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【noctiluca】 ノッキ
一面に広がる青の中に星たちが煌めいていた。口からぽこぽこと浮いていく泡はまるでシャボンのようで、息苦しさを感じるより先に、きれいだ、とそれを眺めていた。どんどん沈んでいく身体。このまま海になるんだな、と消えていく意識の最後に想う。
胡桃沢 には15歳ころの記憶がなかった。欠けているといったほうが正しい。気がついたときには病院のベッドに寝かされていて、体に繋がれたたくさんの機械を不思議に思いながら眺めていた。
なぜ海の中に入ってしまったのか、どうして助かったのか、どんなに質問されてもぼんやりと霧の中にかすんでしまってどうしても思い出せない。ただ、ぽっかりと、何か大切なものを失ってしまったようなさみしさだけが残っていた。
あれから10年が経つ。
遠い記憶はなお深い海の底に沈んでいき、思い出すこともなくなって久しい。
※
月の美しい夜のことだった。
あかり一つない夜更けの海は波の打つ音だけが聞こえている。白いしぶきが足元まで迫り離れていく。
銀色の光だけに助けられた視界が海辺にたたずむ人影をとらえた。波打ち際に立つ美しい横顔に胡桃沢は息をのむ。
風に吹かれるたびに色の変わる髪は胡桃沢の漆黒とは違って柔らかく揺れている。細い体躯はまだ大人になりきる手前の儚さで、中性的な危うさをひそんでいるようだった。
「そんなに近づいたら濡れてしまうよ」と思わず声をかけてしまった。
少年と思しき人影はゆっくりと振り返り、小さく首をかしげた。突然の闖入者に訝し気な視線を送る少年に胡桃沢はつづけて声をかけた。
「こんな夜更けの海に何か用でも?」
自らが発光しているかのように少年の周りはきらきらと瞬いて見えた。冷たいとも感じ取れる視線が胡桃沢をとらえ、ゆっくりと口を開いた。
「そういうあなたこそ」
返された質問に答えようとして口をつぐむ。胡桃沢こそ首を傾げた。
なぜ自分はここにいるのか、どうやって辿りついたのか。いくら考えてもわからない。
落ち着こうとポケットを探りタバコに火をつけると深く吸い込んだ。胸の中がずしりと重たくなる。吐き出した紫煙はゆらゆらと海からの風に流れていく。
ざわりと胸が騒いだ。潮騒が懐かしい記憶の紐をほどこうとしている。遠い昔に失った大切な何かを思い出すように。
___月の美しい夜には漁にでてはいけないよ。もしどうしても出るのなら、陸との繋がりを思い出せるものを必ず持って行かなきゃならない。
幼いころ。漁師をしていた祖父のしわがれた声が教えてくれた。
___どうして?
___それは神秘的な美しさに囚われて帰ってこれなくなるからさ。
___陸との繋がりってなあに?
___それはな、
その先は何だったのか。ふいに戻った記憶のすきまに胡桃沢は額を押さえた。ふらりとよろめく。
「あぶない!」
「ああ、すまない。大丈夫だよ……ちょっと思い出して……そうだ、俺は何かを探しにここに……」
何を探しに?
言いかけながら胡桃沢は唸った。何かが欠けたままの自分の記憶。それを探さなくてはならないのに見つけるのは怖い。
「探し物?こんな夜更けに?」
少年の声が波の音と重なり、胡桃沢を包み込む。
「大事なものなんだね」
「そう……だね。大事なものだってことはわかるよ、でもそれが何なのか……」
助けを求めるように少年を見ると、彼はうっすらと笑みを浮かべた。
胡桃沢は、ふ、と眉を落とした。
「俺の記憶は少し欠けている。そこだけがぽっかりと空白なんだ」
不安定に揺れる記憶の波をたどるように言葉を絞り出した。それを発することで何かを壊してしまうのかもしれない。それでも吐き出さずにはいられなかった。
「思い出さなきゃいけないのに思い出したくない……でもこの海を知っている」
そうだ。
この匂い、この景色を胡桃沢は知っている。
10年前のあの日もこんな夜だった。
漁師をしている祖父の家の窓から見た夜の海は、今まで見たことのない色に光り輝いていた。
「じいちゃん、海が光ってるよ!」
興奮しながら窓から身を乗り出す横で祖父は「あれは夜光虫だよ」と教えてくれた。
「夜光虫?」
「あれは死んだ人の魂だ。近寄っちゃいけないよ」
「死んだ人の、魂」
「早く窓を閉めなさい。今日は魂が集まってきている」
光の美しさと魂という響きに何か惹かれたのだろう。こっそりと人目を盗み夜更けの海へと抜け出したのだ。
「誰か、を誘って」と胡桃沢は呟いた。
「……一人で行くのは怖かったんだ。だから」
___本当に行くの?
___夜光虫って死んだ人の魂なんだってさ。見たくない?
___見たいけど、怖いよ。
変声期を迎えた不安定な声でひそひそと交わした会話がよぎる。
「あの晩の海は青白く光っていて……それは不思議な光景だった」
好奇心には勝てず、波打ち際にしゃがみこんで覗き込んだ矢先に大きな波が襲いかかってきたのだ。驚いて逃げようとした瞬間にバランスを崩し、そして……。
「俺は、」
強く引く波にのまれた身体はあっという間に巻き込まれ、沈んでいった。水中から見上げた海面は満天の星空のようにキラキラと煌めいていた。
かけた記憶がパズルのピースがパチリとはまるようによみがえってくる。
「……沈んでいくときに見た光景がきれいだった。……でも海底に眠る死者の魂が迎えに来たのかと怖くて……」
助けて、と声にならない叫びをあげた。
もがきながら、助けようと伸ばされた手をしっかりとつかんだ。だけど水を吸って重くなった身体をつなぎとめるにはあまりにも弱かった力。
いつの間にか隣に並んでいた少年は胡桃沢の手をそっと取り、自分の指に絡めた。冷たくて細い指。その感触を胡桃沢は知っていた。
「……瑠宇 」
「そうだよ、乃蒼 」
大好きで大切な幼馴染。いつも一緒にいて、これからもずっとそばにいるのだと思っていたのに。
差し伸べられた彼の手を掴んで、青く光る海の中に引きずり込んだ。ごぽりと音がして瑠宇の口からたくさんの命の証が抜けていくのを、ただ、沈みながら見つめていた。
そのあとの記憶は、ない。
「忘れちゃったの?」と少年はつないだ手に力を込めた。
「ぼくはずっと君のことだけを想い続けているのに」
「……瑠宇」
自分だけが助かったと分かった時、瑠宇の記憶を抹消した。彼のいない人生なんて耐えられないと思ったのだ。だからいないことにした。
「ごめん……お前を忘れるなんて、そんなことあるはずないのに」
瑠宇はきれいな男の子だった。大好きで、いつか結婚するんだと大人に言っては笑われたけど、本気だった。胡桃沢の初恋だったのだ。きっと瑠宇もそうだった。
「俺はお前を探しに来たのか」
海に沈んだままの瑠宇の身体。深い底で眠ったまま、胡桃沢を待ち続けている。
胡桃沢の答えを聞いた少年は初めてやわらかな表情を浮かべ、口元をほころばせた。
「待ってたよ、乃蒼」
するりとしなやかな腕が胡桃沢を抱きしめた。耳元に湿った息遣いを感じる。
「ずっと、あなたのことを待ってた」
波の音が大きくなっていく。月の光に照らされ、魅惑的に笑う瑠宇をしっかりと抱きしめ返した。ずっとこうしたかったのだ。友達じゃなくて、恋人になりたかった。
まだ幼くて、恥ずかくて、ちゃんと伝えることができなかったけど。
「ごめん、待たせたよな」
細くてすっぽりと腕の中に納まる瑠宇からは懐かしい香りがした。この甘い香りをかぐたびうずうずとして、いてもたってもいられなくなっていたあの頃。
「好きだったんだ。……瑠宇のいない世界なんて信じられなくて、消した」
海に近寄ることもできなかった。祖父ともあれ以来会っていない。瑠宇に繋がることは全て記憶から抹消して、だけど何もない世界では生きている意味がなかった。
「逢いたかった」
「もう離さないで」と瑠宇は囁いた。
「ひとりぼっちのここは暗くて寒くて、さみしいんだ」
「瑠宇……っ」
しっかりと手をつないだまま、波打ち際へと歩いた。靴が波につかってもあの時のように驚いたりはしない。
「行こう」と瑠宇はさらに強く指を絡めながら胡桃沢を誘った。
「手を離さないでね」
「ああ」
息苦しい海の中で離してしまった大切なひとを、もう二度と失いたくない。
『陸へと繋がるものを持っていけ』と言った祖父の声が甦る。だけどそれは胡桃沢を引き留めることはなかった。
静かに一歩ずつ海の中へと入っていく。
冷たい水が重みを増し、足元は砂にとられ沈んでいく。恐怖はなかった。瑠宇が隣にいるのだから。
___乃蒼。
ふいに遠くから名前を呼ばれた気がした。
「乃蒼」
はっきりと聞こえた声に振り返ると砂浜に何かがきらりと光った。月の光を反射し、まるで合図を送るかのようにちかちかと点滅をする。
戻らなくちゃ、と思った。
「待ってくれ、大事なものを落とした」
「大事なもの?」
遠い昔、夏祭りの縁日でお揃いだねと買ったロケットペンダント。いつでも一緒だね、と照れ臭そうに笑いながら互いの胸にかけあったものだ。
遠くてはっきりとそれとは確認できなくても間違いない。胡桃沢を呼んでいるのがわかる。砂浜へ戻ろうとした胡桃沢を瑠宇はしっかりと繋いで離そうとはしなかった。
「行かないで」
「だってあれは大事なものだろ。すぐ戻るから」
「いやだ!」
思いがけないほど強い力で引っ張られた。驚いてなだめたけれど、瑠宇は陸へと戻りたがらない。
仕方ないと胡桃沢は柔らかくその手を離した。
「すぐ戻るから……待ってて」
ザバザバと引き寄せる波に逆らいながら浜辺へとたどり着いた。瑠宇はかたくなに海の中から戻ってこようとはしなかった。ただ、じっと胡桃沢を見つめている。
半ば砂に埋もれるようにペンダントはそこにあった。開くとまだ幼い胡桃沢と瑠宇が笑ってこちらをみていた。
「瑠宇」
ふいに目の前が明るく輝きだした。見ると海面が真っ青な光を放ち、きらきらと瞬いている。それは夜を彩る満天の星空に似て美しい光を放つ。
「……夜光虫」
あの日海の中で見た景色もこんな感じだった、と思い出した。死者の魂が集まった光。
海の中に置いてきた少年に視線を移す。彼は瑠宇ではなかった。
「……きみは瑠宇じゃない?」
信じられなくて、ペンダントを抱きしめ叫んだ。
「瑠宇は俺を連れて行こうなんて思わない。きみは誰なんだ」
瑠宇の姿をした少年はうっすらと口元をゆがめると「残念」と囁いた。聞き取れる距離ではないはずなのに、その吐息が耳をくすぐった。
「あなたが欲しかったのに」
クスクスと笑う声が胡桃沢の身体にまとわりつくように響いた。ぎゅっとペンダントを握り、弾かれたように駆け出した。
砂に足を取られ、水しぶきが濡らしても振り返らなかった。
___陸との繋がり___瑠宇。
美しさに囚われ戻ってこれないといった祖父の言葉。それはあまりにも残酷すぎて、目の奥が酷く痛んだ。視界が歪む。
ふいに足元が軽くなり気がつくとアスファルトの上を走っていた。あたたかな街灯の光が道を照らしている。
荒く乱れた呼吸を整えながら手のひらを開けペンダントを見た。
「……」
さっきまで綺麗に光を反射していたはずのペンダントは海水で錆びれ、開こうとすると軋む音を立てた。中の写真も色あせ元の姿をしていなかった。まるで胡桃沢を助けるためだけに存在したかのように、今は静かに眠っている。
「お前が助けてくれたんだな」
濃厚にまとわりついていた潮の匂いが遠のいていく。
遠い記憶の中の彼はいつも笑っていた。誰よりも幸せを願ってくれていた。胡桃沢はペンダントを胸に抱えると安らかな眠りを祈るように瞳を閉じた。
「瑠宇……愛してる」
潮騒は今も遠くで誘うように轟いている。
Fin
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