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第10話

 クリスマスイブを一緒に過ごそうと言ってくれたのは、葛西さんからだった。俺はまるで女の子みたいだ。嫌なわけではなくて、むしろ楽しみだったから。  街は色とりどり、華やかで賑やかになり、一年のうちで一番きれいで、俺の好きな季節になる。だが、俺の心は晴れなかった。葛西さんに「付き合おう」と言われて、返事ができなかった。多分、初めて好きな人から告白されたのだと思うのだが、うれしいと思うどころか、哀しくなる言葉だとは思わなかった。  患者は八階のメインホールに行っていて、少し早いクリスマス会が行われている。楽しそうな笑い声や歌声が聞こえてきて、俺はどんよりと曇った空を椅子に沈み込んで眺めていた。    付き合うって、どういうこと? 葛西さんには、まだ俺が理解できていない。昨日、彼が言ったように、これから俺の本性があらわになる。俺が葛西さんなら、俺とは絶対に付き合わない。怖くて一緒にいられない。自分で悪いところを挙げればキリがない。性格なら、もしかしたら治せるかもしれない。だが、この病気は治らない。注意しようにも、自分でもなにが原因で怒り出すかは、その時になってみないとわからない。発作止め、という確実なものもなく、母も妹ももう諦めている。俺自身、もう可能性に希望を見出せない。薬でだいぶ抑えられてはきているものの、葛西さんにもすでに何回も暴行を働いている。今はまだ葛西さんはどうにかなるかも、と思っているのだと思う。だが、母や妹、友人はすでに心に傷を負っている。口には出さないだけで、それは知っている。どうにもならないのだ、そう思って葛西さんが離れていくその時を想像すると、泣きたくなる。家族は仕方がなく、俺を置いていてくれるのだ。あの時、妹が警察を呼んでいたら俺は措置入院になり、下手をすればそのまま精神病院を渡り歩き、二度とこのような生活はできなかったはずだ。  俺の父はアルコール依存症だった。重度ではなかったが、そうなるのも時間の問題だった。俺が小学生の時から、父と母の間にはケンカが絶えなかった。最初は物を投げつけたりしていたが、そのうち、母に暴力を振るうようになった。殴る蹴るは当たり前、ひどい時は一升瓶で母の頭を殴ったこともある。それはいつの間にか日常になった。ただ俺の成績がよかったり、なにかの賞状をもらってきた時などはそれがなかった。俺はいい子であり続けた。そうすればケンカがないという、簡単な理由だった。その頃から俺は人に応じて自分を演じる癖がついていった。  中学になった頃、俺の身体に次々と異変が現れた。プール開きの前にみんなで汚れた水槽を掃除した夜、突然両足に赤い斑点がびっしりと出た。ひとつひとつが腫れているため、俺はほとんど歩けなくなった。血液検査でも原因がわからず、結局それは突発性紫斑病と診断され、俺はしばらく松葉杖で学校に通った。次は寝ている間に外を歩くようになった。自分がしていることはわかっており、客観的に自分を見ているような気分だ。裏の公園まで歩いていき、また布団の中に戻る「夢」を見たと思っていた。だが、両足を見ると土がついていて汚れているのだ。そんなことは何度かあったが、両親には黙っていた。中学一年の頃には深夜の勉強の合間に階下から両親の言い争う声が聞こえて、仲裁に向かおうとすると明かりが消えている、という現象が頻繁に起こるようになった。日常だと、いつの間にか思い込んでいた現実はもちろん普通などではなく、もうなにもかもが、いっぱいいっぱいになっていた。  そして俺がしたことは六法全書の少年法を見ることだった。まだ、十三歳の今なら父を殺しても罪にはならない。ケンカで毎日のように騒いでいることは周りの家ならみんな知っている。殺しても十分に考慮される余地がある。このおかしな現実を正さなければならない。そうしないと自分は狂ってしまう。そのことだけは明確だった。  俺はある日、それを決行しようとした。その日も母を殴ろうとした父との間に入り、揉めた際、俺は殴られ、柱に頭を打ちつけて気絶したのだ。俺だっていつどうなるかなんてわからない。もうやるしかない。そう思った。  包丁を持ち出し、酔っぱらって眠っている父の部屋まで急いで歩いた。それを見た母が泣きながら俺の腰にしがみついた。引きずるようにして、俺は泣きながら一歩ずつ進んだのを今でも鮮明に覚えている。 ――お願いだから、こんなことのためにあなたの一生を棒に振らないで!  やってしまえばよかった。俺は今でも後悔している。違う形で、俺の将来はダメになった。  だが、お天道さまはちゃんと見ているのか、父はその後ほどなくして食道ガンに罹っていることがわかった。手術をした際、肺、リンパ管、血管に転移していることがわかった。ステージⅣ。余命一年と宣告され、それを待たず、父は他界した。  謝ってほしかった。一言でいいから「すまなかった」と。それもせず、父は最後まで好きな酒を飲んで、好きなことをして、あの世に行った。なんだか、すべてがバカらしくなった。いい子でいる必要もなくなった。家族のバランスをとる道化の役ともおさらばだ。だが、葬式の後、母は言った。「ガンだとわかってからは私に優しくなったんだよ」と。俺たちの前では、そんなそぶりひとつ見せなかったのに。その意味もわからず、俺はまた悩み続けた。  中学三年の頃から、俺は本格的におかしくなった。人の期待する自分を演じることもつらくなってきた。母と病院に行ったが診断は「抑うつ症状」。投薬での治療が始まった。  言い訳ではないが、俺は暴力を一種のコミュニケーションと思っている節がある。言葉にするより、暴力のほうが早いからだ。それで理解してもらえるのではないかと……。わかってもらえるはずがない。そんな一人よがりの行為。もっとも憎んだ父と同じことをしていると気付いた時から、俺の自傷行為は始まった。自分を罰しなければならない。そうでなければ生きていけない、と……。  俺は父の墓の前で時々思う。父が一言謝ってくれたなら、俺の人生は変わったのかと。答えは出ない。もし、と仮定したところで意味はない。わかっている。わかっているのだが、俺にはそんなことを考えることしかできない。大切な、好きな人たちを苦しめ、生きていくことは苦痛だ。暴力を振るった後の俺は本当に死んだほうがマシだと思う。世の中のためにもいなくなったほうがいい、とどんなに思ったかしれない。何度も自分の命を絶とうとした。だが、俺は今、生きている。  葛西さんの優しい笑顔が目に浮かぶ。付き合うなんて、できない。あんなに優しくていい人が俺と付き合うということはハズレのくじを引くどころか、地獄の入り口に片足を突っ込んでしまうようなものだ。いずれ、葛西さんも彼のようになる。俺を憎んで、暴力を振るい、いなくなれと願う時が必ず来る。俺にはそれが耐えられそうにない。 「……凛?」 「……葛西さん」  覗きこまれて、身体を浮かした。胸を人差し指でとんと押されて、また椅子に沈み込む。葛西さんは立ったまま、俺と同じように鉛色の空を見上げた。 「具合はどう?」 「昨日は……ありがとうございました」 「またなにかあったら言って」 「はい」  付き合うことを断ったら、どうなるのだろう? もうこんなふうに話し掛けてくれなくなるのではないか、と思うと怖くなる。どちらにせよ、答えを出すまで、この問題で苦しまなければならないのだ。俺には贅沢な悩みだが。 「凛」 「……はい?」 「その、付き合ってほしい、って言ったこと、覚えてる?」 「……はい」 「悩んでる? 体調悪くなるほど」 「悪くないです。クリスマス会に参加しないことですか?」 「うん」 「一人でいたかったから。七階にいると、葛西さん心配するでしょ?」  葛西さんが苦笑した。 「俺の心配をしてくれてるのか。悪いことしたな」 「そんなことないですよ。…葛西さんは大切な人だから」  俺を見下ろす葛西さんの目は慈愛に満ちていて、やっぱりこれはきちんと断らないと申し訳ないな、という罪悪感に駆られた。 「俺……葛西さんが大事です。だから葛西さんとは付き合えない」 「……それが本音?」  本当に容赦のない言い方をするな、と俺は苦笑する。だが怒りは沸いてこなかった。今は、淋しさだけ。付き合う、付き合わないの二択となれば、答えは決まっている。 「はい。ありがとうございます。俺みたいな人間に……」 「俺に迷惑を掛けるから? 俺が離れていくのが怖いから?」 「……ほんと……。なんか……葛西さんって……」  当を得ていて、泣きそうになる。だけどもう絶対に泣かない。俺がまともな人間だったら、絶対に葛西さんを離したくない。好きで、好きで。こんなに好きなのに。ねぇ。少しはわかってよ。本当に後のない人間の苦しみを。多分、俺の最初で最後の恋なのに、そんなに追いつめないでよ。最初から放棄しなければならない人間もいるってことを知ってよ。 「じゃあさ、……葛西さんは約束できるの? 俺から絶対に離れないって。死ぬまで離れないって」 「できるよ」  ダメだ。キレそうになる。俺は拳を握って耐えた。なんでそんなに簡単に言える? 俺は浅い呼吸を何度か繰り返した。 「……葛西さんさ、過去に付き合った人で、俺と似た人いなかった?」 「……似た人?」 「俺みたいな人。病気か、あるいは精神的に不安定な人」  葛西さんは黙って俺を見下ろしたままだった。 「……それがなにか?」 「共依存って言葉、知っている?」  俺は身体を起こして、立ち上がる。顔をまともに見られなくて、俺はちょうど目線の位置にある、彼のコートのボタンを見つめた。 「うちの母がそうだった。父がアル中でね。もちろん本人が悪いんだけど、結局、父を死ぬまで支え続けた、アル中でい続ける状況を作った。暴行を受けても、それでも我慢して……。そういうの。例えば、DV受けてる人とかもそうなんだけど、別れられない理由が「それがなければいい人なの」。これ、共依存の典型ね」 「凛」 「いたんでしょ。思わなかった? 俺のことみたいに「支えてやらないと」「俺がいないとダメだ」って。「それがなければいい人なんだから」って」 「いたよ」 「ほら、やっぱり……」 「でも、それじゃダメだ、って思う相手だった。彼も、君も」 「え……」 「自分をよくわかってて、だから相手を巻き込みたくなくて。だから彼は「別れる」ことを選択した。俺は最初、その意味がわからなかった。俺のなにが悪かったのかって。彼に言われたことをずっと考えてた。君の言葉で確信が持てたよ」  よく、わからない。葛西さんの以前の恋人は、病気の人だったのか? その彼に、別れを切り出されたのか? そして、その別れを受け入れたのか。 「俺は、誰かを支えられるほど、俺がいなきゃって思えるほどできた人間じゃない。あの時は彼との別れを受け入れるしかなかったけど……。俺は君と一緒に生きていきたいんだ」 「待って……。俺の言ったこと、聞いてる……?」 「俺も共依存のことは調べたし、考えた。今もいろんな情報を見たり聞いてる。でもな、凛。こればっかりは、一緒にトライしてみないことにはわからない。本読んでも、ネット見ても、それじゃほんの少しのことしかわからない。凛と一緒に、生きてみないとわからない。だから付き合ってくれって言った」  混乱する。葛西さん、そこまで考えていてくれたの? その上で俺に付き合ってくれと言ってくれたの? 心が揺れる。でも、俺の心は……。仕方なくもう決まっていて。幻滅されるのは嫌だ。嫌われるのも。それくらいなら、いっそのこと俺が消えたほうがいい。 「これからも暴力は振るうし、暴言も吐く。自殺未遂もするかもしれない。面倒だよ」 「面倒でも仕方ないな。好きなんだから。君もしないように気をつけているんだろう? 俺もさせないように力を貸すよ」  なんでだろう。なんでこんなふうに言えるんだろう。俺は言葉もなく、頭を葛西さんの胸に押しつけた。俺の背に彼の両手が緩やかに回ってくる。  俺のいったいどこが好きなんだろう。正直、俺なら病気持ちは嫌だ。親しい人間がそうなら仕方ないけれど、わざわざ他人の面倒など引き受けたくない。葛西さんは思ったよりずっと大きな心を持った人なのかもしれない。けれど、やっぱり心が動かない。好きなままでいてほしい。今のままの状態でいたいんだ。人と真剣に付き合ったことがないから、俺はどんなことをやらかしてしまうか検討もつかないし、葛西さんに失望されたくないんだ。  俺は唇を噛みしめ、じっと葛西さんの腕の中にいた。 「葛西さんのお宅に?」 「うん……」 「そんなに何度もお邪魔して、大丈夫なの?」  先日決着をつけた男性と一緒にいる時間を、葛西さんと一緒にいると、俺は嘘をついていた。母の目を見られずに、俺は言葉を濁した。 「あんまりご迷惑をお掛けすると嫌われるわよ」  言われた通りで、俺は返事をせず、うつむいたままでいた。母はため息をついた。 「今回はいいけど、これから気をつけるのよ」 「……うん」  だから付き合うなんてもっての他なんだ。母に言えないことだし、これ以上心配を掛けるわけにもいかなかった。  母はその後、風呂に行ってしまった。動く気になれなくて、俺はテーブルの前でずっと座っていた。すると二階から妹が下りてくる足音が聞こえた。うつむいた俺の前をさっさと通って、冷蔵庫からなにかを取り出すと二階に戻ろうとして、足を止めた。 「……どうしたの?」  めずらしく話し掛けられて、俺はうれしかったが、顔を見られずうつむいたままでいた。妹の栞(しおり)が目の前に座って缶のプルタブを開ける音がした。 「この間、栞も少し会ったと思うけど……。葛西さんのうちに何度も行くの、迷惑掛けるから気をつけろって言われた。母さんに」 「ふうん。葛西さんはなんて言ってるの?」  付き合ってくれ、と言われていることは置いておいて、俺は小さな声で答えた。 「いいよって……」 「じゃ、行けばいいじゃん。なんでいつもお母さんの顔色伺ってるの。お兄ちゃんは」 「……え」 「前から思ってたんだけどさ。なんでもお父さんとお母さんの言う通りだったよね。私には強気だったくせにさ。滑稽だよ」  何度も殴った栞の声には棘が含まれていた。俺はなにも言えなかった。 「男のくせに精神的に不安定になんかなって情けないよ。同じ家で同じ条件で育ってるのにさ。私はそんなことないよ」  でも、俺は知っている。栞が一時期、異常に手を洗っていたのを。なにか借りようとすると怖いくらいに怒鳴って断られた。あれは強迫性神経症だ。彼女も苦しんでいたのだ。だが、それは言わなかった。栞の言う通りだ。兄で男のくせに、精神を崩し、母と妹に暴力を振るって、今も二人に迷惑を掛けている。それは事実なのだから。 「私はお兄ちゃんのこと許せないよ。でも最近だいぶよくなったんだから、そうやって繋がりを持てるなら、持てば? 無理に一人でいる必要はないじゃない。でも同じ病気の人と仲良くなるのは悪いけど止めてほしい」 「うん……謝っても…許されることじゃないけど……ごめんね」  栞はごくごくとジュースを飲み、缶をどんと置いた。 「お兄ちゃんさ、お母さんのことぶった時、生まれなきゃよかったとかさ、死ねとか言ったよね。あれ、やめなよ」 「…………?」  ヤバい。記憶が飛んでいて、あまりよく覚えていない。そんなことを言っていたのか。最悪だな。 「お兄ちゃんがなにに怒ってるかって、なんとなくわかるけど、起こったことはもう取り返せないんだからさ。お母さんに当たるのはどうかと思う。お父さんに当たる前に死んじゃったからさ、お母さんに当たるしかないからだと思うんだけど、お母さんもお兄ちゃんに申し訳ないと思っているから、こうやって面倒見てるんでしょ? 殴られても蹴られても我慢してるんでしょ? そこ、わかんないと」  栞がそこまでしっかり考えているとは思わなかった。俺は自分を客観的に見ようとしていたが、できていなかったことがわかる。あまりにも明確な栞の言葉に、俺は何度も頷いた。栞の白い手が缶を俺の前に置いた。 「最近よくなってきてよかったよ。でももうぶたないでね。本当に痛いんだから。今度やったらマジ通報するからね」 「……ごめんなさい……」 「おやすみ」  栞はさっさと二階に行ってしまった。俺は目の前に置かれた缶を握った。半分ほど残っている。二つ下の妹の強さを含んだ言葉を、俺は何度も反芻した。  俺は先に進まなければならない。いつまでも同じところにはいられない。こうして助けてくれる母と妹のためにも。葛西さんのためにも。なにより自分のために。  栞の残したジュースの缶に口をつける。甘いオレンジの味が、少し塩辛かった。  翌日、カウンセリングの日だった。俺は昨夜の妹との話をした。そう言われてもまだ、自分はすぐには変われないけれど、変わっていく努力をしているということ、母と妹に改めて感謝したこと、そんなことを話していたら、あっと言う間に時間が経ってしまった。  小泉さんは何度も頷いて話を聞いてくれ、よかった、と言ってくれた。 「そう思えたのはとてもよかったね」 「はい、これも小泉さんのおかげです」 「いえいえ、こればかりは、自分で気付いていくことだから。私はそれをほんの少し手助けするだけ」  小泉さんはペンを置いた。 「ここにいる人たちはね。残念なことに家族から見放されてしまった人がとても多いの。だから穂積さんのようにご家族がしっかりと見守ってくれるのって、本当にありがたいことなの」  そうだったのか。俺は周りに興味がなかったが、そんなに恵まれた環境にいたのか。周りの人はそんな大変な思いをしていたのか。急に麻理さんのことを思い出した。彼女も生活保護を受けながら、一人暮らしをしていたと言っていたな……。  俺は改めて小泉さんに礼を言い、カウンセリングは終了した。部屋を出て、帰る前に作業ルームを少し覗いた。そこには美術書を読んでいる葛西さんがいる。その時、唐突に込み上げてくるものがあった。 ――ああ、俺、本当に葛西さんのことが好きなんだな……。  俺が病気でも「一緒に生きよう」と言ってくれた優しい人。これから抱える闇も、光に変えようとしてくれている人。そんな人に出会えた自分は、本当に幸せなのだと。  だからこそ、選ぶ道はひとつだった。  俺は葛西さんの姿を心に刻みつけて、帰路についた。  葛西さんと駅で待ち合わせしたけれど、患者に見られると困るので、遠回りして葛西さんの部屋に行った。  俺は母に持っていくように言われていた小さな苺のホールケーキを持って、葛西さんは少し早く家を出て、フライドチキンと飲み物を買っていた。部屋はもう暖められていて、俺たちはコートを脱ぎ、キッチンに立った。 「すごい高カロリーなものばかり」 「凛は細いから、これくらい食べても大丈夫だって」  葛西さんは俺の頭をぽんぽんと軽く叩いた。クリスマスイブを一緒に過ごすなんて、まるで恋人同士みたいだ。告白してくれたってことは、今はフリーなんだよな。なんだか不思議だった。葛西さんって、すごくモテる感じがしていたから。俺はそのまま言葉にしてみる。 「……葛西さんて、大学とかで告白されたりしないの……?」  一緒にコップや皿をテーブルに持っていこうとして、葛西さんはちょっとだけ固まった。あ、これはされているな、って一発でわかってしまう。 「ケーキ、俺カットするよ。出して」 「あ、……うん」  俺はケーキを箱から出した。続いてフライドチキンの箱を開けて、飲み物をコップに二人分注いだ。彼は包丁を持ってきて、器用に二つに等分した。それから冷蔵庫を開けた。 「俺、ビール飲もうかな」 「え、ずるい、葛西さんだけ」 「なに言ってるの、ダメ。凛はまだ未成年でしょ?」 「俺、飲める……」  言葉に詰まる。飲めるわけではないが、飲んだことがある。薬と大量に。それは今この場にふさわしくない話題なので、口をつぐんだ。実は薬の大量服用で、この歳でもう肝臓を悪くし、薬を飲んでいる。こちらを見た葛西さんは、それ以上聞いてはこなかった。 「じゃ、俺もジュースにするから、な?」 「……うん」  隣り合わせで座った。右隣りの葛西さんにコップを渡されて、俺は両手で受け取った。コップをそれに軽く当ててくる。 「メリークリスマス、凛」 「……うん」  二人でジュースを飲みながら、なんとなく無口になってしまう。ベッドに二人で背を当てて、目の前を見ているが、座る時近すぎたかな、と思った。肩が触れそうで触れない位置にある。どうしても意識してしまう。 「あの……葛西さんちって、テレビないの?」 「あるある。観たい?」 「いえ、どこにあるのかなって」  葛西さんは身を乗り出して、目の前の大きなキャンバスを避けた。 「キャンバス掛けになってるだけ。そっか、これじゃ見えないな」  また戻ってくると、肩が触れ合った。俺はコップを置くと、ケーキを一口食べた。 「あの、葛西さん」 「うん?」 「この間のことなんですけど」 「うん」 「葛西さんは誰にでもああいうことをするんですか?」 「……ああいうこと?」 「その……俺の身体を……いろいろと……」 「……ああ……」  葛西さんは軽く握った手を唇に当てる。俺はまたまずい話題を振ってしまったな、と後悔したが遅かった。 「誰とでもってわけではない。好きな人にはするよ。気持ちよくなってほしいから」  気持ちいい……というよりは、怖い気持ちのほうが強かった。あんなふうに触れられるのは初めてだったから。ダメだ。想像できない。自分がどんなふうになってしまうのか。葛西さんの手や唇や舌の感触がよみがえる。大切に、これ以上ないほど優しく扱われたら……俺はおかしくなってしまう。それに、と冷静になる。それ以前に、俺に誰とも付き合えるような資格はない。こんなふうに想ってもらえることはこんなにも心が温かくなることだと教えてくれた、それだけでもうこれ以上の幸せはない。 「凛は気持ちよくなかったんだね?」 「いえ、あの、そういうことでは……」  またケーキを食べる。味がよくわからない。葛西さんの大きな手が俺の頭を撫でた。 「そうか、慣れないことでびっくりしたんだな」 「うん……そう……」  葛西さんのくぐもった笑いが聞こえて、俺は顔を上げた。 「凛、緊張してる?」  なんだか既視感。これ前にあったっけ。 「うん……」 「なんで?」  クリスマスイブの夜に二人きり。これを楽しみにしてた俺って、やっぱり女の子みたいなんだろうか。しかもこうして好きな人と触れ合うような位置にいて、緊張するのって、おかしいことだろうか。俺ってやっぱり葛西さんのことがとても好きで、それだとノーマルではないのだろうか。最初の人のことをよく覚えてないから、あれは本当の恋じゃなかったって思っている自分がいるし、今度はきっと女の人を好きになると思ってた。でも、そんなことはもういい。葛西さんとは今夜が最後になる覚悟でここに来たし、そうしないと彼にいつまで経っても迷惑を掛けることになると思った。  俺は意を決して言った。 「……葛西さん……」 「ん?」 「一度でいいから……俺のこと、抱いてくれませんか?」  葛西さんがフライドチキンに伸ばそうとした手を引っ込めたのが目の隅に見えた。めちゃくちゃなこと言って、びっくりさせてしまっただろうか。 「……どうして、いきなり……」 「あの……今夜ここに泊まるって、俺、母に言ってきちゃったんです。それって、その、そうしてほしくて」  拒否しておいて、今度はこれじゃ、呆れられるに決まってる。自分勝手で人を困らせて、逃げ出す。でも、逃げ出すだけじゃなくて、俺にはその先の理由もあったんだ。 「今月いっぱいでデイケア、辞めるんで」 「そうなんだ」 「はい、高校の勉強、もう一度しっかりやりたいんで、バイトしながら夜間に行こうって。それでずっと決まったサイクルでここ来てて、練習のつもりで。自信がついたんで、……それで……」  葛西さんの目元が曇ってる。勝手なことを言い過ぎているだろうか。その先が言えなくなりそうで、思い切って、俺は最後の一言を勢いよく吐き出した。 「葛西さんとも今夜で最後にしたいんで」  葛西さんは何とも言えない沈んだ表情で、俺はまた傷つけてしまったかと思って、声が出なくなった。 「……もう会いたくないってことで、いいのかな?」  会わないほうがいいってことで。 「そうか、……俺の気持ちは受け取れないってことか」  受けたくても、受け取れないってことで。 「そんな状態で俺に抱かれて、凛は平気なの?」 「……え?」 「震えてる」 「寒いから、かな……」  嘘だった。本当は、怖い。抱かれることも、これが最後になることも。でも、確かな証が欲しい。葛西さんに確かに愛されたという記憶が。ずるいかもしれない。でも、今はこれがせいいっぱいだった。  見つめられているのがわかる。こんな間近で。俺は視線を泳がせながら、身体を揺らした。 「……いいよ」 「え……っ!」  いきなり唇をふさがれた。反射的に目をつぶる。歯を食いしばっていると、指で歯を軽く突かれた。 「歯。閉じないで」  言われた通りに歯を開けると、葛西さんの舌が忍びこんでくる。絡められて、吸われて、俺は呼吸のタイミングがわからず、焦って彼の肩に手を当てた。だが、押しはしなかった。お願いして抱かれるのだ。嫌とは言えない。必死に鼻で息をしているうちに、甘い声が漏れて、恥ずかしくなる。葛西さんの指が、キスしながら俺のシャツのボタンにかかるのがわかった。ひとつずつ外していく。上手にシャツを脱がされて、俺は行き場のない指でカーペットをかいた。 「……甘い」  口の中に残っていた甘さが無くなるほどの濃厚で激しいキスだった。こんな情熱的な一面も持っているんだな…と、霞む意識の中で考える。 「……両手、上げて?」  俺は両手を上げて、子供みたいに下着を脱がされた。その後、葛西さんがトレーナーやシャツを脱いでいるのを見られず、俺は息を整えながらうつむいていた。 「凛、立てる?」 「…………?」  ゆっくりと立ち上がると、そのままベッドにそっと仰向けに倒される。怖い。でも、この人なら乱暴せずにいてくれるだろうと思い、また目を閉じる。胸の前にある両手をそっとシーツに落とされた。部屋の明かりを一番小さくして、葛西さんがまたキスをしてくる。何度も何度も……髪を撫でながら。女の人にも、男の人にも、こんなに優しいことをするんだ、と思ったら、胸が詰まった。この人が他の人を愛しているところなど見たくもないし、考えたくもない。嫉妬、という言葉が頭の中をよぎる。 「……あ……っ」  首筋を唇で触れられる。くすぐったくて、横を向いた途端、乳首に指が絡まる。背筋がぞくっとして、また身体が震える。軽く触れられているのに、痛いほどに固くなっている。葛西さんにしがみつきたい。俺は思わず両手を彼の首に回した。大丈夫、というように、また何度もキスをされる。けれど乳首への刺激をやめてくれなくて、俺はぐずるように身を捩った。唇に含まれると、もうどうしていいかわからないほど気持ちがよくて、俺は声を上げてしまいそうになり、指を噛もうとしたが、葛西さんの手がそれを止め、絡んでくる。俺は思い切り葛西さんの手を握りしめた。胸への口づけが終わって、背中を思う存分愛撫された頃には俺はくたくたになっていた。前がきつくなったジーンズを脱がされる頃には意識が遠くなっていて、恥ずかしい、という気持ちもほとんどなくなっていた。全裸で絡み合うと、葛西さんの身体も少し汗ばんでいるのを感じる。俺の身体でも欲情してくれているのかと思うと、ほっとする。目へ汗が入りそうになり、指で拭おうとした時だった。葛西さんが俺の太腿に唇をつけた。まるで線をなぞるかのように移動するそれに、俺は足を痙攣させることしかできなかった。撫でるように足首をくすぐられた後、葛西さんは俺のペニスにそっと唇を近づけた。吐息の熱が当たり、めまいがしそうだった。 「……葛西さん……」  ゆっくりと舌を絡めた後、そのまま口の中に含んでいく。軽く上下に頭を動かされて、俺はまた足を反らした。腿を優しく撫でられて、声が漏れる。もう耐えられない。 「離して……。そうでないと……」  ますます唇と舌で刺激されて、俺はすぐに爆ぜてしまった。葛西さんが口を離さずにすべてを飲み下してしまう。あまりにも恥ずかしくて、俺は両手で顔を覆った。しばらくすると葛西さんがベッドを下りて、どこかの引き出しからなにかを持ってくる音がした。パチンと音がして、指の隙間からそれを見ると、葛西さんが指になにかの液体らしきものをこぼしているのが見えた。 「凛、痛かったら言って」 「……なに……? ……!」  指が、入ってくる。萎んでしまった俺のペニスを、葛西さんがまた緩く扱いた。こんなこと、されたことがない……。いつも、すぐに彼のものが押し付けられて……。痛みを堪えるしかなかった。時間をかけて中に外に繰り返す指が、少しずつ増やされているのに、痛みをあまり感じない自分が信じられない。時々、気持ちのいい時があって、思わず声が漏れてしまい、俺はシーツを握りしめた。早く葛西さんが欲しい……。それだけを考えて、俺は喘いだ。そのうち、指が抜かれて、またなにか音がする。俺はそれを盗み見た。 「……葛西さん……着けないで……」  葛西さんがゴムを用意していた。俺は以前の彼とそのまましていたので、俺の中が嫌でなければ、着けないでほしかった。もうこんな行為は最後にしたいから、葛西さんの熱さをそのまま感じたい。少しの間の後、葛西さんが俺に重なってきた。 「凛」 「前の人ともそうだったから……」  腰が両足の間に割り込んで、葛西さんの熱いものが当てられる。俺は息をつめて目を閉じた。耳元で声がする。 「息、吐いて。……大丈夫だから」  大丈夫。その言葉を信じて俺は力を抜いた。けれど痛みに支配される感覚が脳裏をよぎって、唇が震える。 「……あ……っ……!」  思わぬ感じに驚く。痛みはほとんどなく、葛西さんのペニスが俺の中に徐々に沈み込んでいった。彼よりだいぶ大きい。違いがあるんだということにびっくりして、俺は葛西さんの肩にしがみついた。すると耳に舌が差し入れられ、俺は変な声を出していた。 「か、葛西さん……」 「……大丈夫?」 「これって……みんなにもこうしてるの?」  葛西さんが困ったように微笑む。また、俺は変なことを聞いてしまったらしい。 「違うよ。これは初めての君のために。……凛のためだけだよ」  初めて……。俺は頬が赤くなるのを感じた。確かに、初めてみたいなもので……。こんなセックスは初めてで。 「……動くよ」  身体を緩く押し引かれて、思わず葛西さんの首筋に腕を回した。痛くない。でも、変な感じ。俺のペニスがまた頭をもたげている。気付いた彼の指が、それに絡んで、小さく呻いた。強くなっていく動きに合わせて、必死になって付いていく。時々、自分の内部が締まるのを感じる。そのたびに、葛西さんが呼吸を乱した。 「葛西さん……葛西さ……」 「凛……」  唇を塞がれて、俺は指に力を込めて、葛西さんの背に這わせる。彼とのセックスなら、何度でもしたい。そんなことを思って、恥ずかしくて頬が熱くなる。抽送が早くなって、俺は震える声でとぎれとぎれに言った。 「……中で……お願い……」 「…………」  葛西さんが大きく息をひとつつき、俺の耳元に頭を下した。 「前の彼が……って言ってたね」 「……うん……」 「じゃ、中で出したら、どうなるかわかってるでしょ?」  俺は淀んだ意識の中、彼との後を思い出して、思わず息が詰まった。確かに、そのままにしておくと腹の具合が悪くなるのだ。そんなことまで葛西さんは知っているんだな、と、妙に感心する。 「……それから、俺に抱かれてるのに、他のヤツの話はやめて」 「……?」 「……頭にくる」 「葛西さん……」  涙がこぼれる。俺は、本当にこの人のことが好きだ。きっと、この人も俺のことをとても大事に思ってくれているのだろう。なのにこれが最後なんて。自分で決めておいて、泣くなんてずるい。声がかすれて、自分の耳にも届いた。 「……お願い……します……中に」  目を閉じたまま、哀願する。それがとても大事なことで。以前のことを全部無しにはできないけれど、葛西さんとのことで上書きしたかった。彼の心配はありがたかったけれど、俺は譲らなかった。 「……わかった」  葛西さんが身体を起こして、強い律動を始める。声が詰まって、咳き込んだけど、彼は止めなかった。痛さはさほどなくて、今までセックスは痛いものだとばかり思っていた俺の考えは覆った。それとも、葛西さんが上手なだけなのかもしれない。身体を抱きしめられて、激しく求められる感覚は最高に気持ちがよい。もっともっと自分だけを見てほしい。俺だけを欲しがってほしい。 「葛西さ……あっあ……っ!」 「……一緒に、イケそう?」  俺は何度も頷いた。葛西さんの動きが止まって、奥に温かいものが溢れるのを感じる。呼吸が不規則になって、気を失いそうだった。続けて俺が達してしばらくすると彼の身体が引かれていく。意思に反して涙が滲んだ。 「……大丈夫?」 「……ん……」  ふと意識が途切れそうになる瞬間、身体を起こされる。 「……なに……?」  奥に注がれた熱いものが自然と下に流れてくる。それを指で確かめながら、俺のこめかみやまぶたに優しい口づけを落としてくる。彼の肩に頭を預けて、ぼんやりと目を閉じていた。 「凛、少し我慢して。できるだけ、出せる?」 「……なに?」  葛西さんは近くにあったタオルを俺の尻の下に当てた。意味がわかって、俺は頷く。 「いい子だね」  俺はだるい下半身に力を込めた。本当は出したくなんかない。だけど、俺のことを心配してくれているんだろう。  葛西さんの大きな身体に自分の身体をぐったりと預けたまま、俺は彼からのキスを受け続けた。「俺たちの考えているセックスには違いがある」と言ってたけど、こういうことだったんだ。挿入されて、激しく動かされて、中で出されれば、それがセックスだと思っていた。痛くて、でもそれは当たり前のことだったし、罰みたいなものだった。本当は葛西さんに抱かれるのも、半信半疑だった。もし、彼と同じだったらどうしようと。でも全然違った。葛西さんの優しさだけが染みてくるセックス。それは俺の傷んだ心を抱きしめ、慰めてくれるようだった。俺だけの葛西さん。俺だけのためのセックス。それはあまりにも贅沢で甘すぎて、この時間が過ぎてしまうことに怖さを感じてしまうほどだった。 「……大丈夫か? 凛」 「……うん。平気……。ごめんなさい……無理なことばっかり言って……」  ある程度出してしまうと、タオルを丸めて、布団の足元に置いた。  葛西さんが俺を腕の中に抱き込んで横になる。暖房はつけたままでいたが、すっかり汗は引いていた。なぜか俺だけ冷えていて、しがみついた彼のぬくもりに俺はほっとしていた。 「……こんなに冷たくなって……大丈夫か?」 「ううん……」  近くにある葛西さんの首筋は温かくて、いい匂いがして、俺はそこに顔を突っ込んだ。まるで別れが嘘のように。  こんなにつらい別れはもう二度とないだろう。葛西さんほどに好きになる人はいないから。また涙が出てきて、目を強く閉じる。絶対にこの顔を見せちゃいけないと思って、必死に彼の首にしがみつく。それに応えるように、両腕が強く抱きしめてくる。これが最後だなんて、信じられないほどに、俺は彼が好きで。  本当に彼と別れられるのかとか、今更バカなことを考えながら、俺はいつの間にか眠りについた。  眩しい、と思ったのは、錯覚だった。  海の夢を見ていたのだ。夢の中で俺と葛西さんは手を繋いで、とてもうれしそうに話していた。話の内容は覚えていないが、今は淋しくて泣いてしまいそうな気分だった。  葛西さんに全部持っていかれた。身体も、心も。こうして抱かれた後、やっぱり最後なんて言わなきゃよかったとか、もう一度一緒にいたいとか、なんだか頭の中がぐちゃぐちゃで、もう顔を合わせられそうになかった。  葛西さんの腕からそっと抜け出して、枕元にあるコンポの上の時計を見る。もうすぐ五時。始発で帰ろうと思った。服を着ながら、そういえば昨夜の食べ物にほとんど手をつけていなかったのを見ると申し訳なかった。俺は一食くらい抜いてもどうということはなかったが、葛西さんはお腹が空いているだろうな。 鞄を持ち上げようとすると、後ろからくぐもった声がした。 「凛」  びっくりして、俺は身をすくませたまま振り返る。葛西さんが起き上がってきた。 「もう帰るのか?」 「……すみません、起こしちゃって」 「送るよ」 「いえ、大丈夫です」 「最後……まで一緒にいたい」  最後。葛西さんの口からその言葉を聞くと、哀しくなった。自分で決めたことなのに、どうしてこんなに好きな人と別れないとならないんだろうと、心が苦しくなる。きっと、いつまでもそうなんだろう。あの時、どうして俺は葛西さんと別れたんだろう、と。そして仕方がなかったのだから、と。いつか、それでよかったと思える日が来るのだろうか。予想してみても、それは遠い日のことに思えて、しかも本当にそれでよかったと思えるのかどうかさえも怪しかった。でも、決めたんだ。葛西さんのために。俺のために。  葛西さんはそんなふうに思考を巡らせている俺の前でどんどん着替え始めた。そして俺の前に立つ。 「行こうか」  白い息を吐きながら俺たちは駅までの道を無言で歩いた。時折頬を撫でる厳しい風が、頼りない心を更に折れさせる。人も車もほとんど通らず、まだ夜明けの気配すらない。それでも夜は終わったのだと、周りの風景がそう言っている。  駅に着いて、階段を下りていく。ぼんやりとした明かりが目に眩しい。もうすぐ葛西さんとの時間が終わる。終わってしまう。なにか言いたかったが、考えがまとまらず、俺はそのままICカードを出した。 「それじゃ……」 「電車に乗るまで送る」 「……いいです」 「いいから」  葛西さんは携帯電話を出して、先に行ってしまった。なんだろう。無表情で。  本当に終わったな、そう思った。ほっとして、また落ち込む。これでいいんだ、そう思っていても、結局俺はどちらにもまだ揺れている、どうしようもないヤツだ。これが病気のせいでも、性格でも、どちらでも俺はそんな自分自身が許せない。葛西さんも決めたことなんだ、と、言い訳にしている姑息な自分。これはいつまでも治らないことなのか、と葛西さんの後ろ姿を見ながら思う。この人のようになりたい。自身の考えをしっかりと持ち、大切な感情をきちんと伝えられる人間に。まだまだ自分には遠い道のりだろうけど、この人は俺の目標だ。これからもずっと。  ホームに降りると、電光掲示板に次の電車の時間が表示されている。俺は葛西さんの横に立って、腕時計を見る。あと二分。彼はなにも言わず、俺もなにも言えずに、ただ時間だけが過ぎていった。  アナウンスと共に、電車がごうごうと風と共に音を立てて走り込んでくる。人はまばらで、目の前で止まった車両には誰もいなかった。ドアが開いて、俺は意を決して乗り込んだ。振り返り、できるだけ明るく微笑む。見つめ合ったままの葛西さんが少し唇を開いた。  忘れない。絶対に忘れない。葛西さんのこと、俺は死ぬまで忘れない。最初で最後の恋だから。  笛の音と発車のベルが鳴り響いた。 「ドアが閉まります。白線の前までお下がりください」  ありがとう。そう言おうとした瞬間。  素早く伸びた葛西さんの手が、俺の腕を強く引いていた。  

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