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第9話
「智弘……心から人を愛したことって、ある?」
腕の中で眠っていると思っていた恋人に不意を突かれて、俺は言葉もなかった。
「茜さん、それどういう意味?」
「そのままの意味だよ」
頭上から、彼のためにかけているCDの曲が流れていた。ドビュッシーの「月の光」が静かな部屋を淡く震わせる。疲れすぎると眠れなくなると言っていた彼のために買ったものだ。好きでなければ、そんなことはしないし、第一、付き合っていると思っていた相手にそんなことを言われるとはいささか心外だった。
彼は俺より八つ年上の、会社員だった。有名な外資系の会社に勤めていて、本当だったらまだ未成年の俺となど出会うはずもなかった。たまたま彼が落とした携帯電話を俺が拾い、慌てた彼がそれに掛けてきたのがきっかけだ。俺たちはなんとなく気が合って、それから何度か一緒に出掛けた。好きな絵が互いに合い、好きな曲も合った俺たちは、急速に近づいた。彼は太陽の下より、月の光の下のほうがよく似合う、繊細で物静かな人だった。告白は俺からした。彼は黒くつぶらな瞳を目一杯に大きくさせ驚いていたが、すぐに頷いてくれた。俺はまだ十九で、大学に合格し、デイケアでアルバイトを始めて間もなくの春のことだった。
彼は仕事が忙しく、精神的にも不安定になる時があった。とにかく仕事第一の人間だった。真面目すぎて、無理をして、そうして息苦しくなると、夜、ふらっと俺の部屋に訪れ、抱かれるようになった。俺は無理をさせないように、壊れ物を扱うように、彼に接した。日中は無理をしているのだから、夜くらい安心してほしい。心からの願いだった。
「まぁ、それは俺にも当てはまることなんだけど」
独り言のように、彼は言った。
「智弘、俺を壊してよ」
「壊すって……」
「君の思うように、俺を扱ってよ。たとえば……ちょっと痛いくらいに」
鈴を転がすような、男にしては高めの声が、メロディーと共に流れるように耳に届いた。
「俺は茜さんを大切にしたいけど」
「智弘は、いつもそう。優しすぎる。ねぇ、本当に愛してる? 心から俺を欲しがってる?」
見上げた彼の瞳は熱く潤んでいて、俺は彼がなにを言いたいのかよくわからなかった。
「もっと俺を欲しがってよ。セックスの時も、そうでない時も」
「……茜さん」
男性と付き合うのは、これが初めてだったが、女性を扱うように彼を扱っていたのだろうか。それとも違うことが言いたいのだろうか。彼は微笑みを歪ませて、涙をこぼした。
「俺ね、智弘のことが大好き。優しくて、俺のこと考えてくれて、いつも、いつも。でも、……違うんだよね」
「茜さん」
「俺も智弘のこと、大好きってだけじゃなくて、本当はこんなんじゃなくって、……もっと真っ直ぐに向き合わなくちゃいけなかったんだ。……本当にごめんね」
彼の言う意味がよくわからないまま、俺は頷くこともできず、彼の口元を見つめていた。
「別れよう」
彼は目をきつく閉じ、苦しそうに言った。それからしばらくして、俺たちは別れることになった。わずか数か月の付き合いだった。
彼の最後の言葉がずっと引っかかって、その後、俺は絵を描いている最中、筆が止まってしまうことが何度もあった。
――今度は本当の恋をしてね。自分でもわからなくなって、どうしても止められないような恋を。
俺は筆を置いた。誰もいなくなった教室の中で、自分の絵を見つめ続ける。絵の具が乾ききらない絵を。
今なら茜さんの言葉がわかる。凛と出会って、俺は変わった。好きな映画も違うし、好きな本も、絵も、多分違う。でも、それでいい。彼に惹かれて、近づくたびに好きになる。大事にしたい想いは変わらない。なのに、俺は自分でもどうしていいかわからないくらい、彼の前でうろたえてしまう。彼に触れたい。触れないと約束しても止まらない。もっと彼のそばにいたい。彼の笑顔が見たい。俺のものにしたい。彼がなにを考えているのか、未だよくわからないというのに。
これが茜さんの言っていた恋、なんだろう。大事にしたいだけでなく、俺の想いも受け止めてほしいという欲望に駆られて、みっともなく自分の弱い部分をさらしてしまう。
凛は謎だらけで、俺はまだ知らないことのほうが多い。本当は、患者の彼にしてはいけないことをしてしまっていると思いながら、どうしても止まらない自分がいる。凛が病気だということは、最初からわかっている。好きになれば、大変な思いをすることもわかっている。それでも、俺は彼が好きなんだ。どうしようもなく。
「月の光」が聞こえる気がする。今はその曲は茜さんではなく、凛を思い出させるようになっていた。
俺は、凛のためにどうすればいいのだろう。凛が俺に望むことは、なんなのだろうか。
目の前の絵に白い布を掛けて、俺は教室を出て行った。
カードをスキャンして、九階に上がった。
俺を見つけて手を上げる患者の元に行く。色の置き方の提案や、新しいキャンバスを出して、いつも通りの場所に椅子を置いた。
凛がいない。
周りではクリスマス会に向けた飾りを作り、余興の練習をするグループがいくつかあって、その中にも彼を探したが、見つからなかった。
めずらしいな、と思い、席に座ると「穂積さんなら七階にいたよ」と近くの年配の男性患者に小声で言われた。俺の視線はそんなにあからさまなのだろうか。注意しなければ、と思いながら美術書を開く。七階、ということは体調でも悪いのだろうか。俺が七階に行くことはまずない。三分の一はスタッフルームになっているが、特に用がないので、入ることもない。
その日は七時に上がって、凛の携帯電話にメッセージを送ったが、返事はなかった。電話をしようかとも思ったが、しつこいようで止める。ただ、体調がよいかどうかだけは知りたかったのだが。
「もう一歩踏み込もう」と言った時、凛からも抱きしめてくれて、俺たちは少しずつまた進もうとしているはずだったのに。それともそれが引き金になって、精神的につらい思いをしているのだろうか。急がずにいよう。俺はあまり気に留めないようにしていた。
だが三日、姿も見ず、連絡もないとさすがに心配になっていた。俺は七階のスタッフルームに用がある、と言って、下りてみた。凛は、壁に向かって置いてあるテーブルに、一人で祈るような姿で座っていた。もしかして眠っているのかもしれなかったが、気になって声を掛けてみる。
「……穂積さん?」
眠っているのだろうか。組み合わせた両手に額を当て、苦悶に近い表情をしていて、とても普通には思えなかった。
「穂積さん」
手を肩に掛けると、凛はびっくりしたようにがたんと椅子から立ち上がった。奥の部屋の患者が何事かとこちらを見る。まずい。さっさと上に上がらなければ。
「穂積さん、身体、大丈夫?」
じっと俺を見つめる凛の唇の端が切れていて、血が固まっている。小さな傷ではあったが、なにかがあったのは明白だった。だが、とても近くに寄れない雰囲気があって、俺はなにも言えずにいた。すると凛はさっさと奥のほうへ歩いて行ってしまった。
つまり、俺と顔を合わせたくないということはわかった。突然のことで、なにがなんだかわからない。だが、これだけはわかる。凛は俺に言えないなにかを抱えている。それが俺とのことではないということ。唇の傷を思い浮かべて、俺は嫌な気分になった。誰かになにかされたのだろう。俺は九階に上がって、患者の絵を一通り後ろから眺めた。席に戻り美術書を開こうとすると、またあの男性患者に声を掛けられた。しかも小声で。
「穂積さん、この間、会社員風の男に腕を引っ張られていったらしい」
「……穂積さんが、ですか?」
「噂になってるよ。三日前だっただろうか、駅前だったから何人かの患者が見ていたらしくて」
「そうですか。……ありがとうございます」
俺の気持ちを知っているのだろうか。それで言われているとすると、気をつけなければならない。凛の不利になることをしてはならない。絶対に。とりあえず、帰りにもう一度凛に連絡してみよう。俺は形だけ美術書を開いて、そのことだけを考えていた。
遅くなってしまった。俺は八時にカードをスキャンし、エレベーターで一階に下りた。凛の携帯電話に掛けてみたが、電源が入っていないようだった。なんなのだろう。嫌な予感しかしなかった。
仕方なく部屋に帰る前になにか食べるものを買っていこうと、進路変更した。しばらくして、スーパーに行く途中にある、けばけばしい色のホテル街の入り口に座り込んでいる男性が見えた。顔を覆って丸まっている。が、俺はそのコートと白い靴に見覚えがあるような気がして、近づいた。淡い栗色がかった髪が、ネオンに光る。まさか。
「……凛?」
動かない。俺はもう一歩、近づく。
「もしかして、凛か……?」
肩が俊敏に揺れる。顔がゆっくりと上げられる。うつろな瞳に光が戻った。信じられない、という表情が、急に怒りの色に変わった。
「……凛!」
ものすごい力で腹に拳を入れられる。さすがの俺も咳き込む。また拳を叩きこもうとしたのを、やっとの思いでつかみ込む。仕方ない。俺は傷のない左手首を少し捻り上げた。凛が眉根を寄せて、右手で俺の手を外そうともがく。荒い息ばかりで、言葉もない。瞳孔が開き掛けて、手負いの獣のような凛。なんでこんなことになってしまったのだろうか。その右手も注意してつかみ上げ、俺はひとつにまとめると唇の傷のないほうの頬を軽くひっぱたいた。決して暴力ではない。目を覚まさせようとしただけだ。だが、凛はそれが気に食わなかったのか、全身の力で俺に体当たりしてきた。よろけた俺と凛は、道路に倒れ込んだ。周りを囲んでいた野次馬の一人が警察を呼ぼうかと携帯を出している。
「大丈夫です! 知り合いなんで。……大丈夫。凛、しっかりして。もっと俺を殴りたいか?」
その言葉にはっとしたのか、凛は半身を起こして呆然と俺を見た。
「……葛西さん……」
俺もなんとか起き上がって、凛の服の汚れを払った。泣きだしそうな彼に、何度も「大丈夫」を繰り返す。
凛を抱き起こし俺の部屋にくるように提案したが、かたくなに嫌がる。
「……帰ります……」
「お母さんには連絡してあるの? 遅くなるって」
「……してあります」
「連絡してあるならいいけど、ここでなにしてたの」
「葛西さんには関係ない」
これはわけありだ。凛は俺に本当は話したいはず。麻理さんの時もそうだった。苦しみ抜いて、俺に話したことを後悔していたけれど、話して客観的に自分を見て、わかることもあるのだ。もし話したくないとしても一緒にいないと、今夜、凛はとんでもないことをしてしまいそうな予感があった。それほどに凛のキレ方は異常だった。
「帰ります」
「帰らせない」
俺は左手首を握りしめた。加減しなかったせいか、凛は顔をしかめる。
「痛い……」
「俺も痛いよ」
いきなり拳を入れられるし、体当たりされて転ぶし、ホテル街の入り口で座り込んでるなんて、どうしたっていいふうに考えられるはずがない。身体も心も痛いに決まっている。凛、君にはそれがわかるだろう?
「……ごめんなさい……」
「いいから、おいで。お母さんに電話する時は俺に代わって」
凛は疲れたように頷いた。俺は手を離し、彼がお母さんに連絡しているのを見ていた。しばらくして、携帯電話を渡してくる。案の定、お母さんはここ数日の凛の変化を心配していた。遅いので彼を預かることと、話をしてみるとのことを伝え、俺は携帯電話を返した。
「さぁ、行こうか」
「……はい」
俺たちは進路変更をして、部屋に帰る前にラーメン屋に寄った。凛は食欲がないわけではなく、そこは安心した。会計を済ませて外に出ると、先に出ていた凛は空を眺めていた。俺も顔を上げて、光る星を見つめた。
「……ごちそうさまでした」
「いえいえ。冬は星がよく見えていいねぇ」
「……そうですね」
ぼんやりとした表情でいつまでもそこにいそうな感じだったので、冷たくなった手を引いた。
「……人が見てます」
「誰も見てないよ」
二人で部屋まで歩く。俺の部屋は駅から遠いので、この時間通る人はまばらだ。階段を上り、奥の部屋に着くと、俺は鍵を開けて、先に凛を中に入れた。
「少し、落ち着いた?」
暖房を入れてから自分のコートをハンガーに掛け、彼のコートもあずかろうとするが、脱ごうともしない。立ったまま、また遠くを見ている。仕方ない。俺は凛の肩に手を置いた。
「凛」
「……!」
手を払われる。怯えている。振り向いた瞬間に、俺は嫌な予感が当たってしまったな、と思った。自分のコートの前をしっかりとつかみ、俺には絶対に近づいてほしくない、そんな感じだ。患者に言われたことを思い出す。その男と、ホテルに行っていたのだろう。それを俺に見られて、動揺している。俺の心の奥底に黒い染みができ、それは少しずつ広がっている。でも、それを知られてはならないし、彼も俺に知られたくないんだろう。黙っているしかない。
「座って。薬は……さっき飲んだか」
凛が頷いて、ベッドの端に座った。俺が立っていると圧迫感があると思うので、だいぶ間を空けて、俺も座った。
「……わかってるんでしょ。なにがあったか……」
絞り出すような凛の言葉に、正直、なんと言えばいいかわからなかった。俺は心理カウンセラーでもないし、医師でもない。どういえば、彼を刺激しないでいられるのかわからなかった。
「……なんでもいいから言ってよ。俺……どうしていいか、わからないんだ……」
「なにがあった?」
凛は膝を叩き出した。正気に戻り、人に当たれなくなると自傷に走る。だから、家には返せない。こんな状態をお母さんや妹さんに見せたくない。もう見てしまっているのだろうから、これ以上ひどくならないように、できることがあったらしたい。俺はその両手をゆっくりと握りしめ、後ろから抱きしめた。凛が嫌がって、身体を揺らす。ふんわりと…安っぽく甘ったるい香りがして、また胸の奥の染みが広がっていくのを感じる。
「……誰と、寝てたの」
「……!」
「三日前から? 誰と?」
「嫌だ……!」
「なんでもいいから言えと言ったのは、凛……!」
凛の唇が、唐突に俺のそれにぶつかる。コートの裾が広がるのが見えて、俺はベッドに仰向けに倒されていた。何度も何度も、角度を変えて口づけをされ、彼の軽すぎない体重に抑えられ、起き上がることができなかった。
「ねぇ……! 俺のことぶってよ! 殴ってよ! なんでもいいから、痛い目に遭わせてよ……!」
馬乗りになられ、凛の頬から涙が落ち、俺の顔に降ってきた。なにがそんなに彼を焦らせているのだろう。
「俺は君に痛いことはしたくないよ。なぁ、凛。なにがあったんだ」
胸にしがみついて泣いている凛が痛々しくて、俺は肩を抱きながら髪を撫でた。自傷に走るまで心が傷ついているのに、なぜ俺を頼ってくれないのか。なにも話さず、痛い目に遭わせてくれという。俺はそんなことはしたくない。なのにまだ凛は言い募る。
「葛西さん……俺のこと抱ける……? 抱けないでしょ。こんな汚い身体、抱きたくないよね……」
急に、茜さんを思い出した。つらそうだから、大切にしたい。大事にしていたのに「壊して」と言った茜さん。
だけど、俺は凛を大切にしたかった。茜さんもそうだったが、傷ついている大事な人を、欲望のままに激しく抱くことなどできない。
そこで俺は気付いた。彼らは望んでいる。激しく求められていることを「痛み」で実感したいのだ。そこに自分の存在意義を見出す。だから互いに溝ができる。
どうしてそんなふうに思うのだろう、と俺が思うのと同時に、彼らも思う。どうしてそんなふうにしかできないのだろう、と。もどかしくすれ違う気持ちが、彼らには我慢ならない苦痛になっていく。
「凛、どうか、少しずつでいいから、本音を言ってくれ。そうでないと、俺にはなにもわからない。予測で動くと君は傷つく。そうならないためにも、つらくとも、君の心の声が聞きたいんだ」
「言ってる……。傷つきたい……。痛い思いをしたい……。そうでないと、俺は生きていけないんだ」
「じゃ、なんで泣いてるんだ。泣くほど傷つけられたいのか」
「誰も俺を罰しない……。そうしたら、俺は俺が傷つけなきゃならない。だってそうだろ? 俺は最低なヤツなんだから…」
正直。俺は面倒だな、と思った。それは彼にとって、ひとつひとつのことに意味があり、それらを腑に落とすための理由がないと混乱するからだ。今回も自身がしてしまった過ちについて、痛みという罰がないと治まらないのだろう。これは相当覚悟がいる。面倒は重々承知の上だが、そうして凛が毎回傷つくのを見るのは嫌だった。
「抱けるよ」
凛が泣きながらコートを、シャツを脱ぎ始める。俺は勢いよく起き上がって、彼と体制を入れ替えた。乱れたシャツの隙間から、白い肌が見え隠れしている。ついさっきまで、この肌が誰かのものだったのだと思うと、本当に凛を傷つけそうだった。
俺は眼鏡を外し、何度も何度も凛の唇と舌を吸った。髪を撫でながら、うなじの傷を撫でながら。明るい部屋の中でこんな行為をするのは初めてだったが、凛は気にならないようだった。彼はまだ泣いている。そんなに泣くくらい、誰かに抱かれたのが嫌だったのだろうか。どうして俺になにも言ってくれないのか。そのもどかしさと自分のふがいなさに俺は苛立つ。首筋に顔を埋めると、凛の背が跳ねた。反射的に抵抗しようとした両手を抑え、絡めながら手のひらも愛撫する。凛は苦しそうに首を振る。
「……葛西さん……」
シャツのボタンを外して広げると、俺は胸の淡く赤い突起を口に含む。左の親指と人差し指でもうひとつを軽く揺らすと、凛は激しく抵抗してきた。
「葛西さん……やめて、やめて」
「……なんで?」
舌で舐め上げながらそう言うと、凛は本気で怖がっていた。あまりに真剣な顔をしていたので、俺は身体を上げて、凛の髪を撫でた。震えながら、両手で口を抑えている。
「……どうした?抱けって言ったのは凛だろ?」
「こんなの……違う」
「……違う?」
凛は身体を横に捩りながら、必死に俺の下から逃れようとする。逃すか。これ以上ないってくらい、優しく抱き潰してやる。
「だから……、なんで、こんなことするの?」
「……こんなことって?」
凛の頬が少しずつ紅潮していく。
「こんなの……セックスじゃない」
俺は一瞬、固まった。セックスじゃない? そんなことを言われたのは初めてだ。
「……早く……挿れてよ……」
小さくなった声に、俺はまさか、と思って尋ねた。
「……凛……悪いけど……。その……こういうこと……されたことないのか?」
凛は黙ったまま、何度も頷く。俺には考えもつかなかったことだが、彼は前戯をされたことがないのだ、ということがわかった。好きだから大切に抱くことしか考えていなかった。だが、凛の中では、セックス=痛み=罰という公式が成り立っている。すると、乱暴な挿入しかされたことがなかったのだ。間違ってはいないが……。確かにそれもひとつのセックスだが……。彼を最初に抱いたヤツに、俺は腹が立って仕方がなかった。
身体を離し立ち上がると、隠れてため息をひとつつく。丸まって固まっている凛の肩まで布団を上げた。その上に腰掛け、髪をゆっくりと撫でる。何度も何度も繰り返す。彼は唇を震わせて、泣いていた。
「ごめんなさい……。やっぱり……ダメだよね……。こんな汚い身体……嫌だよね……」
「違う。汚いなんて、思ってない」
「だって、……途中で……止めた……」
「汚いと思ったら、触れない」
頬に伝わる涙を、親指で拭う。身体の緊張が解けるように、背を軽く叩いた。
「俺と君の思ってるセックスに違いがある。そのまま先に進むのは無理だ」
「……違う?」
「うん。俺はああいうことをやりたいの。大切な人にはね」
「……?」
セックスは当分無し、と思った。求められて、思わず応えてしまったが、今はそれどころではなくなった。
「凛。好きな人と寝てたの?」
凛は長い間考えていた。どうやら、また自分を閉じ込めてしまおうとしているようだった。
「俺は君が好きだから、少しずつでいい、わかり合いたい。君が好きな人と寝ていたならいいけど、俺にはそうは思えないんだ」
「俺は……」
俺は凛の言葉を待った。
「俺は……葛西さんのことが……好き」
涙がまた溢れる。凛は顔を両手で隠した。
「ごめんね……。こんなヤツに好かれたって……迷惑なだけなのに……」
「俺はずっと言ってた。凛が好きだって」
「泣かないでいようって思ったのに……。俺ってずるい……」
「ずるくないよ。凛。泣きたいなら泣いていい。我慢しなくて、いいんだよ」
こめかみにキスを落とすと、凛は何度も肩を揺らして泣いた。
「俺……記憶がなくて」
「記憶が?」
「ひどい薬物中毒で……。薬を一気に抜いた時、記憶が三年分くらい飛んだんだ」
そんなところまで行っていたとは……。俺は髪を撫でながら、黙って聞いていた。
「その三年の中で……。俺はある男の人と出会って。付き合ってるような感じで。でも、セックスする時、いつも身体を繋げてて、気持ちよくはなくて……痛い時が多くて。断片的に覚えてるのはそんなこと。意識がはっきりしてから、俺はその人にストーカーまがいのことをしたんだ。電話やメールを何度も送ったりして……。すぐにアドレスや番号を変えられて、俺は諦めたけど……。そしたら、三日前に……。その人に、偶然会って……いきなり叩かれて」
凛は顔を隠したままだった。これはさすがに俺に言いたくなかったんだろう。
「俺に、謝れって……。俺は必死に謝ったけど……。許してもらえなくて。そのままホテルに連れていかれて。何度も何度も……。痛くて、痛くて。でも、それで許してもらえるのなら、って。でも、許す気にならないから、これからも会うように言われて……。許す気になるまで、我慢しようって思ったけど……。つらくて、つらくて……」
声が詰まっている。俺は背を軽く叩いた。全部、吐き出してしまえばいい。
「でも、このつらさって、あの人が味わってきたつらさなんだよね。だからどんなことがあっても我慢しようと思って。でも、……葛西さんにだけは…知られたくなかったんだ……! こんな最低な自分を……!」
「凛、ゆっくりでいいから」
「いつ許してもらえるかわからない。それに俺はまた同じことを始めてる。葛西さんに暴力を振るってる。さっきだって……。病気だからって、許されないことばかり、俺はしてる……。葛西さんにこんな告白をして……許されようなんて思ってる……。ずるい。もう、どうしていいか……わからない……」
「……今度は、いつ会うんだ」
「……日曜の夜」
「そうか、わかった。俺も行くから」
「ダメだよ! そんなの……ダメ」
「確かに君はひどいことをしたかもしれないが、その仕返しはどうかと思うね」
ストーカー行為をした凛は確かに悪い。だが仕返しをし続ける相手もどうかと思う。気持ちはわかるが、せめて一度で許してはやれないものか。心の中に溜まっていた膿が噴き出して、凛を責め続けることしかできないのだろう、と思った。
「今、君は反省しているんだろう? ひどいことをしてしまった家族や、友人や、その人にも……。そして、なんとかやり直そうと努力してる。彼はその姿を見ていないから、許せない気持ちしかないのかもしれないね」
「だから……許されるまで我慢するから……」
「その前に君の心も身体も壊れてしまう。わかってるだろう?」
それに、そう何度もセックスを迫るのはどうなんだろう? 許せない相手なら、適正な手段はいろいろある。俺はその彼が、まだ凛に複雑な想いや性的な意味での好意を残しているような気もしていた。
「少し、起きられる?」
「…………?」
凛は顔を隠したまま、ゆっくりと起き上がる。まだ泣いているようだ。髪に口づけ、俺は凛を抱きしめた。かわいそうに。憐憫の気持ちは、もちろんある。だが、愛おしい気持ちがそれに勝るほどにある。必死にしがみついてくる凛の耳元で俺は囁いた。
「好きだよ、凛。俺と付き合って?」
凛の嗚咽があまりにも不憫で、背と髪を撫で続ける。人は、なにかに耐えられる限界があって、そこを凛は早くに超えてしまったのだろう。まだ超えていない俺は彼を少しずつでも手助けしていこうと思える。凛は俺と付き合うことを、依存だと、そう思い込んでしまっているようだが、そうではないと言い続けていくしかない。多かれ少なかれ、人は誰かに依存している部分がある。だがここから、という線引きはとても難しく、俺も凛と一緒にいることで、学んでいくことなのかもしれない。
凛は返事をしなかった。ただ、全身で泣いていて、俺はそれを抱きしめることしかできなかった。
日曜の夜、俺は凛と駅で待ち合わせて、約束のホテル街の入り口へ行った。俺より少し背の低い彼は、スーツの上にベージュのコートを着ていて、会社の帰りのようだった。
「あの人? 凛」
「……うん……」
凛は気まずさと申し訳なさとで、俺の斜め後ろをおずおずと着いてきた。
「凛、しっかりしろ。君はいるだけでいいから」
「そうはいかないよ……俺のことで葛西さんに迷惑掛けてるんだから……」
凛に気付いた彼は、俺の姿を見ると、いぶかしげに首を傾げた。
「凛? 誰だ、その男」
凛は思い切ったように俺の前に出た。だが、なにも言えず、ただうなだれるだけだった。
「初めまして。凛の恋人の葛西です」
彼と凛が驚いた表情で俺を見た。
「違う……そうじゃなくて」
「へぇ? 今の? こいつのこと、本当にわかってんの?」
彼は挑発的に俺を睨んだ。
「こいつはね、自分が一番かわいいんだ。気に入らないことがあるとすぐに暴力を振るうし、暴言もしょっちゅうだよ。別れれば嫌がらせの電話やメールで最悪なんだから。あんた、それ知ってて付き合ってんの?」
病気のことを、多分この男は知らない。それを言ってしまったほうが早いのだろうと思ったが、言ったとしても、凛のしてしまったことは取り返しがつかない。それに病気をこの男に知らせる必要も、もうない。
しかし凛と付き合うということはこれからも避けられないいくつもの壁が待っているのだな、と改めて、身が引き締まる。そこに同情はもうない。しっかりと受け止めていくだけだ。
俺は一歩前に出た。
「なんだよ、やるのかよ」
「申し訳ありませんでした!」
俺は思い切り頭を下げた。その姿を見て、凛も慌てて一緒に頭を下げている。
「凛に理由は聞きました。この子のしたことは許されることではありませんが、……まだ気は晴れませんか?」
男は言葉に詰まって、なにも言い返してこない。
「それなら俺を殴ってください。凛にはもう、あのようなことはしないでやってください」
「……ごめんなさい! 俺が悪かったんです。本当に、ごめんなさい!」
通りすがりの人が何事かとこちらを向いているのが、目の隅に映る。恥ずかしい、というより、ここできちんと区切りをつけないと、凛のためにも彼のためにもならないと思った。
「あんたは……こいつの本性を知らないだけだよ」
男の低い、だが怯んだ声が、頭上から降ってくる。確かに凛の暴言と暴力にはもうだいぶ慣れてきているが、いつまでもそれらを許すつもりはない。そうでなければ、俺の身も持たない。共倒れになるわけにはいかないのだ。俺は頭を上げた。
「これから知っていきます。この子には、もう手を出さないでください」
男は周囲の好奇の視線に耐えられなくなったようだ。さっさと駅のほうへ向かって歩いていった。いつまでも頭を下げ続けている凛に、俺は声を掛けた。
「……終わったよ」
「葛西さん……ごめんなさい……」
「大丈夫。早く家に帰って。ご家族にこれ以上、迷惑を掛けちゃダメだよ?」
凛の緩んだ紺色のマフラーをきちんと結び直し、二人で駅へ向かった。彼はうつむいたまま、厳しい表情をしている。俺は急に思いついて、提案した。
「もうすぐクリスマスだな。イブの夜は空いてる?」
「……空いてますけど……」
「一緒に過ごそう?」
凛は俺の顔を見ずに、ぶっきらぼうに言った。
「また。俺のこと、女の子みたいに扱う」
「凛は男だろ? 間違ってないって」
うっすらとした微笑みにほっとする。そうだ、君には涙より笑顔のほうがよく似合っている。
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