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第5話
「おはようございます」
「おはよう、かっちゃん」
身分証明書兼用の勤怠カードをスキャンする。今日も四時からアルバイトだ。
昨日、穂積凛のことをずっと考えていた。頭の回転の速い人は好きだ。彼は芸術分野に造詣が深そうで、話していて楽しい。本当はこれ以上踏み込まないほうがいいとわかっていながらも、彼をもっと知りたいと思うようになっていた。
もう関わらない、と言われてしまい、とても残念に思ってしまう俺がいて、昨夜は課題のデッサンがなかなか進まなかった。
途中からインターネットで双極性Ⅱ型障害のことを調べ出した。思ったよりも難しそうな病気で、確かに「関わらないでくれ」という彼の気持ちもわかった。
俺の認識ではⅡ型は比較的軽いが、適切な処理をしないとⅠ型(破瓜型)となる。Ⅰ型は通常の生活が困難になる。病気の原因は遺伝とも、環境の問題とも言われている。彼はその様子から見て、躁とうつを頻繁にくり返す、急速交代型・ラピッドサイクラーと思われる。そして一番怖いと感じたのが、自殺率の異常な高さだ。うつの時は気力がなく、なかなか実行できないが、躁に転じた時、自殺してしまうケースが多いらしい。それはうつ病よりもひどく、彼は今まで何度も希死念慮に駆られているはずだと思うと心が痛んだ。
俺はベッドに寝転がった。疲れるだろう、大変だろう、かわいそうに……。そんな当たり前の言葉ばかりが溢れて、やはり彼に同情しているのだと思った。同情で声を掛けているわけではないが、付き合いが続けばやはり憐みの目で見てしまうに違いない。彼もそれを望んでいないから、先制したのだろう。人との付き合いを一切せず、一人で生きていこうと必死にあがいているように見える。
「君のことをもっと聞かせて…か…」
昨夜の言葉を反芻してみる。彼にひどいことを言ってしまったのかもしれない。俺はつい好奇心を言葉にしてしまうところがあるが、患者の前でそれはご法度だ。
穂積凛を知りたい気持ちは本当だ。だが、相手が相手だ。本当に関わらないでやることが、一番の優しさなのかもしれない。溢れ出す思いを一旦打ち切って、ベッドの中に潜り込んだ。
階段で九階に上がり進もうとすると、籐の椅子から見えるジーンズの下の白い靴に見覚えがあった。穂積凛だ。
どうしたのだろう。少し身体を寄せて見下ろす。彼は眠っていたが目の下のクマがひどく、昨夜よく眠っていないのがわかった。俺の言葉にまずいところがあったのだろうか。それしか考えられない。いたたまれない気持ちでいると、絵を描いている患者が俺を見つけ、手を振ってきた。その場を後にして作業テーブルに着いている患者の絵を一通り見ながら、席に荷物を置く。早速、質問責めに合い、俺は一旦頭をクリアにした。
六時が近づくといつものように残っていた少数の患者たちは夕食を食べに地下の食堂に行ってしまった。向こうの籐の大きな椅子に彼はまだいるのだろうか。俺はどうしようか迷ったが、彼の定時になってしまったので、一応声を掛けることにした。
音を立てずに歩き、そっと内側を覗いてびっくりした。彼はしっかりと目を開いていて、真っ暗な空を見つめている。
「穂積さん、……六時だよ」
「……ありがとうございます」
立ち上がる様子はなかった。動く気配すらない。
「……疲れているんじゃ……」
「昨日、関わらないでほしいとお願いしたはずですが」
そうだ。君のことを知りたい、と、言ってしまったことは間違いだった。俺はうつむいた。
「葛西さんはいい人すぎる。つけ込まれますよ」
「いい人だなんて……」
「俺のことをかわいそう、って憐れんでる。昨夜、俺にまずいことを言ったと悩んでいたんでしょう」
なにも言えない。その通りだ。拳を握りしめる。あまりにも的確に胸に刺さりすぎて。
「いいんですよ。誰だって好奇心くらい持つ。ただ、あまりそれが強すぎると」
彼は不意に俺を見上げた。ためらいのない、真っ直ぐな目だった。
「傷つきますよ」
「穂積さん……」
「帰ります」
彼はゆっくりと立ち上がったが、すぐにふらついて窓の桟に両手をついた。目をつむり、大きく息を吐く。そのままの姿で、しばらく佇んでいた。しかし、突然のことだった。
「……ったく、ウザいんだよ!」
来た。これが躁転だ。この間の時と同じ。俺は特に動じなかった。
「俺のことなんか知ってどうするんだよ! なんにも面白いことなんかねぇよ! それともなに? 自殺未遂の話とかでも聞きたいの? 気持ち悪……」
「ふざけんなよ!」
それ以上の大きな声を出してしまう。しまった、と思ったが、遅かった。彼がびっくりしてこちらを向いた。声もない。
「ああ、かわいそうだよ! 君がかわいそうでなくて、他になんて言うんだ? 好奇心だよ。申し訳ないと思ってるよ。でも俺は君のことをもっと知りたいんだ!」
思っていることをすべて言ってしまった。しかも患者を怒鳴るなんて。こんなこと初めてだ。下から誰か飛んでこなければいいが。
彼は目を見開いて、こちらを見ている。その瞳は今にも泣きだしそうで、唇もわなないていた。更に激昂したらどうなってしまうのだろう。
「……葛西さん……」
声が落ち着いている。躁転が落ち着いた? 俺は目の前で両手を振った。
「いや、ごめん、こんなこと言うつもりじゃ……」
「本当に、そう思ってるの?」
「……思ってる」
「俺を知ったら、幻滅する」
「……多分、しない」
「そうなったら、俺は死にたくなってしまう」
「……それは困る」
落ち着いて、涙ぐんでいる彼の頭にぽんと手を置いた。髪をくしゃくしゃと乱すと、彼は思わず、というようにうつむいた。
「……俺はタチが悪いんだ……俺と関わったら……あなたのすべてが変わってしまう……」
「どっちなの?」
「……?」
「俺とは関わりたくない?」
彼は長い間考えていた。床に一粒、涙がこぼれた。それが彼を縛っている孤独と絶望の深さの真実のようで、俺は思わず昨日のように抱きしめていた。
「……俺は結構、気が長いほうだと思うんだ」
「……一人で生きていかなくちゃならないと思ってる……」
「それが本心?」
しばらくして、彼が首を弱々しく振った。さあ、俺。覚悟の時だ。
「違う……」
「じゃ、俺ともう一歩、近づこう?」
今度は力強く、頷く彼がいた。なにが起こるかなんてわからない。だが、俺はこの素直な想いのままに動いてみる。間違いとかそういう問題ではなくて、この直感がなにかに続いているはずだから。
その後、俺たちは電話番号交換のため、互いのスマートフォンを出した。提案したのは俺だった。彼はかなり長い間考え込んでいたが、「早くしないと食事を終えた患者さんが来るよ」の一言で慌ててトートバッグを開いた。お互いの電話番号、アドレスと、メッセージ入力ができるアプリが入っているかを確かめてアカウントを交換した。俺は機械に弱く、彼がうまく操作してくれた。
「へぇ、早いね。すごいなぁ」
「覚えようとする気がないんじゃないですか?」
「言うねぇ」
「いえ、覚えられるのに、しないだけじゃないんですか、って言いたかったんですけど……」
彼は言いよどんだ。どうも挑発的な言葉を発することが多い。
「だから、俺はなにもしないから。心配しないで」
「……そういうんじゃなくて」
彼は小さく頭を下げた。
「……すみません。俺、こういう物言いをして……生意気でしょう」
「いや、カッコいいから許す」
鼻をつまんでやると、頬を少し赤らめた。
「子供じゃないんだから」
「まだ子供ですよ。未成年」
「ひとつしか違わないくせに」
「え、君、十九なの? それに、俺の年齢……。どこ情報?」
「……内緒です」
携帯電話を渡される。その後、彼は自分の画面を操作していたので、話し掛けた。
「なに?」
「画面ロック」
「なんで」
「……ここで貴重品を盗まれることがある」
「本当に!」
「最近、あったんです。だから気をつけてるんだけど。ダメ押し」
「パスワードは?」
「……今考えてます」
「じゃ、こうしようよ」
「?」
「お互いの誕生日をパスワードにする」
彼は咳き込みながら面白そうに笑った。小さな花が咲いて揺れるような微笑みに、俺の気持ちも揺れている。
「葛西さん、女の子の扱いうまいんですね」
「はぁ?」
「男の扱い方は、どうだろう。葛西さん、俺のこと、女の子と間違えてません?」
「いや……」
確かにひとつとはいえ年下で、いつも気になる存在で、しかも中性的な容姿となれば、間違えてしまっているかもしれない。それが彼のプライドを傷つけているなら、改めなければならなかった。
「気をつけるよ、ごめん」
「いえ、いいんです」
彼は小首を傾げて、囁くように言った。
「悪くない感じ」
「……え」
この子は誰かと付き合ったことがあるのだろうか、と突然、そんな考えが脳裏をよぎる。その笑みと言葉から、女の子や年上の女性ではなくて、なぜか男性ではないのか、という疑問が生まれる。けれど、そんなことを聞けなかった。
「わかりました。葛西さん、一緒に操作しましょう」
彼に言われるまま、互いの誕生日を教え合い、ロックを掛ける。別に見られてもかまわないのだが、彼が嫌だろうと思い、言う通りにした。
「はい、これで終わりです」
「ありがとう。たまにメールや電話をしてもいいかい?」
突然、彼の表情が曇る。気に障ったのだろうか。
「いや、朝とか夜はしないよ」
「……いえ、それはいいんです。むしろ、うれしいです……」
「……なにか気に障ることでも?」
彼はうつむいて、思いに沈んでいたが、突然顔を上げた。それは哀願に近かった。
「……葛西さん、俺、気をつけますから……嫌いにならないで」
「どうして?」
「……もうすぐ患者さんたちが戻ってきますから、帰りますね」
「あ、ああ」
彼は小走りにエレベーターのほうに去っていった。どうしたのだろう。電話やメールでトラブルになったことでもあるのだろうか。俺も気をつけるが、あの目は必死だった。
守ってやりたい。
唐突に、そんな感情が浮かび、それは確実に俺の胸を支配していく。彼を守りたい。できることがあればなんでもしてやりたい。ずっと見つめていたい。
同情なんかじゃない。もっと違う、しかし味わったことのある感情。そう、きっと、これはもう恋心なのだろう。
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