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第8話
葛西さんを見送ると、改札を離れて家路を急いだ。母が心配しているだろうから。
彼はいつも突然だ。いきなり俺の心をかき乱すようなことをする。さっきだって……。冷たくなった唇に指を当てる。とても恥ずかしい。人が見ていたのもあるが、あの葛西さんがあんなことをするなんて……。まるで意味がわからない。しかも今度一緒に出掛けようという。俺は自分を恨めしく思った。断ればいいものを、つい、本音を漏らしてしまった。一緒にどこかに行ってみたいと思ったことは事実だ。これではまるで進歩がない。
家に着きドアを開けると、母が目の前で心配そうにうろうろしていた。鍵を閉める。
「ごめん、心配掛けて」
「先生は無事に帰った?」
「うん。大丈夫……」
「凛。本当に傷、大丈夫なの?」
俺はパーカーを脱いで、靴も脱いだ。
「大したことないんだ。ただ出血がひどかったから、包帯してるだけ……」
「誰に切られたの? どうして?」
上の階の妹の部屋のドアが開いた。だが、俺の姿を見るのが嫌なのか、すぐにドアは閉められた。
「……患者さん。カッターを持ってきてて、突然。葛西さんを切ろうとしたから、俺がそれを止めただけ」
「……そう」
母は深いため息をついた。言いたいことはわかる。だからあんなところに行かせたくないのよ、だろう。だが、母はその言葉を飲み込んで、台所に入っていった。
「お風呂入れたら入って、早く休みなさい。なにかあったら声掛けてね」
「ありがとう」
俺は言われた通りに風呂に入って寝ることにした。今日は疲れた。本当は風呂になど入りたくないけれど、明日もまたデイケアに行く予定だ。風呂に入っていいのかわからなかったが、身体をきれいにしておきたかった。
風呂に毎日入れるということは体調がよいということだ。ひどい抑うつ状態の時は一週間、いや半月だって風呂に入ることができなかった。外に出ないとはいえ不衛生だ。だが、なにをするのも億劫で、食事をすることさえままならぬ時があったのだ。今はまだいい。
左手も使えるとはいえ、包帯が巻かれた右手は本当に不自由だった。大きなビニール袋で右肘まで覆ってゴムで緩く止めて、湯船に浸かる。右手を縁に掛けながら、今日のことを考えた。
不快だった。女性にまとわりつかれている葛西さんを見るのは。隣りで麻理さんが二人のことを話すのさえ。
葛西さんが困っているのも、もどかしい。はっきり言えないのは相手が患者だから。わかっている。それでも目の前で繰り広げられる光景は不愉快以外の何物でもなかった。だからさっさと帰ろうとしたのだ。まさかあんなことを、あの女性がするなんて。
大好きだったのだろうな、としみじみ思った。彼女にかけた言葉は、自分への言葉だ。大切な人を傷つける痛みを、俺は知っている。けれど愛しているからといって、一方的に傷つけていいという理由にはならない。それはいっそただの自己愛に近い。傷つけられる方は恐怖だけを感じる。自分の都合で相手を傷つけてはいけないのだ。これは病気でなくとも当たり前のこと。その当たり前のことが今でもできない。
俺は葛西さんが傷つけられるのが怖かった。だからとっさに前に立った。痛みは俺だけが感じればいい。彼にはいつも明るく笑っていてもらいたい、そうして学生生活を楽しんでいるほうが似合っている。俺のような病人に関わって、知らずにいていい暗部に触れて嫌な気分にならないでほしい。そう思いながら一緒に出掛けようと誘われた時、うれしいと思ってしまっていた。矛盾しているとわかっていて、どうしても相手より自分の気持ち優先になってしまう時がある。相手が望んでくれているとしても断るのが彼のためではないのか、と俺は歯がゆい思いをする。
転ばないように左手であちこちをつかみながら風呂を出る。ビニールを外して捨てながら、身体をバスタオルで大雑把に拭く。なんとなく傷が痛むのは気のせいだろうか。消毒は丹念にしてもらったし、しっかり縫ってもらった。範囲が広かったので大事に見えたが、今までしてきた自殺未遂に比べれば、本当に大したことではなかった。
風呂を出て、母に就寝の挨拶を告げると、二階に上がった。ペットボトルは風呂に入る前に机の上に置いておいた。隣りに置いてある痛み止めに目をやる。そこまでひどくなるとは思わなかったが、病院から出されたのだ。睡眠薬を飲んだ後、ベッドの上に身体を投げ出す。思い浮かぶのは葛西さんの優しい笑顔だけ。俺と関わることで、あの笑顔が曇るのは嫌だった。いや、確実に曇るだろう。わかっているのに……。包帯から血が滲んでいないことを確認すると、俺は目を瞑った。もうなにも考えず寝てしまおう。今はそれが一番だった。
「……?」
何時だろう。まだ外が暗い。枕元に置いた携帯電話の電源を起こすと、まだ朝方の四時だった。葛西さんからメールが来ている。
――なにかあったら電話をして。
心配症な人だなぁ、と笑ってしまった。しばらく身体の様子を見ていたが、どうも脈が速い。身体も熱い。熱が出ているようだった。こういう時、熱は測らないようにしている。高熱だとわかると、それだけで気持ちが折れてしまうからだ。息が上がって、咳き込む。額に汗がにじんでいる。
面倒だが、ベッドからのろのろと立ち上がり着替えをすることにした。そうしないと風邪を引いてしまいそうだった。痛み止めを飲もうとしたが、考えて、常備薬の中から解熱剤を出した。痛みは我慢できる。熱を先に下げたい。水を飲み始めると、喉が乾いていたようで、ボトルの半分ほどを飲んでしまった。タオルで汗を拭きながら、またベッドに寝転んだ時だった。突然、携帯電話の画面が光った。寝る時はいつも音を消しているので、なにか連絡がきてもわからない。
「葛西さん……」
メッセージで一言。
――大丈夫か?
この人の前で具合が悪いところは見せられないなぁ、と苦笑する。こんなに心配症だとは。
――大丈夫です。寝てないんですか?
左手で画面のキーボードを打つ。
――心配で、なかなか眠れなくて。
――身体に悪いですよ。早く寝てください。
――なんで起きてたんだ?
一瞬、逡巡する。本当のことを言えば、この人はますます心配する。俺は嘘をつく。
――たまたま目が覚めただけ。
――本当に?
俺は思わず葛西さんの電話番号を押した。急に声が聞きたくなったのだ。コールはすぐに切れた。
「凛、大丈夫か?」
「早く寝てください。平気ですから」
しばらく間があく。
「息が上がってる」
早々にバレてしまった。俺はベッドで寝返りを打った。深いため息が思わず漏れた。
「ごめんなさい。熱が出て」
「なんで謝る。高いのか?」
「そんなにないと思います。今、解熱剤を飲んだし」
「そうか……ゆっくり休んでくれ」
電話を切ろうとした葛西さんを俺は引き留めた。声が聞きたい。低くて、穏やかで、優しく耳をくすぐる声を、もう少し聞いていたかった。
「ごめんなさい……もう少し話がしたい」
「……それはいいけど、大丈夫なのか?」
「だから話したい」
葛西さんは困っているだろうが、少し甘えたい。熱があるのをいいことに、俺はまたこの人の優しさにつけ込もうとしている。
「うん。つらくなったら切るんだぞ」
「わかってる」
「やっと敬語、止めてくれた」
「俺、ダメなんです。年上の人には必ず敬語を使う癖がついてて」
「それもお祖母さまの言いつけ?」
「そうです。俺、お祖母ちゃん子だったんで」
「凛はいい子だな」
思わず息を飲む。この人は本当に女の子の扱いがうまいのだろう。どのくらい、どんな子と付き合ったのだろう。確かバイだと言っていたから男もいるのだろうが、そう考えるとなんだかまた胸が焼けるような痛みに苛まれる。
「……音楽が聴こえる」
葛西さんはなにかピアノの曲でも聴いているようだった。
「ああ、眠れない夜のためのCD」
「子供みたい」
くぐもった笑い声が聞こえる。
「この曲を聴くと、なぜか凛を思い出すんだよ」
「なんて曲?」
「ドビュッシーの「月の光」」
胸の鼓動が速くなる。苦しくて、どうしようもなくて、長く暗いトンネルにいたあの時を思い出す。この曲はあの頃の象徴だ。葛西さんにはどういうふうに聴こえているのかわからないが、俺には哀しい曲だった。
「……そうなんだ」
「きれいな曲だろ?凛にぴったりだ」
「……そう……?」
なんとなく、泣きたくなった。でも、泣かない。泣けばこの人は心配する。この人が困ることはなにもしたくない。俺はこめかみを抑えて、身体を丸めた。
「明日、葛西さんはくるの?」
「行くよ」
「俺も行くから」
「無理するなよ」
「大丈夫」
「……さぁ、ゆっくり、休んで。な?」
「……うん。おやすみなさい」
通話を切った。どうしてだろう。葛西さんのことを思うと胸が苦しくなる。大事にしたいと思う。だから嫌われたくなくて、嘘もついてしまう。ありのままの自分でいたら、彼を傷つけてしまうから。でも、この傷ついたままの自分を見てほしい、と思ってしまうのも真実だ。また矛盾した気持ちの間で揺れ動く。すべての感情が白黒で決着できたらいいのに。この想いが深まれば深まるほど、段々臆病になる。いつもの俺でいられなくなる。
「葛西さん……」
痛む腕を握りしめて唇を噛みしめる。この想いがこれ以上加速しないように。
少し眠った後、定時には目が覚めた。解熱剤が効いたらしく、熱も大分下がっていた。だがなんとなくだるい感じがして、今日はデイケアを休むことにした。
ベッドでだらだらしているうちに一日はあっという間に過ぎ、五時頃になると葛西さんから連絡が来た。
――凛、大丈夫か?
本当にこの人は優しいんだな、と唇が緩む。
――熱はもうないです。だらだらしてますよ。ご心配をお掛けしました。
俺は思い立って、続けてメッセージを打つ。
――今度の日曜、空いていますか?
――午後なら空いてるよ? 約束のこと?
――はい、海を見に行きたいんですけど。近くでいいから。
甘い恋愛小説のセリフみたいなことを言っているなぁ、と思われるだろうか。でも急に海を見たくなった。どこでもいい。寄せては返す波を、途切れることのないものがあるのだ、とこの目で確かめたかった。
――寒いけど、大丈夫?
――平気です。
――いいよ。じゃ、日曜に。一時には迎えに行くからね。
――ありがとうございます。
迎え? 車でも持っているのだろうか。わからなかったが、それだけで手が疲れて、携帯電話を枕元に置いた。なんとなく眠気が襲ってきて、必死に目を開けようとする。浅い眠りは悪夢を呼ぶ。このままいい気分でいたい。葛西さんの微笑みを思い浮かべながら、ようやくのことでベッドから下りた。
「こんにちは、凛」
「……こんにちは」
葛西さんの顔が見られない。二人で出掛ける。特に意味はないのに、緊張している。彼はいつものようにトレーナーとジーンズというラフな格好で、薄いがセーターの上に厚手のパーカーを羽織っている自分としては心配になる。
「葛西さん、寒くないの?」
「いや、大丈夫」
トレーナーの首の部分をぐいっと引いた。覗いた鎖骨にどきりとする。
「中にもう一枚着てるから」
「……そう」
スニーカーに足を入れて、俺は鍵を持った。
「お母さんも妹さんもお出掛け?」
「はい、一緒に出掛けることは母に言ってあります」
「そうか」
外に出て両隣りを見る。その仕種を見て、葛西さんは首を傾げた。
「どうしたの?」
「先に行っててください」
「いいけど、じゃ、車で待ってる」
「……車?」
「うん。借りてきた」
車。狭い空間に二人。なんだかものすごく緊張する。そんな自分を恥じて、今度は気が重くなる。鍵を閉めて、葛西さんの後に続く。助手席のドアを開かれて、俺は頬が熱くなった。
「……そういうことしないで」
「……なんで?」
「女の子じゃないんだから」
「女の子だと思ったことはないけど」
さっと席に座り、シートベルトをした。車に乗るなんて、何年ぶりだろう。酔わないだろうか。前を回り込んで、後続を確認し、葛西さんも運転席に乗った。
「じゃ、行くよ」
「はい」
ウィンカーを右に動かし、車はすっとその場を離れた。
車にほとんど詳しくない俺はどこのメーカーなのかとか、誰に借りたのかとか、そんなことを考えていた。
「……凛」
「……なに?」
「なんか話、しない?」
「……ああ、すみません」
機嫌を伺うような葛西さんの声。俺の真顔は冷たい、とよく言われたものだ。
「凛は免許、取ろうとは思わないの?」
「はい」
「どうして?」
「父が亡くなった時、手放してしまったし、別に車が無くても、駅が近いから電車でどこにでも行ける」
「そうか」
「……すみません、俺、怖い顔、してました?」
「してたしてた」
どんな表情をしていいかわからず、とりあえず、もう一度謝った。
「すみません、怒ってません」
「謝ることないよ。怒ってるとは思ってない。ただ、もっといろんな表情をしたらいいな、と思っただけで」
それができれば、苦労はしていない。この病気になってから、感情がうまく表情に現れない。昔より、確かに表現が乏しくなっているのは自分でもわかっている。
葛西さんの運転姿を盗み見る。慣れているようで、俺はまたマイナスのほうに考える。こんなふうに女の子とデートしたのかとか、バイだというから、余計な妄想も膨れ上がる。
「……男の人と……」
「うん?」
しまった。口にしてしまった。あまり立ち入ったことを聞いてはいけない。
「なに?」
「いえ……」
「言い掛けたことは最後まで言う」
意地悪そうに笑う葛西さんの膝を軽く叩く。
「……意地悪しないで」
「意地悪したくなるから」
俺は前を向きながら、一番聞いてみたかったことを口にしてみる。
「……男の人って……どんな人とお付き合いしていたんですか?」
「うーん」
気には障らなかったようだが、葛西さんはしばらく考え込んでいた。
「……言いたくないなら、無理に言わなくても」
「年上の人と付き合っていたよ」
「年上」
「うん。会社員の人とね」
葛西さんはどっち側なのだろう。気になったが、そこまでは口にできなかった。
「年上だけど、あまりそんなふうに思えなかったな。線の細い人だった。仕事がとても忙しい人でね。疲れてしまうと俺のところにきて……」
語尾のニュアンスでわかった。そうか。葛西さんは抱く側のほうだったのか。体格から考えると、そのほうが自然か。自分で聞いておいて、それを想像してしまって、勝手に淋しい気分になっている。大バカだ。
いつも会話が変になってしまい、途切れさせてしまう。話題のチョイスが気まずいものばかりで、自分としては普通に聞いてはみたいことなのだけれど、相手にしてみれば言いにくいことが多いのだろう。
気付かれない程度のため息をついて、ふと標識を見た。千葉のほうに行くのか、とぼんやり思った。
二人で黙って砂浜を歩く。何組かのカップルに出会って、なんとなく恥ずかしくなる。男同士で歩いて、葛西さんは恥ずかしくないのかな、とか、向こう側から歩いてくるカップルは俺たちのこと、どう思っているのかな、とか。思考がめまぐるしく変わって、見たいと言った海もほとんど見ていない。
「凛、どうした。うつむいて」
「……あ、ああ、えっと……」
「手、繋ぐ?」
やっぱり葛西さんは意地悪だ。目元が笑っていて、すっかり遊ばれている。そう、この人にとって俺は患者で、特別な存在になることなどあり得ない。これも同情からしてくれていること。しっかりとそのことを自覚していないと、また期待して依存してしまう。
「大丈夫だよ。凛が怖がることはしないから」
「……女の子とは? どういう付き合いをしてたの?」
葛西さんは目を丸くして、俺を見た。
「随分と俺の過去を知りたがるんだね」
「……それは」
「興味を持ってくれるのはうれしいから、構わないけど。でも俺の今を知ろうとはしてくれないの?」
「今のことは知ってるよ。デイケアの絵の先生」
「そうじゃなくて」
葛西さんは歩を止めた。俺を見つめ……てるみたいだ。逆光で、表情がぼんやりとしか見えない。
「凛への気持ちとか」
「……葛西さん?」
「気にならない?」
同情。それ以外のなにがある? かわいそうだと言ったのは葛西さんだ。そう、限りなくかわいそうなんだろう。絶え間ない風に揺れる髪を手で押さえる。
「わかってるよ」
「なにを?」
「……少し疲れたみたい」
「……俺、押しすぎてる?」
「……なに?」
「凛に、重いかな。俺、自分の気持ちを押し付けすぎ?」
「……なにを言いたいのか、よく……」
なにがなんだかわからず、とりあえず歩き出そうとした……その時。左手首をつかまれて、引き寄せられて……。
唇に、葛西さんの、多分それが触れた。かがんだ彼の髪の隙間に光る波がきらきらして見える。その意味がわからず、呆然と立ち尽くした。乾いた唇が葛西さんの舌で湿らされる。思わず身体がかっと熱くなり、身体を強く引いた。
「手首……痛い」
「凛」
「いやだ、葛西さん、冗談が過ぎる」
「冗談……?」
「俺、頭おかしいんですよ? 遊ぶなら他の人のほうがいい。俺と遊んでも面白くなんかない」
手首を急に突き放されて、行き場の無くなったそれを胸に抱いた。そう。からかうのはよしてほしい。そういう冗談は通じないのだ。人を選んだほうがいい。その場を後にして、砂浜を歩く。しばらくすると、背後から声を掛けられる。
「冗談でこんなことをするヤツだと、君は俺のことを思っているのか?」
足を止める。うつむいて、肩で呼吸をした。そんな人ではない。わかっている。わかっているからこそ、今のキスは無かったことにしたほうがいい。ダメだ。これ以上踏み込むことは互いのためにならない。葛西さんのためにならない。彼が好きだから、傷を与えたくはなかった。
それでも返す言葉が見つからなくて、足元をずっと見つめていた。波が繰り返す音をどこか遠くで聞きながら、俺は風に吹かれて、その場に立ち尽くしていた。
「……凛、着いたよ。凛?」
いつの間にか眠ってしまっていたようだ。肩から足元に、ブランケットが掛けてあった。周りはもう暗くなってきている。
「ごめんなさい。寝てしまうなんて……」
「いいよ。疲れたんだろう」
いつもの葛西さんだ。あのキスは無かったことになっているのだ。ほっとしながら、しかし、どこか心の奥で淋しさを感じながら姿勢を正す。ブランケットをたたもうとすると、葛西さんがそれを丸めて、後ろの席に置いた。
「……今日はどうもありがとうございました」
「……楽しかった?」
「はい」
「それはよかった。まだ五時だから、十分門限には間に合ったね」
「はい。それじゃ、また。デイケアで」
「今日はゆっくり休んで」
「はい。ありがとうございました」
振り向いた瞬間、見てしまった。淋しそうな微笑みを……。でもそれを知らないふりで、車を降りる。ずるいヤツ。手を振る葛西さんに手を振り返す。車が出て行った後、見えなくなるまでその場にいた。見えなくなっても、なかなか家に入る気になれなかった。二人で歩いた海。葛西さんの告白。そして、あのキス。全部、無くなった。胸の奥が苦しくて、喉が熱く痛んだが、しばらくするといつもの俺に戻った。
それでいい。彼の心の真実とか、俺の恋心とか、そんなものはどうでもいい。必要なのは一人で生きていく力。なにも他には必要ない。冷静な面持ちで、顔を上げる。家の鍵は開いていて、妹と母の靴が置いてあった。
「ただいま」
いつものように声を掛けて、日常に戻る。
翌日から俺と葛西さんはいつものように、そして、多分今まで以上に気を遣ってデイケアの時間を過ごしていた。
俺は決して彼に視線を投げなかったし、それを気にしてか、決めた時間を少しくらいなら過ぎても、声を掛けられなくなった。
淋しいなんて一時の感情。すぐに消えていくもの。失うものが多いような関係を続けるより、今の淋しさを辛抱するほうがよほど建設的だ。
それはある日の昼食の時だった。俺は壁に向かって、一人で食事をしていた。食堂の中は机が向き合って置いてあり、患者は談笑しながら食事を摂ることが多いのだが、調子が悪かったり、一人で食べたい者は一部、壁に向かって設置してあるテーブルで食事をする。ここに座っている人に無理に声を掛けることはやめましょう、と張り紙があった。入所した時からずっとここで食べることにしている。人と話をしたり、合わせたりするのがとても疲れるのだ。壁にかかっている写真や絵を見て食事するほうがほっとする。
その日、なぜか麻理さんが隣りの席にきて、俺に話し掛けた。内心、むっとしたが、おかまいなしに最近の自分の調子やらなにやらを話し始める。彼女の顔を見ることもなく、話もほとんど聞いていなかった。いつもはスタッフが注意するが、今日に限って一人しかいなくて、配膳に忙しく、こちらまでは気を配ることはできない。食事を終えて立とうとすると、麻理さんは一冊の本を差し出した。そのタイトルさえ、俺は見ていなかった。
「凛くん、これ、もらってほしいんだ」
冗談じゃない。俺は誰にもなにももらうつもりはない。
「悪いけど、いらない」
「……そっか」
そのままお膳を持って、棚に持っていく。ルールに反した彼女に少し腹が立ったまま、その場を後にした。
数日、彼女の姿を見ることはなかった。だが、別になにも思わなかった。
籠バッグを作ることにも飽きて、一人で本を読んでいた。今日は女性の話し声がうるさい。集中できずに顔を上げる。その中の一人と目が合うと、おずおずとこちらにやってきた。
「あの……穂積さん、麻理さんと仲よかったよね」
「別に、そんなことないけど」
「あのね。麻理さん、死んじゃったんだよ」
死んだ。にわかに信じられない言葉に、耳を疑う。
「……いつ」
「昨日の夜。睡眠薬をいっぱい飲んで、川原で凍死したんだって」
「…………」
「診察室に今、警察が来てるんだって。少し前から変なところはあったんだ。「借りてたもの返さなくちゃ」とか、人になにかあげたりとか。穂積さん、そういうことなかった?」
数日前の昼のことを思い出す。彼女はなぜ本を差し出した?
「でね、みんなでお通夜に行こうって話、してるんだけど、彼女一人暮らしだったでしょ……」
俺はその後、どうしていたか、しばらく記憶がない。ただ、麻理さんが死んだことも大したことではなくて、こうしてしばらく話をしたらすぐにまたいつもの日常が続くのだろう、と、ぼんやり考えていた。
麻理さんの顔が思い出せない。話したことも、なにも思い出せない。あんなに慕ってくれていたのに。
あんなふうに冷たくするんじゃなかった。ああしなければ、もしかして生きていたのかもしれない。俺のせいで麻理さんは死んだのか?……違う。俺のせいではない。だが、最後があれでは、どうにも後味が悪い。そう考えて、自分の考えにぞっとする。自分のことしか考えていない自分。彼女が死んだことを哀しめない自分。人間としてやはりどこか欠如している。あまりにも自分勝手だ。
何度も肩を押されていたらしいが、なかなか気づかなかった。ふと振り向くと、心配そうな葛西さんの顔がそこにあった。
「穂積さん、どうした?具合でも悪いのかい?」
「……葛西さん……」
テレビを観ると、もう七時になろうとしていた。よほど見かねて、俺に声を掛けたのだろう。今日も誰も作業ルームにはいなかった。食事から帰ってきた人はいないのだろうか。
「今日はみんな帰ったよ? あとは穂積さんだけ」
「……ありがとうございます……」
立ち上がったが、ずっと座っていたせいか、めまいを起こしてしまった。
「穂積さん」
両手をついて、乱れる呼吸を収めようと喘いだ。
「……どうしたんだ? ずっと上の空で……。なにかあったのか?」
心配そうな葛西さんの声。ここで彼に縋ったら、俺は最低の人間になる。なんとかコートと鞄を持って、歩き出す。
「凛、本当に大丈夫なのか」
「……はい」
「なにかあったのなら、……俺に話してくれ」
優しい人。病気に、わがままに振り回されて、彼は新たな犠牲者だ。そして俺はまたダメな人間になっていく。
「なにもないです。お疲れ様です」
自分が話しているように思えない。どこから声が出ているのだろう。心配してくれている葛西さんを置いて、エレベーターへと向かった。
外はとても寒くて、もっと寒く暗い場所で麻理さんは死んだのかと思ったら、胸が痛かった。
駅に着くと、人が改札前にたくさんいて、なんだろうと電光掲示板を見上げた。
人身事故。時刻を見るとつい先程のことのようだ。時間がかかるのだろうな、と考えながら、俺は階段を上がった。そう、他人事。誰かが傷ついていても、つらくても、哀しくても、死んでも、所詮は他人事。だから、もう二度と戻りたくない。あの死んだほうがマシな時に。
外は更に冷え込んでいて身震いする。鞄から携帯電話を出すと、母からメールが何通も来ていた。そこには心配している母の言葉がいくつも並んでおり、じんと心が温かくなった。
「あ、母さん? 俺だけど。電車が動いてなくて。まだしばらく帰れそうにない。うん、大丈夫。様子を見ながら帰るから」
短い会話を終えて、しまおうとすると、突然画面が光った。表示された名前で完全に正気に戻る。
「凛?」
「……葛西さん。どうしたんですか?」
心配そうな声だった。
「今、電車止まってるだろう。ニュースに出てた」
「大丈夫です。様子を見ながら帰ろうと思ってるんで」
「こんなに寒いのに、どこにいるんだ」
「ああ、駅のそばにいます」
「どこにいるんだ?」
「……?」
なんだか声の後ろから雑音が聞こえる。なんだか息も弾んでいるようだ。
「凛、聞いてるか?」
「あ、はい。駅前のバス停のところに……」
電話が突然途切れた。目の前に走ってくる葛西さんが見えた。
「凛!」
「……葛西さん」
彼は少し怒ったように俺の前に立った。
「なんでコート着てないんだ」
「……ああ、……すみません」
腕に掛けていたコートを眺める。そうか。寒いのはコートを着ていなかったからか。
「鞄こっちに。早くコートを着て」
「……すみません。でも、どうしてここに?」
「帰れないだろう? いつ動くかわからない」
「でも終電には間に合うでしょう?」
「……なんで今日はこんなにぼんやりしているんだ」
彼の目を見ることができなくて、うつむいていた。視線を合わせたら、負けてしまう。
「なんでもないです。大丈夫だから、早く帰ってください」
「このままにはしておけない。こんなになってるのを見て」
「そんなに俺、おかしいですか?」
葛西さんは一瞬、言葉につまった。
「そういうことじゃなくて……。深く考え事をしているようだから」
言葉を選んでくれる彼はどこまでも優しい。俺はずるい人間だから、その気持ちにつけ込んでしまいそうだ。
「大丈夫です」
「……いいから。こっちこい」
腕を引かれて、歩き出す。
「どこに行くんですか?」
「俺の部屋にくればいい」
「え?」
「お母さんに言って。今日は泊まっていけばいい」
「でも……」
「少し話をしよう。落ち着いて」
なにも言えず、葛西さんに付いていく。俺はどこまでも、愚かな人間だった。
コンビニで買ってもらったお弁当を食べて、お風呂に入らせてもらって、俺は今、ベッドに座っていた。葛西さんはお風呂に入っていて、その間することもなく、借りたぶかぶかのパジャマの端を折っている。柔らかなバスタオルを首に巻いて、改めて部屋の中を眺めた。広めのワンルームはまだ新しいものだ。ベッドの周りには本と絵がたくさん無造作に置いてあって、絵の具の匂いがする。美大生の部屋とはこういうものなのか。端から一枚一枚眺めていく。すべて風景画だった。フェルメールの絵が好き、と言っていた彼の片鱗は積み上げられた本の中に見受けられる。絵を描くとは、どういう心持ちなのだろうな、と考える。時々、絵を観に行く時があるが、その絵その絵で気分が上がったり、下がったり、うれしくなったり哀しくなったりする。体調がよく精神的にも安定している時でないと絵画鑑賞は難しい。それは描き手の想いが残っているのか、俺の気持ちの反映なのか、わからない。
絵のどれもが陽の光のように暖かくて、彼のように穏やかだ。どこか透明感があり、観ていて心が落ち着く。これが実際にある場所なのか、それならどこなのか。よくわからないまま奥のイーゼルに視線がたどりつく。描き掛けの絵なのだろうか、白い布がかかっている。気になって立ち上がったところに、浴室のドアが開かれた。
「……凛?」
頬が熱くなるのを感じる。腰だけにバスタオルを巻きつけたままの葛西さんを見て、妙な気分になるなんて。俺は多分、ノーマル、だと思う。昔、好きだった女の子もいた。ただ、女性と付き合う前に男性と関係を持ってしまった。葛西さんが言っていたのと同じように、年上の会社員だった。記憶が曖昧でどうやって出会ったか、どうして付き合うようなことになったのか、そもそも付き合っていたのかわからないが、何度か身体の関係を持った。どうもはっきりしないのだが、薬を抜いた後も連絡してしまう辺り、その人を好きだったのかもしれない。それはよくわからない。怒りに任せた攻撃に耐えかねて、彼は電話番号を変えたようだ。まったく連絡が取れなくなった。本当に悪いことをしたと猛省している。
では好きな女性は、と言われても今はいない。一人で生きていこうと決めてからは声を掛けられても、無視していたからだ。麻理さんは、俺のことが好きだったのだろう。その女性にあんな冷たいことをしてしまった。俺は誰のことも好きになる資格がないと思う。
髪を拭きながら、葛西さんがベッドに座った。ボディソープの爽やかな香りが鼻をくすぐる。どうしていいかわからなくなり、なんとなくうつむいた。
「どうした?」
いぶかしげな問いに、あいまいに頷く。
「うん、あの絵……」
「……あれ?」
イーゼルを指さすと、彼はめずらしく言葉を濁した。
「うん……」
「フェルメールが好きだって言ってたよね」
「言ったよ」
「描いてるとか」
「それは違う絵なんだ」
「そうなの」
「……葛西さん、なんかスポーツやってたの?」
「やってたよ」
「そうなんだ……」
「どうして?」
「……うん……」
引き締まった上半身を見て、そう思っただけだ。服の上からだとなんとなくぼやけていた身体の線が、今ははっきりとして、さらにうつむく。
「立ってないで、座れば?」
「……うん……」
少し間を開けて、隣りに座る。手櫛で髪を整えて、髪を拭いていたタオルをベッドの端に置いた。
「眼鏡は?」
「眼鏡? ああ、家にいる時は外してる。そんなに見えないわけではないんだ」
「そう……」
ぎしっと、スプリングの弾む音がする。
「凛、もしかして緊張してる?」
「え……」
「大丈夫、もうキスしたりしないから。安心して」
「それは……」
その言葉に、がっかりしている自分がいる。こんなのおかしい。
「饒舌になりすぎ」
その言葉にふっと肩の力が抜けて、小さなため息が漏れた。
「なにかあった?」
俺は姑息にも、肩の荷を少しでも下したい一心で、麻理さんの話をしてしまった。
「最後にもし本を受け取っていたら、……麻理さんは死ななかったのかもって……」
暖房が入っているとはいえ、葛西さんが裸だったのを忘れて、随分長いこと話をしてしまった。焦って服を着るように促す。彼はグレーのジャージを着ると、また隣りに座った。
「ほんとはね……。そうじゃない、って言ってほしいんだと思う。そうすれば、俺のせいじゃないって思えるから」
本心を吐き出す。そう、誰かにそう言ってほしかった。
「どうだろう。俺は麻理さんじゃないからわからないけど……」
「そうだよね……」
「君も麻理さんじゃないから、わからないだろう?」
「それは、……そうだけど……」
「だからわからないままで、いいんじゃないかな」
グレーゾーン。それを提示されて、いつもなら嫌な気分になるのに、なぜかそれは無くて俺は深く頷いた。
「麻理さんのことを無理に忘れることはない、彼女の分まで生きろとも言わない」
「うん」
「君は、今を生きていけばいい」
こうして、葛西さんの隣りにいられる。それだけで十分だった。そして帰る家があり、待ってくれている人がいて、話を聞いてもらえる。だから、俺は生きていられる。麻理さんの話を聞いてあげなかった、冷たい俺に許されている、この特権。この不平等。俺の病気もそのひとつ。でも、人はみんななんらかの不平等に耐えているんじゃないかって、今更ながらしみじみ思う。
「……ありがとう」
「……納得できる答えじゃないかもしれないけど」
「ううん、ありがとう」
俺は葛西さんの腕にもたれた。生きているからこうして触れられる。それだけで、俺は生きていてよかった、と思えた。
そんなふうに優しい沈黙と、多くはない会話を重ねていると、深夜一時を過ぎてしまった。
「そういえば凛、薬!」
雰囲気を壊したくなくて、眠る前に飲めばいいと思っていた。焦る彼を安心させようと、鞄を開けてケースを取り出し、それを彼に見せた。
「今夜とか、明日の分……」
「大丈夫です。緊急時のために、とりあえず三日分の薬はいつも持ち歩くようにしてるんです」
葛西さんがほっとしたように、隅に寄せてあったガラステーブルの上からペットボトルを取ってくれた。
「えらいな、凛」
ほめられることではない……と思いながら、ベッドへ戻り、夜の分と睡眠薬を飲み込んだ。
「ありがとうございます」
目の前に立たれて、なんとなく緊張してしまう。当然のことだけど、一緒に寝るんだよな……。好意を持つ人の隣りで眠る。多分、初めての経験に、自身の身体が熱く脈打っているのを感じる。早速葛西さんにそれを指摘された。
「凛? 顔が赤いぞ」
不意に頬に手を当てられて、大げさに身体が反応した。それをスルーして、彼は真剣に俺の目を見た。余計気まずい。
「熱はないようだけど」
「……はい」
部屋の明かりが淡く滲んだオレンジ色に変わる。葛西さんは遠慮もなしに俺を押してベッドの中に入ってきた。
シングルベッドに二人横たわると、どうしても身体が触れてしまう。細心の注意を払って横になる。こうして背を向けていれば大丈夫。布団の裾を握って、できるだけ壁に寄ろうとした。
「……!」
その時だった。こちらを向く気配がしたと同時に逞しい両腕が伸びてきて、引き寄せられ抱きしめられる。一瞬にして血の気が引いていく。
「……葛西さん……」
葛西さんは緩やかに、うなじの辺りに顔を埋めた。傷痕に唇を当てられて、俺は情けなくも腕の中で震えてしまう。目の前は壁。逃げ場がなかった。
「もう……触れないって……」
声が上擦る。唇が位置を変えて、また触れた。変な声が出てしまいそうになるのを必死に堪える。
「凛、少しだけ。君に触れていたい」
「……葛西さん……」
「キスはしないから」
これだって、一種のキスじゃないか。俺は弱くもがいた。
「……傷はやめて……」
「……どこなら、いい?」
どこって……。どこもダメに決まっている……。葛西さんの浅い呼吸がが首筋に当たるたびに、胸が弾む。自分の呼吸も早くなってきているのがわかる。こんなに意識して、こんなに身体を固くして、バカみたいだ……。
俺はぎこちなく腕の中で向きを変える。薄暗い明かりの中で俺をじっと見つめている葛西さんの唇に、思い切って自分の唇を押しつけた。一度だけ、キスしたい。それで終わり。短絡的な思考の後に招いたのは、葛西さんからの激しいキスのお返し。焦って身体を引こうとしたが、余計に引き寄せられて俺の唇を吸ってくる。苦しくて歯を割ると、そこから舌が忍びこんできて、俺は喘いだ。舌を吸われ、首筋の傷を撫でられただけで、俺は気が変になりそうだった。思い出す、記憶の断片。彼とは違う。彼とこんなキスをしたことはなかった。ベッドにいる時は身体を繋げていることしかなかった。これって、なに? 葛西さんは俺になにをするつもり? 急に怖くなって、俺は力を込めて、葛西さんの胸を押した。葛西さんはすぐに唇を外して、戒めを解いてくれた。
「ごめん」
「……いえ……」
「……嫌だった?」
嫌ではない。ただ、怖くなっただけ。嫌であるわけがない。好きだから自分から口づけた。俺は返事の代わりに、自分から葛西さんに近づいた。探るようにして首元にしがみつく。ほっとしたように、葛西さんは俺を抱きしめなおした。
「凛」
「……なに?」
「君のことが、好きだよ」
その言葉は、俺を絶望の底に叩き落とすのに十分な威力を持っていた。息をつめて、目をぎゅっとつぶる。
「俺は……」
「病気のことを、気にしているようだけど……」
そう。それが俺をどこまでも無気力にさせる。緩和させても、完治はあり得ないと知って、今の覚悟を持つまで、どれだけ俺が悩み苦しんだことか。俺は必ず葛西さんを傷つける。好きになればなるほど、葛西さんを苦しめる。それしかできない俺を、いつかこの人は見捨てるだろう。これは確実な将来だ。俺は嫌だ。葛西さんに嫌われたくない。そういう感情を抜きにすれば、俺はこの人とうまくやっていける。
「……わかってない……。葛西さんは、俺のことをなにもわかってない……」
「どうして?」
「セックスくらいなら付き合ってあげるよ。でも、それはダメ」
精一杯、なけなしのプライドで大人ぶってみる。
「……どうして、そういうことを言うんだ?」
「好きになられても……困る」
「困る? 俺を傷つけるから?」
かっとなって、俺は葛西さんから身体を離して、上半身を起こした。のっそりと彼も身体を起こす。
「知ったような口を聞かないでよ」
「凛、俺のこと嫌いか」
逃げる隙を作らないその言い方に、さらに理性が吹き飛ぶ。握った拳を彼の腕にぶつける。何度も何度も。
「ふざけんなよ! 誰があんたのことなんか、好きになるかよ! 俺がどんな思いをしたか、どんなことしたか、あんた、なにも知らないだろう! あんたみたいな健康な人に、なにがわかるっていうんだ! 死んだほうがマシってことが、本当にこの世にはあるんだよ! なんにも知らないくせに! なんにも知らないくせに!」
葛西さんは俺にぶたれるままだった。激しい呼吸に、俺は咳き込んだ。涙が滲んで、両手をついて全身で息をする。また、やってしまった。自己嫌悪で、今度は自分の包帯を巻かれた右腕を壁にぶつける。
「凛、やめろ!」
「離せよ、……もう、許してくれよ……」
本当に、この人を好きにならなければよかった。そうすればこんな見苦しいところを見せずに済んだのに。
俺は大事な人を傷つける刃でしかないのか。それならいなくなりたい。この世から、いなくなりたい。
「……落ち着いたか……?」
「葛西さん……俺は、あなたを傷つける……。ずっとずっと傷つける……。あなたの傷は、今に修復不可能になる。俺は、それが嫌なんだ……。一番怖いんだ……!」
葛西さんの温かな両腕がゆっくりと俺を引き寄せる。思わず俺は泣きそうになった。だが、泣かない。それは反則だからだ。
「前に、一歩近づこうって話をした時があったね」
「……うん」
「一人で生きていこうと思ってるって。でも、本当はそうじゃなかったよね?」
葛西さんとのことがあろうとなかろうと、一人で生きていくなんてあり得ないのはわかってた。生きていく限り、人は誰かに必ず関わっていかなければならない。本当の意味での一人なんてことはない。でも、大切な誰かを作るのは怖い。その人に失望されたくないからだ。完璧でなくてもいい。でもこれほどマイナスな立場ではいたくなかったのだ。
「二度目になると思うけど、俺は気が長いほうだと思うんだ」
「……うん」
葛西さんを段々好きになっていく。だから、このままじゃダメなんだ。
「じゃ、少しずつでいいから、君のことをもっと教えて?」
「……うん」
「もう一歩、踏み込もう?」
おずおずと、葛西さんの大きな背中に両手を伸ばす。葛西さんが、うれしそうに笑ってくれた。
「うん」
矛盾がいつも俺の心の中にある。葛西さんが好き、好きになってはいけない。近づきたい、近づいてはいけない。けれどその根本は彼を好きになって傷つけることと、変わっていく自分に恐れがあるのだと気付く。揺れ動くままに彼の側にいてはいけないのだと知りつつ、俺は彼という引力に逆らえない。だから、俺はその夜、葛西さんのために、なにより自分のためにもっと強くなりたいと思ったのだ。
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