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第6話

 葛西さんと電話番号やアドレスを交換した。してしまった。まずいことになった。  うれしさに負けてつい提案を受け入れてしまったが、これで何度人間関係が壊れたことか。いや、今度こそしっかりとすればいい。節度を持って対応すれば……ダメだ。幾度となく修復不可なやり取りをしたことを思いだし、やっぱり断ればよかったと今更後悔する。  葛西さんは本当にいい人だ。だから傷つけたくない。嫌われたくない。  自分はまだ弱い。人の優しさについつけ込んで、自分の居場所を確保したい、そんなあさましいことを考えている。  ふと取り出した携帯電話にメッセージが来ていた。遅くなったので母が心配しているのだろうと開けてみると、それは今別れたばかりの葛西さんからだった。 ――二人の時は凛って呼んでもいい?  自分を戒める気持ちよりも、今この時の胸の高鳴りのほうが勝っている。自分は本当にどうしようもないほど腐っている。返事をしないまま、握りしめる。このまま自分はどうなってしまうのだろう。中途半端に踏み込めば、俺はまた前の轍を踏む。それは火を見るより明らかだ。でも、このほんのりと胸が温かい気持ちは、すでに危険信号の点滅だ。どうすればよかったのだろう。もう、遅い。  風呂上がりの髪をバスタオルで乾かしながら、居間でテレビを観ている母に風呂が空いたことを伝える。水を持って二階に上がる。ベッドに座り、なんとなく携帯電話に手を伸ばす。今はほとんど使うこともないし、たまにメールをするくらいだ。ゲームの類はしない。不必要なアプリはみんな消してしまった。なのに、葛西さんとアドレス交換をした後、何度携帯電話の画面を見つめたことか。ため息をついて、俺はベッドに倒れ込む。シンプルなブルーグリーンの画面。九時か。まだ時間があるから本でも読もうか、と思ったその瞬間、携帯電話が小刻みに揺れて、俺はびっくりして飛び起きた。メッセージだ。ドキドキしながら、ロックを外し、アプリを開ける。 ――おやすみなさい。それから敬語もやめてね。  最後に笑顔のスタンプがひとつ。誰もいないのに笑うのを堪えた。葛西さんがそれを使うとは思わなかったのだ。こうしてスタンプひとつあるだけで、メールの印象は変わるのだな、と思った。  おやすみの挨拶くらいはいいだろう。俺は頭を捻って、文章を作り始めた。 ――おやすみなさい。今日はありがとうございました。  なにが「ありがとう」なんだ? 違うな。 ――おやすみなさい。  なんだかシンプルすぎて、冷たく見える。 ――おやすみなさい。明日も気をつけてきてくださいね。  馴れ馴れしいな。やめだ。  メッセージの返信ひとつにこんなに時間がかかるなんて。人を罵倒する言葉ならすらすら打ってきたのに。  そうだ。俺は携帯電話を握りしめる。馬鹿だの、死ねだの……。最悪だ。俺はそんなメールを打たれたことがないから、そのダメージを知らない。相手の立場に立てない。特に親しい人の……。それは致命的だった。  同一化してしまう。俺が知っていることは相手も知っていて当然、思っていることは思っていて当然、することは相手もして当然……。だから波が合わないと急に不満になる。これは傲慢だ。わかっている。わかっているのに、それで何度も失敗した。 ――俺がこんなに尽くしたんだから、あなたも俺にして、って思ってるよな?  そう、あの男性に言われた。俺を何度も抱いた、あの人に。  どうでもいい人の気持ちを察することはできるのに、親しくなればなるほど、俺はその人を傷つける。  葛西さんとは、よい関係でいたい。だからほどよく間を取って……いや、それもいずれはなあなあになり、俺はどんどん踏み込んでいく。アドレス交換をしてはいけなかった。今までの手痛い失敗を思い出す。  でもしてしまったことは取り返せない。とにかく気をつけなければ。もう一度、画面を見下ろす。 ――そうします。おやすみなさい。  これでいいだろうか? 凛、と呼んでくれていい。敬語は……二人の時は使わない。スタンプを使ったら気味が悪いと思われるのでつけない。送信ボタンを押す。  深呼吸をひとつする。疲れる。人との付き合いはこんなに大変なことだっただろうか? 簡単なことだった。いくらでも繕えた。相手の望む自分を演じることに慣れていた。演じることが当たり前だと思っていた。人は誰だって時々仮面を被っている。ただ、俺の場合は演じすぎて、ありのままの自分とやらがわからなくなってしまっただけだ。  もう大切な人を失いたくない。多少の我慢をしても、相手の望む自分でいたい。従順な人間でいれば、嫌われない。  いずれ、葛西さんと仲良くなれたら、話してみたいことはたくさんある。でも、それを言ったら、嫌われないだろうか。嫌われるくらいなら黙っていたほうがいい。  大量に詰め込まれた薬を眺める。一生。一生、この病気を抱えていく人間に、付き合ってくれる人などいるわけもない。俺は電気を消して布団を手繰り寄せ、蹲った。  記憶喪失なんて、漫画や小説の上での話だと思ってた。少なくとも、自分にはその現象は起きないだろうと。  その兆候は少しずつ表れていたのに、自分が認めたくなかっただけ。  薬を変えて少しはまともになってきた時、友人との会話で妙な胸騒ぎを覚えた。それは次に見せてもらった写真で決定的になった。それは彼と自分が写った尾瀬と思しきものだった。いつ、撮った写真なのだろう。考えてみても思い出せない。体育着からして高校の時の写真だ。俺はほとんど学校へ行っていない。ということは一年生の頃? まだなじまない体育着を身につけて、笑っている自分。俺は努めて冷静に尋ねた。 「……これ……いつの写真だっけ?」 「……え?」  友人が怪訝な声で答える。 「ほら、尾瀬。一年の時、入学してすぐに校外学習があったじゃん。あれあれ」 「……そう……だっけ」 「おまえ、記憶力ハンパないのに、どうした」  友人は苦笑していたが、俺は笑えなかった。一か月前、それ以前の記憶は? 半年前は? 一年前は? 彼のいう通り、俺は記憶力がよい。それは誰もが気味悪がるくらいに。それなのに知らないなんてことはあり得ない。  それからも家族や、友人との話の食い違いは続いた。俺は慌てず、とりあえず周りには黙っていた。確かにネットに書いているはずだった記録程度の鍵付きのブログがすべて消されていて、おかしいと思ったことはある。いつ消したのか記憶になかった。確かなものがないというのは不安なものだ。俺は部屋の隅々まで、欠片を探して動き回った。そして、一冊の見慣れないノートを、本棚の奥から探し出した。なんでこんなものがあるのかわからない。  そこには治療を受け、変わっていく俺が克明に記されていた。漢字が誤字に、ひらがなに、だんだん記号のように読めなくなっていく。そして、ある日を境にぷつんと途切れていた。つまり三年前の十六歳。そこからの記憶が失くなっていることがわかった。  だが、すべてを失ったわけではない。時々、なんの拍子か、断片的に思い出すことがある。それがいつの、なんのことなのかわからずに、俺はこの一年生きてきた。  生活に支障をきたすわけではないが、心に留めておいてほしい旨を家族、たった一人の友人にお願いすると、彼は言った。 「思い出してもいいことはないから。無理に思い出すことはないよ」  その言葉で、その友人にもなにか迷惑を掛けたのだな、とわかった。俺は中途半端な過去と共に生きていくことになった。  母に聞いたところ、最初に抑うつ状態と診断された時の俺は、真夏に羽毛布団にくるまっていたり、夜中に過呼吸を起こしたり、自殺未遂をしたり、と目が離せない状態だったらしい。朝食後十五錠、昼食前二錠、昼食後十五錠、夜十五錠、就寝前八錠。一日六十錠近くの薬を毎日飲んでいた。その上一日二回上限の鎮静剤を注射してもらっていた。変わっていくのはあっという間だったという。意識が朦朧とし、呂律が回らなくなり、よく転ぶようになった。薬を飲みこぼしても気がつかず、大量に服用することも少なくなかった。それを三年続けた結果、俺は重度の薬物依存症になっていた。もうダメだ、と思ったのが、母と一緒に買い物に行った時だった。俺もその瞬間のことをよく覚えている。レジで七百円と言われて財布を覗いた時に、どの硬貨か札がその対価なのか、ということがわからなくなっていた。  焦った母が後ろから払ってくれたが、これはまずい、と自分でも一瞬思ったことを覚えている。その頃はなにをするか怖くて、母がいつも付き添っていてくれていた時期なので、俺はなんとか生活することができたようだ。突然饒舌になったり、黙り込んだり、暴力を振るったり、泣いて土下座したりと、やることなすこと突拍子もなく、本当に母と妹には迷惑を掛けたと反省している。でも許されないことというものは確実にあり、許すと言われても、互いに根っこの部分にそれがあるのだ。まずいと思った母は俺を転院させた。そこの先生は荒療治ですが、と前置きし、突然、俺の薬のほとんどを止めてしまった。そして母に「とても苦しむことになると思いますが、彼なら大丈夫だと私は信じています。だからなにも食べられなくなった時は近くの病院で点滴を受けてください。通院ができなかったら、お母さんが薬を取りにきてください」と言ったそうだ。まもなく、その先生の言った通り、死ぬような苦しみが始まった。まずなにも食べられなくなった。食べようとすると吐いてしまうのだ。仕方なく経口補水液や栄養剤を飲んでみたが、もともとそんなにない体重が一週間で、いきなり十キロ減った。それから幻覚が見えるようになった。手と足をだらんとたらした長い髪で白い服を着た女がベッドの周りをぐるぐると廻っているのだ。それは今までの死んだほうがマシ、を遥かに超えた苦しみだった。めまいがする。手足が震える。すべての音が身体に突き刺さるような感覚。とうとう限界が来た時は家から五分の病院に、母の肩につかまって三十分掛けて歩いていって点滴をしてもらった。それがどのくらい続いただろうか。よく覚えていない。目の前にかかっていた靄のようなものがすっきりと晴れた時。それが俺の三年間の記憶が吹き飛んだ時だった。  医師は断薬によるショック症状だろうと言った。やってしまったことの数々は覚えていなくとも母と妹、そして友人のなんとなくよそよそしい態度でわかった。きっと取り返しのつかないことをしてしまったのだろうな、と思った。  だが苦しみはそれだけでは終わらなかった。今度は急に怒りが込み上げてきて、ひどく乱暴になった。母と妹を殴ったし、友人に暴言も吐いた。以前関係のあった男性に異様に固執し、嫌がらせの電話やメールもした。よくみんな耐えてくれたと頭が下がる思いだ。だがそれは止まらなかった。  そして突然、断薬をしてくれた先生がその病院を止めることになった。付いていこうと思ったが、予想以上に遠いところに行くことになって、仕方なく俺は次の先生に診てもらうことになった。それが今の太田先生だ。  診た瞬間、先生は抑うつ状態ではなく双極性Ⅱ型障害だとわかって、薬の変更を提案したが、俺は聞く耳を持たなかった。その後も俺は攻撃的だし、言うことは聞かないし、これではいけないと思ってはいたが、なによりまたあの苦しみを味わうことになるかもしれないという恐怖で身がすくんでいたのだ。  だが母を殴って妹が警察を呼ぼうとした時、震えながらも「もう一度だけ待ってあげて」という母の姿を見た。そして手首を切ったにも関わらず死ねなかったこともあって、俺はようやく先生の前で折れたのだ。  双極性Ⅱ型障害。抑うつ状態と診断され、そのまま向精神薬を大量に飲み、気分を上げた結果、それが躁転して攻撃に変わり、今の状態になったのだという。薬を変えて二週間。それまでの攻撃性が嘘のように治まり始め、落ち着いてきたのを感じて、うれしいのと共に、俺はこの三年、なにをやってきたのだろうと空しい気持ちになった。見捨てないでくれた母と妹、友人にどんなに感謝しても足りないくらいだ。  だから俺は変わりたかった。早く昔の自分と別れたかった。だが、なかなかうまくはいかないもので時々躁転して、前ほどではないが相変わらず人を傷つけている。  先生が一生この病気は治らないようなニュアンスで話をした時、ショックを隠せずインターネットでいろいろ調べた。薬を止めるとまた元に戻ってしまうし、治ったと思っても再発するケースがほとんどだということだった。女性はかわいそうなことに、薬を服用していくなら子供を諦めなければならないようなことも書いてあった。一生。短いようで長い。その間、ずっと気分を薬で操作しながら生きていくのはなんだか哀しくなった。  それでも俺は生きていかなくてはならない。それだけが現実として残った。  

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