜がどこまでも広がる。見上げると鋭く薄い三日月。  どこからか聞こえてくるのは拙いドビュッシーの「月の光」。冷たい土の上で、俺は仰向けに倒れたまま黒く動かない空をいつまでも見つめる。両手首がひどく熱かったが、段々それも気にならなくなる。目をつむり、じっとしているとあの人の死んだ時の顔が今でもまざまざと思い出せる。彼は、すぐ隣りの墓石の下に眠っている。声など聞こえるはずもなく、それでも流れる音楽を消して、なにかを言ってほしかった。  勝手に生きて、勝手に死んで、俺になにも、なにも残さなかった人。ひどく空虚な気持ちになって、哀しくなる。時々、ひらひらと桜の花びらが降ってくる。このまま花びらに埋もれて静かに眠れれば。俺はそのことだけを考えていた。  気分は最悪だった。  眠るのが遅かったせいか、身体がだるい。しかもあんな夢を見た。思い出したくもない記憶のひとつ。起き上がるのも億劫だったが、カウンセリングの予約を入れている。  乱れたパジャマのまま、慎重に手摺りを掴みながら階下に降りた。台所では、朝食の支度をしてくれている母がいた。 「凛、おはよう」 「おはよう……」 「……具合が悪いの?」 「大丈夫だよ」  俺はご飯をよそっている母の向こう側にある水筒を、取ろうと手を出した。その瞬間、びくっと身体を引いた母。  ああ。俺はこの人に何度も暴力を振るった。だから、こんなふうになってしまったのだ。俺はなんて情けないヤツなんだろう。なんでもないフリで水筒を取ると、そのままテーブルに置いた。  時計を見ると出るまで一時間。妹はもう学校に行っている。俺は母と二人、遅めの朝食を摂ることになった。 「今日はカウンセリングなの?」 「うん。午後から。昨夜はごめんね。急に外でご飯食べてきて」 「いいのよ。でもあそこでお友達は作らないでね」  デイケアの中ではなぜか、みんな友人になりたがる。中には恋人を作ったり、結婚をしてしまう人たちもいる。麻理さんからの話で、俺はなかなかの内部情報通になっていた。一人が淋しいのはわかる。だからって傷の舐め合いをしたくない。これから一人で生きていくために、そんなことは必要ないのだ。  母とは一度、デイケアに行ったことがある。カウンセリング一回目の時、母はとても驚いていた。溢れるほどにいる患者と、彼らのいくつかの奇行に驚いたのだと思う。そして、息子がその中の一人になることを、非常に残念に思ったのだろう。慣れないカウンセリングの中で「母もカウンセリングを受けてほしい」と言った小泉さんに真顔で「私、病気じゃありませんから」と一言だけ。私は健常者です、ということと、カウンセリングを受けるという屈辱はありえない、ということを言いたかったのだと思う。母は俺と違って信念のある生き方をしてきた人で、自分は間違ったことはひとつもしていない、ということを度々言う人だ。うらやましい、と思うのと同時に、苛立っている自分がいる。矛盾する感情がここにもまたあった。 「わかってるよ。今日も六時半には帰る」 「じゃ、ご飯を作って待ってるね」  妹は俺と食事をするのを嫌がっている。いい歳をして学校にも行かず、職にも就かず、昼間からふらふらしている兄を恥と感じるのだろう。暴力を振るった後ろめたさから、俺はこの家では静かにしているしかない。  両隣りの人が家の前になど出ていないか確認して、俺はさっと玄関を飛び出る。駅までは五分という短い時間はあっと過ぎて、改札を過ぎ、電車を待つ。  本当に嫌な夢を見た。ため息を深くつく。あれは今年の自殺未遂の時のことだ。記憶が飛び飛びだが、母の言うことのなにかが気に入らなかったのだろう。母を殴って、両手首を切ったつもりだったのだが、俺がなにをするかわからないと思っていた母は切れない包丁を台所に閉まってあったのだった。だから何度も切った。上から振り下ろして。妹が警察を呼ぶと受話器を取ったのと、「もう一度だけ待って」と叫んだ母をなんとなく覚えている。そのまま家から飛び出した。父の墓の前で、俺は倒れてた。怨嗟の声が溢れ出して、そして、泣いていた。こんなに苦しんで、泣いても明日は当たり前のようにやってきて、それは俺がたとえ死んだとしてもそうで。それなのに、なぜ生きなくてはならないのだろうと何度も思った。そのまま俺は気を失っていた。  電車がやってきて乗り込むと、窓の外が見える位置に立った。葉が茶や黄色に色変わりしていて、もうすっかり秋の気配になっている。この繰り返しを、あと何年しなければならないのだろうと思う。  今年の春の出来事なのに、切れない刃物のおかげで両手首の傷はきれいに消えている。あの時の染みるような痛みはまだ覚えている。あの後、病院で手当てをしてもらい、激しく泣きながら前から提案されていた薬への変更を頼んだのだった。その時の俺は、もう疲れ切っていて、ボロボロだった。母と妹の心ほどではなかったが。 「こんにちは、先生」 「こんにちは、穂積さん」  作業ルームの入り口の部屋はとても小さかった。他にカウンセリングルームはないらしい。心理カウンセラーというともっと歳の入った男性というイメージが強かったので、初めて彼女を見た時、ちょっと驚いた。二十代後半らしい、ややふっくらとした身体つきの優しい微笑みを湛えている女性。暴力を振るう患者と二人で大丈夫なのかと、患者の俺でさえ心配したくらいだ。だが彼女は対等に話をしてくれる。過度に共感も傾聴もせず、多分、患者によっては不服と思うのだろうが、それがこの人の仕事だ。俺はなにも期待しないし、ただありのままを話すだけだ。 「昨日はよく眠れた?」 「……死体の画像を観てました」  普通ならぎょっとするような話にも、彼女は当たり前のように頷き、その話をノートにすらすらと書き写していく。とても理解しがたい仕事だ。 「他には?」 「自殺未遂した時の夢を見ました」 「そう」  明かりをつけないと薄暗い小部屋の中で、俺は両手を組み合わせ、神妙に答えていく。 「どんな気分?」 「嫌な気分です」 「でも、死体の画像は見るのね?」 「……今、死のうとは思っていません」 「うん。毎日作業を頑張っていると聞いてるわ」 「早く社会復帰をしないとっていう考えからです」 「無理をしていない?」 「それはあります。けど、やらないと」 「生活リズムを作るっていうのは大事よ。でもやりすぎは身体に悪いわ」 「はい……」  ノートに書き込みながら、彼女は言った。 「なんで死体の画像を観ちゃうのかしら」 「……いけないことだとわかっています」 「悪いことだとは言わないわ。穂積さんに必要なことだから観てると思う」 「必要……」  とてもそれはあり得ないように思う。普通の、健康な人間のすることではない。ではなぜ? 「……必要というか…疑似体験をしたいとは思っています」 「疑似体験」 「はい」 「でも、生きようと思ってる」 「はい」  小泉さんはペンを置いて、こちらを向いた。 「矛盾した気持ちは無理に解こうとしなくていいのよ」 「性格的に無理なんです。白か黒か、零か百か。常にはっきりしていたい」 「グレーゾーンがないんだ」 「……作ろうと努力はしています」 「できるといいね」  先生は今日一番の笑顔でそう言った。  グレーゾーン。一番苦手な言葉だ。それができたら、どんなに生きやすいか。  その後、たわいのない話をして三十分のカウンセリングを終えたが、昨日、葛西さんと出掛けたことは言わなかった。よくは思われないだろうし、彼に注意が向いても困るからだ。  鍵を閉めた先生と部屋の前で別れる。  作業ルームに戻っていったが、なんだか疲れてしまった。籠バッグを作るような細かい作業をする気にはなれなくて、いつもの席に座ろうとしたが、フラワーアレンジメントのクラスがあって、仕方なく窓の外を眺める椅子に座った。読書も、ゲームもなにもしたくない。  鰯雲が広がる高い空を見つめる。深く背もたれに沈み込んで、散らばる思考をそのままに、ただぼんやりとし続けた。  

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