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第11話

 ドアが閉まり、電車がごとん、と音を立てて発車した。そのまま加速して、ホームの上には俺と、腕の中に抱きしめた凛だけが残った。身動きもせず、俺に身体を任せている。  ダメだ。離せない。俺は凛を離したくない。それは俺のわがままだとわかっていたが、どうしても離したくなかったのだ。ゆっくりと身体を離すと、凛は泣いていた。 「ごめん、凛」 「葛西さ……」  俺はもう一度、強く抱きしめた。サラサラの髪に顔を埋める。 「凛を離したくない。俺の勝手だけど、これだけは譲れない」  声を震わせて泣いている。なだめるように背を軽く叩いた。 「俺のために、離れようとしてくれてるんだろう?」  凛は何度も強く頷く。上げた顔は涙でぐしゃぐしゃに濡れていた。 「それだけじゃなくて、俺も強くなりたいって思ったから。このままじゃ、お互いダメになるって思ったから」  細い腕が俺の胸を叩く。するがままに任せた。 「全部ダメにした。葛西さんが全部……。最後の勇気だったのに……! 俺はもう葛西さんから離れられない……」 「言ってるだろ? 凛。一緒に生きていこうって。共倒れじゃなくて、支え合っていこう」 「俺が……葛西さんを?」 「そう。俺がつらい時は、凛が支えて? 無理のない程度に」 「葛西さんもつらい時があるの?」 「もちろんあるよ。だから……俺のことも支えて? 凛」 「うん……うん……」  凛が泣きながら、何度も頷く。地下風に揺れる髪を押さえ、俺は彼の額に優しいキスをひとつ落とした。  日が昇るのを二人で見ながら、俺たちはもう一度来た道を戻った。二人で手を繋いで、凛は恥ずかしそうだったが、それでもしっかりと俺の手を握りしめていた。一緒に眠りたくて、凛を誘ったのだ。身体はまだ半分寝ているようだったが、俺の心は晴れ晴れとしていた。先は大変なことが多いだろう。けれど、気持ちが一緒ならば、それを乗り越えていけることもできるはず。楽観はしていないが、悲観もしていない。まだ凛のすべてを見たわけでもないが、前向きな気持ちを見せられて、俺も頑張らないとな、と大きく呼吸をひとつした。恋愛は努力の連続だ。そしてそれは苦しいばかりではない。きっとそこから生まれるものもあるはずだ。隣りを歩く凛を見つめる。彼はその視線に気付いて、今まで見たこともないような透明で美しい微笑みを浮かべて、俺に頷いたのだった。  凛とのその後は思った以上に大変だった。  特に夜中になると悪い虫が騒ぎだすらしく、携帯電話には、突然、わけのわからない俺を責めるひどい言葉の羅列が目立った。  心配になり電話を掛けたり、返事をしていたが、最後には、必ず凛は泣きながら謝って「本意ではない」を繰り返した。  これが以前の彼が怒った理由なのだろう。最初は驚いた。だが、これは病気がさせることだ、大丈夫、凛を信じようと決めて、返事を夜中に返すのは少しずつ止めていった。未読のせいで、彼は暴言を吐き続けたが、朝になると必ずまた謝ってくる。  彼は親しくなればなるほど、相手に自分をわかってほしくてたまらないのだと思う。そして自分が愛されているのかどうか不安で仕方がない。また俺の昔の交際相手のことをよく知りたがり、彼らより自分のほうが劣っていると勝手に決めつけて、傷ついて、どうしようもなくなり別れようと言い出すことが多かった。俺は昔の話を極力さけるようにした。あまり構ってもいけないが、無視し続けるのもよくない。最初はそのさじ加減がわからなくて困惑したが、慣れてくるとそのうち凛は少しずつ真夜中の騒ぎを止めるようになってきた。暴力は格段に少なくなってきた。それは逆に付き合い出したから。続けていれば破綻するということを、身を持って知っているからだろう。  彼は俺を試したいのだと思う。意識しても、無意識でも。どのくらい自分の病気を大目に見てくれるか。問題を起こしては俺の出方を見ている。何度も言ったが気は長いほうだし、病気だということは百も承知だし、罵倒されたくらいでどうということはない。まぁ、確かに困ることはあるが、凛を嫌いになったりはしない。試してはみたものの、もしかしたら本当に切り捨てられるのではないか、と心の中で葛藤し、結局、凛は中途半端な場面で謝らないといけない羽目になる。俺はその度に大丈夫だと告げる。彼のほうが上下する感情に揺さぶられ疲れているのを考えると冷たくする気にもならない。それは大変ではあるが、少しずつ進んでいくほかない。    アルバイトを始めたことも関係しているのかもしれない。慣れないことで、大変なのはわかる。だからしばらくは互いに様子を見ながら手探りに付き合っていくしかない。  付き合うことに関して、凛は本当に奥手で、クリスマスイブに俺とセックスしたのに、会うたびに新鮮な反応をする。それを見るのはとても楽しいし、かわいいと思った。病気を背負っているのは本当に仕方がないことだ。とてもつらいだろうが、一人で苦しむ必要はないんだよ、と何度も凛に伝える。すると彼はうれしそうに何度も頷く。まだ頼ってもらえることが少ないが、そうやって凛が自制しているのはいいことだとも思う。  春とは名ばかりの三月。俺たちは以前来た海へまたやってきた。凛は少しはにかみながら手を繋いできたり、波と戯れたり、すっかり、あの時とは違う感じだった。当時はかたくなに俺の気持ちを理解しようとせず、自己完結を繰り返していた時期だった。それを思うと、俺たちは少し前進したのかな、と思う。はしゃいでいる彼が気付かないうちに、俺は両手の人差し指と親指でフレームを模って、心でシャッターを押す。輝いているものは美しい。それは創作意欲を掻き立てた。 「……葛西さん!」 「どうした?」 「今、写真、撮らなかった?」  俺は素直に降参した。 「撮った撮った」 「やだよ、恥ずかしいよ」 「きれいだよ」  あどけなく俺を見上げた凛に、そっと口づける。乾いた風が二人の間を吹き抜けないように、彼をゆっくりと抱きしめた。 「……きれいだよ」 「葛西さん」  凛はためらいながら、それでも周りに人がいないことを確かめると、微笑みながら背伸びして、自分から口づけてきた。  凛と海に来たあの時から、描き始めて、でも描き上げられなかった絵がある。白い布を掛けたまま、部屋の隅に置いたまま。それは凛が海辺で微笑んでいる絵だった。俺は彼の微笑みがどうしても描けなかった。それは見たことがないから。どうしても想像できなかったから。でも、今なら描ける。本当の、心からの笑みを浮かべる凛の顔を。 「やっと、描ける」 「……なにが?」 「凛の絵」 「……また、描いてたの? スケッチ?」 「違う。凛が泊まりに来た時に、部屋の隅に置いてあった…」  波は繰り返し寄せては返す。それは終わることを知らない。俺たちのこれからを象徴するかのように――。 Fin.

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