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第7話
翌日。凛に会ったら、今度一緒にどこかに出掛けないかと誘うつもりだった。病院内ではなかなか話もできないし、息抜きをしたほうがいいと思ったからだ。
だが、なんとも間の悪いことに件の彼女の出禁が解かれたらしい。すっかりまた元の木阿弥になった。
スタッフになにかあったら言うように、と言われたが、なにかどころじゃない。前と変わらず、俺のそばを離れない。
嫌とかそういうことではなくて、ここでは絵を教えることに専念したいのだ。だが、よく考えれば凛に近づいている事実もあるのだから、俺はやましい思いもある。
籠バッグを編んでいる凛のそばには、みんなから麻理さんと呼ばれている女性がいた。彼女もよく凛のそばにいる。凛は適度に話をかわしているようだったが、俺はそういうことをうまくできる性格ではなかった。
「ねぇ、葛西さん、今度デートしようよ!」
「古川さん、今、絵の時間だから……」
「ね? どこ行く?」
以前とまったく変わっていない。それどころか前よりアピールがひどくなった。彼女はなんの病気なのだろう。いつも楽しそうだから、ちょっと見には陽気な女性にしか見えない。俺よりも年上だということくらいで、もう少しきちんと話を聞いておけばよかった。
「古川さん、少し静かにして」
「うん!」
言うことを素直に聞いて、隣りに椅子を持ってきて座った。凛が見ているのを感じる。なんとなく罪悪感に駆られた。凛と付き合っているわけでもなく、彼は女性でもない。なのにその視線から含みのあるなにかを感じていた。
「今日はデートの場所決めるまで帰らないからね!」
無言で美術書を開いた。なんだか凛と親しくしていることが、この女性に悪いような気がして。患者とは一線を置く。そう決めていたのに超えたのは俺だ。そこには明確な差別がある気がする。
「ねぇ、どこ行く? 私、遊園地行きたいな!」
凛とどこかへ出掛けようと考えていたことは、やはり間違っているのだろうか。彼女とは行けない。でも凛とは行きたい。矛盾した感情に揺られて、本に視線を落としているだけの状態だった。
「葛西さん、聞いてるの?」
「絵を描かないなら静かにして」
「なら絵を描く! 葛西さん、教えて!」
仕方なく新しくキャンバスを取り出し、絵を描くための道具を用意し始めた。患者たちは面白がって俺たち二人を見ている。凛はというと相変わらず籠バッグを編んでいる。麻理さんは静かにそれを見ていた。彼も人に関わりたくなさそうだったが、彼女とはうまく距離を保ちながら付き合っているようだ。凛にできて、俺にできない。それは微妙に劣等感を刺激された。
「なにを書くの?」
「葛西さんのこと描く!」
いきなりの宣言に驚くが、それを止める権利もないので、とりあえず手順を教えて元の席に座った。凛の視線を感じる。なんだかとても冷たい。気のせいだろうか。
美術書を手にしようと思った途端、また古川さんが手を挙げた。
「葛西さん! 葛西さんのことどうやって描くの? 教えて!」
どう描く? テクニック以前の、それは難しい質問だった。思うように、感じたように。それを表現するのは難しかった。
「見たままに描いてみたらどうだろう」
「私、絵を描いたことないんだよ? わかんないもん!」
隣りの年輩の患者がさすがに見かねて声を掛けてくれた。
「私が教えてあげるから、一緒に描いてみよう?」
「嫌よ! 私、葛西さんに教えてもらうからいいよ!」
お手上げだ。だが放り出すわけにもいかないし、これだけでスタッフを呼び出すのもおかしい。
「じゃ、そばにいるから。見たまま、描いてみて?」
彼女は嬉しそうに頷いた。
「うん! ずっとそばにいてね!」
俺はキャンバスが色づいていくのをじっと見つめる。彼女から見る俺の顔はピカソ風なのか。これはこれでなかなか斬新だ。するとジーンズの尻ポケットに入れておいた携帯電話が鳴った。俺は音を止めるのを忘れていて、音が上がる前に止めようと取り出したところをいきなり彼女に取り上げられた。
「古川さん……!」
「葛西さんのスマホ、私のと同じだー!」
とりあげようとすると彼女はひらりとその身を返し、テーブルの向こうに走った。
「返してくれないか」
「……なんで? これロックされてる!」
凛に言われてロックしておいて本当によかった。こんなことになるなんて思いもしなかった。
「葛西さん、パスワード教えて?」
「古川さん、返して」
「イヤ! なんでロックなんか掛けてるの? おかしいよ! 葛西さん、恋人でもいるの?」
一斉に笑いや冷やかしやため息が聞こえてくる。俺は彼女の後を追ったが、結局、また元の位置に戻った。凛が片付けを始めたのが目の端に見える。ケースをしまうためにこちらに歩いてきた。ロッカーは俺のすぐ横にある。凛はさっさとしゃがむとケースを棚に置いていた、その時だった。
彼女が突然こちらにやってきて、携帯電話を床に叩きつける。そして自分のバッグからカッターを取り出したのだ。みんなの悲鳴が割れたように不快に耳に響く。
「葛西さん、好きな人がいるんでしょ! だから私のこと相手にしてくれないんだ!」
「古川さん、落ち着いて……」
声が震える。凛がはさみを持ってきた時と同じように胸がどくんと鳴った。古川さんはカチカチとカッターの刃を出し、大きく振り上げた。
「葛西さんなんか、大嫌い!」
切られる……そう思った瞬間。立ち上がった凛が俺の前に立つ。振り下ろした刃は彼のかざした右腕に当たってしまった……。
「……嫌いだなんて言わないで」
古川さんはその場にぺたんとしゃがみこむと子供みたいに大声を上げて泣き始めた。俺はとっさに目の前の凛の肩をつかんで、覗き見る。シャツが破けて、血がぽたぽたと床に落ちていた。
「凛!」
凛はかがんで古川さんの頭を撫でた。まるで泣いている子供をあやすように。誰かがスタッフを呼びに行ってくれたらしい。大谷さんと鈴木さん、そしてこういう時のために常駐する体格のよい男性のスタッフが飛んできた。
「好きな人を、傷つけちゃダメ。それはわかるよね」
「だって! だって……!」
「葛西さんを好きなら、彼の立場に立って、考えられるようになるといいね」
古川さんがスタッフによって抱き起こされる。カッターを大谷さんが手から外すと、すぐに下に連れていった。俺は気が動転していて、なにも言えず、ただただ呆然としていた。
「穂積さん、大丈夫?」
「はい、大したことないですから」
「ダメよ、病院に行かなくちゃ。出血がひどいもの。近くに外科があるからすぐに行こう」
「すみません、俺のせいで……」
鈴木さんは冷静に俺の言葉に頷いた。
「葛西さんは大丈夫でしたか?」
「はい、でも穂積さんが…」
凛は無表情で俺に見えないように手で腕を抑えていたが、手首から肘の辺りまでを切られたらしい。出血が止まらない。息を飲んでそれを見ていた患者たちに、大谷さんはカッターを隠すように胸にしまいながら大声で言った。
「みんな! 大丈夫だから、元の作業に戻って!」
患者はそれでも好奇の視線を外さない。大谷さんが各テーブルに行って話し掛けていた。鈴木さんが凛を立たせて、両手で肩をそっと押し出すように歩き始めた。
「鈴木さん、俺も行きます」
「大丈夫です、葛西さんはそのまま続けていてください。床は大谷さんにすぐに拭いてもらいますから」
こんな時に悠長に絵なんて教えていられない。だが、凛は振り向いて唇の端を少し上げた。
「大した傷じゃないですから。ご心配なく」
二人はエレベーターのほうに向かって行って、それからまもなく消えた。麻理さんが後を追っていく。
俺のせいだ。彼女にしっかり対処していなかったから、凛が怪我をした。見たのは一瞬だったが、かなりの幅切られていて、相当な傷だと思う。しばらくして大谷さんが雑巾を持ってきて足元を拭き始めた。俺も慌てて手伝おうとしたが、いいよ、と言われる。混乱している俺に、大谷さんがぽつりと言った。
「ごめんね、かっちゃん」
「……大谷さんが謝ることじゃ…」
「状態がいいってことで復帰を許されたのよ。でも、こういうのって……。本当にわからないじゃない?」
「はい……」
「これで彼女は二度とここにはこられないわ」
「……そうですか……」
俺は元の場所に戻って、椅子に座った。俺を想って刃を振り上げた彼女のことはまったく頭になかった。
守らなければならない人を傷つけた。その事実は心に濃く暗い影を落とした。態度があいまいだったから。言葉が甘かったから。言い訳をしても、凛の腕が元に戻るわけではない。今すぐ彼のところに飛んで行きたい。もう、そのことしか考えられなかった。
凛がエレベーターから一人で降りてきたのは七時を少し過ぎた頃だった。カーキ色の厚手のパーカーを羽織った彼の右腕は見ることができなくて、俺は心配で駆け寄った。
「葛西さん」
凛は少し驚いて、それから小さく笑った。
「どうしました? 帰らなかったんですか」
「俺のために怪我をしたんだぞ。帰れるわけないだろう」
「そんなに心配しないでください。大丈夫ですから」
そうしているうちにエレベーターが上に行ったのを見て、凛はトートバッグを左肩に掛けた。
「行きましょう。上から誰か下りてくる」
「……わかった」
人通りの多い夜の街を、二人並んで歩く。凛がふるっと身震いして、濃紺の空を見上げた。
「……凛、悪かった。本当にすまない」
「別に、俺が勝手にやったことです。葛西さんが謝ること……」
「どんな理由があろうと。俺をかばって怪我したんだ。本当に、すまない」
凛はバッグを持ち直した。パーカーが滑らかで持ち手が滑るのだろうか。俺は手を出した。
「……なんですか?」
「鞄。俺に貸して。持つから」
「大丈夫ですよ。女の子じゃないし」
「頼む」
凛は神妙な面持ちで俺を見て、それからバッグを渡してきた。
「怪我はどうなんだ」
「本当に大した傷じゃないです。出血のわりに大したことなくて。女の人の力なんて思ったほど強くない。少し縫っただけです」
そんなわけがない。あれだけ幅広く切られていたのだから、だいぶ縫ったに違いない。俺に心配を掛けたくなくて、そう言い張る凛の横顔を食い入るように見つめた。
「そうか……」
「ご心配お掛けしました。俺が勝手にやったことで、心を痛めないでください」
「本当に……」
「ストップ。……たまに痛い目を見たほうがいいんです。俺は」
「……痛い目?」
「生きているって感じがする。それに、罰を受けた気になる」
「…………」
凛は笑っていた。それは自嘲に近かった。
「これ、見てください」
「ん?」
凛は細いうなじを突然見せた。夜目にもわかる白い肌。右側の首の付け根近くに、みみず腫れのような赤い跡が二センチほどあった。
「これは……?」
「父親に頭をパイプ椅子で殴られそうになったんです。それがずれて、俺はこの傷だけで済んだ。他にも傷はいろいろありますが」
「……凛」
「最低ですよね、俺。暴力を振るう父親を最低だって、死ぬほど憎んでた。なのに、俺が母や妹にしたことは父親とまったく同じ。ほんと、どうしようもない人間ですよね」
「凛」
「だから痛い目を見たほうがいいんです、俺は。救われる気がする」
贖罪のつもりなのか。だが、それは違うと思う。俺は言った。
「君が傷つけば、お母さんは哀しむよ」
凛の柔らかな髪が秋風に揺れる。一瞬、目元が隠れて、表情が見えなくなった。
「……そうですね」
あっという間に駅に着いた。凛が左手を出してきた。
「ありがとうございました。それでは」
「家まで送る」
「本当に大丈夫です。心配しないでください」
「凛。頼むよ」
どうしても、と、食い下がる俺に、凛は困ったように微笑んだ。
「じゃ、お願いします」
二つ目の駅から五分ほどのところに凛の家はあった。大通りのバス停の近くで、両隣りは美容室と不動産屋。一戸建てで、グレーの外壁の家だった。小さいが駅からは近く、もう少し先にはコンビニエンスストアもあり、便利がいい。
「いいところに住んでるな、凛」
「祖母が残してくれた家を建て替えたんです。そうでなければこんな立地、東京では無理ですよ」
「それじゃ、今日は早めにゆっくりと休んでくれ」
凛が突然、俺の手首をつかんだ。びっくりして鞄を落としそうになる。
「少し寄っていってください。……嫌じゃなければ」
「それは、ダメだよ。ご家族に迷惑だ」
「大した傷じゃないことを母に言ってくれると助かります。俺が言うとまた自殺未遂をしたのかと思われる」
また、という言葉。やはり凛は何度か自殺を試みているのだ。俺はなんだか切なくなった。
「じゃ、少しだけ」
「よかった」
俺は凛に続いて、家に入った。
「ただいま」
「お帰りなさい。……あら」
「ごめんね、遅くなって。この方、デイケアのスタッフで絵の担当の葛西さん。すごくお世話になってる」
「こんばんは、葛西智弘と申します」
「まぁ、凛がいつもお世話になっております」
凛はお母さんの顔を取ったのだな、と思った。続いて部屋からセーラー服姿の、凛の妹らしき子が出てきた。
「栞、凛がお世話になっている先生よ、ご挨拶して」
「……こんばんは。兄がお世話になってます」
「こんばんは。葛西です」
セリフの棒読みのようで、彼女は兄の凛に対してあまりよい感情を持っていないのだな、ということが察せられた。彼女は挨拶が済むとすぐに二階に上がっていってしまった。
「母さん、俺、実はデイケアでちょっと怪我をして。これ」
凛がパーカーを脱ぎ、血まみれの裂けたシャツを捲り、手首から肘まで巻かれた包帯を見せた。お母さんは手を口に当て、絶句している。
「あの、申し訳ございません! 俺のせいで怪我をしたんです、本当に、申し訳ございません!」
「葛西さんのせいじゃないんだけど」
俺は丁寧に頭を下げる。罵倒されても仕方がない。当たり前のことだ。だが、お母さんは俺を責めはしなかった。
「それでわざわざここまで。ありがとうございます。凛、大丈夫なの?」
「大したことないのに、葛西さんが送ってくれたんだ」
「そうなの……そうだ、凛、ご飯できてるから、先生も一緒にどう?」
「……うん、いいよ」
「そんな、俺はこれで失礼します」
「遠慮しないで。どうぞ、上がってください」
「葛西さん、どうぞ」
二人に勧められて、食事を一緒にいただくことになった。凛のお母さんはてきぱきと動き、凛はそれを手伝おうとしたが止められ、俺と二人、ダイニングテーブルでおとなしく座っていた。
「お口に合うかどうかわかりませんけど……」
俺と凛の前にカレーライスが置かれた。食欲をそそるよい匂いがして、俺の顔が緩んだ。
「先生、カレーお好きですか?」
「はい! 大好きです!」
凛がうつむいて笑いを堪えている。なにかおかしかっただろうか?
「ハンバーグにカレー。葛西さん、まるで子供ですね」
「こら、凛! 失礼なことを」
「あ、いえ、いいんです。では遠慮なく、いただきます!」
俺は両手を胸の前で合わせて、いただくことにした。お母さんがにこやかにそれを見ている。。
「お母さん、とてもおいしいです!」
「まあ、よかった! 凛は?」
「おいしいよ」
ふと見ると凛は左手でスプーンを持って、器用に食べていた。右手は膝に下したまま。俺は申し訳ない気持ちで、また彼に謝った。
「凛、本当にすまなかったな」
「え?」
「日常生活に支障が出る」
「大丈夫ですよ。俺、両利きなんです」
「両利き? すごいな」
「でも箸を使ったり、字を書く時は右手になります。それは亡くなった祖母から強く言われていて」
「うらやましいな」
「そうですね、得はしていますね」
三人で雑談をしながら、和やかに食事の時間は過ぎて行った。お茶をいただいた後、時計を見ると九時近くになっていたので、慌てて立ち上がる。
「遅くまで失礼しました。俺、帰ります」
「先生、今日は凛のためにありがとうございました」
「いえ、こちらこそ」
お母さんに玄関まで送られる。すると凛は一緒に靴を履き始めた。
「凛?」
「駅まで送ります」
「ダメだよ。時間も遅いし、ゆっくり休まないと」
「先生、凛に送らせてください」
にこやかに後押しされて、俺は恐縮する。
「またぜひいらしてくださいね」
「おいしいカレーをありがとうございました。では、おやすみなさい」
お母さんが玄関の外まで、俺を見送ってくれた。俺は振り返り、何度も頭を下げる。凛はそれを見てなんとなく笑っているようだった。
「母は、昼はパートで働いているんです」
「そうなんだ」
「病気がひどかった時は会社を休んでまで、俺のことを見てくれたんです」
凛はどこか遠くを見ながら、ぽつりぽつりとこぼした。
「母は女よりも自分よりも、母を取った人でした。俺は、それは尊敬する」
「うん」
尊敬する、といいながら、その表情は硬かった。お父さんとはもちろん、お母さんとの確執もあるのだろうか。とても仲のよい親子に見えたけれど、それは表向きなのだろうか。だが、それを聞くのはためらわれた。
「それから」
「うん?」
突然、凛が俺を見上げた。
「俺が切られた時、凛、って言いましたね。あれ、ダメですよ?」
「え? そんなこと言った?」
「葛西さん、気が動転してて、……ダメだな」
「……ごめんよ」
「謝らなくてもいいですけど。葛西さんの立場が悪くなったら困る」
凛がそこまで俺のことを考えていてくれたなんて思わなかった。そして、その怪我も俺を守るためのものだと容易に想像できる。傷つきたい? その前に、俺を助けようと思ったに違いない。自分から進んで傷つこうなどと、誰だってしたくないに決まっている。
「……葛西さん?」
「凛、次は必ず俺が君を守るから」
凛は困惑したように手を振った。視線を合わせないように。
「やだな、葛西さん。また俺を女の子と間違えて……」
「間違えてない。凛が男だってことはちゃんとわかってるよ」
首を何度か傾げて、凛は苦笑した。よく意味がわからないようだった。俺もこのもどかしさの意味を、まだよく解析できていない。それなのにこんなふうに断定的に言うのは間違っているのかもしれない。けれど、少しでもいい、気持ちをわかってほしかった。
「ごめんなさい、よく、意味が……」
「凛」
俺は凛の細く尖った顎に手を当てた。身体がこわばるのがわかる。どうしても視線を合わせない彼に焦れて、親指で唇をなぞった。ゆっくりと。艶やかで、吸いつくような唇。ずっと触れていたくなるほど、それは心地よかった。
「葛西さん」
凛の左手が親指と唇の間に入り込んだ。そして、俺の右手をきゅっと握りしめた。
「人が……見てる」
「あ……ごめん」
「家のそばで、こんな冗談はやめて」
無理に明るく振る舞う凛が痛々しく見える。薄暗い街灯の下で、栗色の髪が反射する。抱きしめたい、という欲求を堪えて、手を引いた。
「ごめん、俺、どうかしてる」
「そうですよ。葛西さん、俺のことかわいそうって思いすぎて……なんか間違ってる」
確かに最初、同情はした。だが、彼はそれをされたくなくて、何度もそのことを制するような言葉を並べていた。だから気をつけて、なるべく意識していた。だから間違ってはいない。
今日、凛が身体を張った瞬間、俺は特別ななにかを感じたのだ。
恋情から愛情へ。まだそうだと確信できないが、凛が血を流している時、不謹慎にも俺は心のどこかで優越感に浸った。彼も俺をまた特別に想っていると。確実に俺は凛に惹かれている。それはもう否定できない事実だった。
「違うと思う」
「……なにが?」
「俺……凛のこと……」
その先が、突然見えなくなった。待て。いきなりここで、なにを言おうとしているんだ? まだ自分でも理解しきれていない感情をそのまま患者の凛に伝えてどうする? いたずらに彼を刺激して、もし病状が悪化でもしたらどうする? 安易な言動は慎むべきだ。今はまだ言えない。
その先を続けず歩き出した。凛が追ってくる。彼の目を見ることができない。彼はほっとしたように話題を変えた。
「今日はどうもありがとうございました」
「なんでもするから。言ってくれよ」
「嫌だな、言ったじゃないですか。俺は両利きだって。平気ですよ」
「デイケアでも、君の心配をする。わかってくれ」
「だから、俺が勝手にやったことだからって……」
「俺はあの時動けなかった。あのままなら、俺が切られていた。凛、なんで君は俺の前に立った?」
早足の俺になんとか付いてきて、隣りにきた凛は、少し息を上げて考えていた。ぱっと目の前が明るくなり、駅が近づく。横断歩道を渡って、広場を歩くとすぐに改札に着いた。邪魔にならないように、人波を少し避けて、彼の言葉を待つ。どうしても今、確かめたくなったのだ。彼も俺と同じ想いであると。愛情というにはまだ不確実。だが、抵抗不能の強い力で惹かれていると。俺は傲慢であるだろうか?
「……早くしないと、電車が来ますよ?」
「どうして?」
凛は視線を揺らして、言葉を探しているようだった。適当な答えが見つかるまで、俺は辛抱強く待つ。やっと薄い唇が開いた。
「もし……あなたじゃなかったら……俺は前に立たなかったと思います」
凛は雑踏の音にかき消されそうな小さな声で言った。
「あなただから……。あなたには、傷ついてほしくなかったから……。あなたが切られると思ったら、俺は生きた心地がしなかった。……これが本心です」
真剣な目が俺の胸辺りを見ている。どうしても視線を合わせてくれないようだ。だが、その言葉だけで十分だった。俺は傷ついた凛の右腕をなぞった。その言葉を、痛みを、想いを、愛おしいと思った。
「ごめん。俺、勝手なことを言ってるよな……」
「……そんなことは……」
「明日は休んだほうがいい。今日は本当にすまなかった」
「いえ……。気をつけて帰ってください」
「じゃ、また……そうだ、凛」
「はい?」
「今度、どこかに行かないか? 二人で」
「……え?」
視線がやっと合う。俺は困らせた凛の心を解きほぐしたかった。
「……迷惑?」
「迷惑じゃないですけど……」
彼は考えた末に、答えた。
「……行きたい場所があるんですけど……一緒に行ってくれますか?」
「もちろん! じゃ、一緒に行こう」
「はい」
いつもの凛だ。提案してよかった。改札を前に携帯電話を出すと、彼が不思議そうに問う。
「なんで携帯電話なの?」
「運賃は電子マネーで払ってるんだ」
「なんだ。使いこなせてるじゃないですか。教えて損した」
「そんなこと言うなよ。……楽しみにしてるよ、凛」
「……俺も」
「お母さんによろしくな」
「はい、気をつけて」
改札を通り抜けると時々振り向いて手を振る。凛は俺が見えなくなるまで立っていた。
今日は大変な一日だった。だが、凛にまた少し近づけた日でもあった。ホームで電車が来るのを待ちながら、俺は彼の唇の柔らかさを思い出していた。指に残る感触。触れるだけでは物足りない。それを味わってみたい。俺だけのものにしたい。様々な想いが胸の中で渦巻く。
勢いよくホームに入ってくる電車から少し離れて、今来た道を戻っているだろう凛の儚げな後姿を思い浮かべた。
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