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陸
1限目が始まる前に、俺は教室に戻った。
あのまま保健室にいて、彼を待つなんてことをする気にはなれなかった。
保健室にそのままいたら、俺はどうかなってしまうんじゃないかと思うと、気が気ではなかった。
教室に戻るとライには暢気に、
「おまえほんと、厄介な能力だよなー」
と言われて肩を叩かれた。
教室に戻った俺に、夏目は近づいて来なかった。
だからと言って、俺から近付くこともしない。
それぞれの席で、それぞれの友人と他愛もない会話を交わす。
多少眠気は残っていたが、それでもなんとかやり過ごし放課後を迎えた。
今週最後の掃除当番。
中庭に向かう足取りは重かった。
俺の少し前を、夏目が女子に挟まれて歩いている。
あの匂いに囚われないようにさっさと帰らなければ。そう思い、俺はぎゅっと拳を握りしめた。
セピアに染まる中庭を、俺は黙々と竹ぼうきで掃除をする。
昨夜の雨のせいで、葉はレンガが敷き詰められた地面に張り付いている。
まあ、完全に綺麗にするのは無理だろうと思う。
先生もほどほどでいいからと言っていた。
濡れた葉の上に、今日落ちたであろう枯れ葉が何枚も重なっている。
なので、ほどほどに集めてもゴミは結構な量になった。
4つの大きなゴミ袋を夏目とふたり、ごみ捨て場に運んでいく。
土曜日の放課後ということもあり、校舎内は掃除当番で残る生徒がちらほらいるくらいで静かなものだった。
早く帰らなければ。そうしなくちゃ、彼に囚われる。
そう思い、俺はゴミをごみ捨て場に放り投げると、荷物を教室に取りに行こうと足早にその場を去ろうとした。
「戸上」
声をかけられて、仕方なく振り返る。
夏目までの距離は、約1.5メートル。
彼は微笑んで、
「急いでるの?」
と言った。
その問いに、俺は半歩下がってこくりとうなずく。
これより近づいちゃいけない。頭の中で、警報が鳴り響く。
「じゃあ」
と言って、先にごみ捨て場を出た。
まあ、先に出たところで、夏目だって荷物をとりに教室にいくだろうからあまり意味はないが。
それでも俺は、足早に教室へと向かう。
後ろは振り返らなかった。一度も。
廊下をすれ違う生徒もあまりおらず、校舎は静かなものだった。
教室のドアを開けると、中には誰もいなかった。
鞄も、俺と夏目のもの位しか残っていないようだ。
俺が教室に入って鞄をしょっていると、夏目も入ってくる。
瞬間、ふわりと甘い匂いが漂った。
あぁ、これはヤバイやつだ。
そう思い、さっさと逃げようと、俺は教室の出入り口へと向かった。
「戸上」
名前を呼ばれ、仕方なく俺は振り返った。
彼はクスリと笑い、俺を見つめる。
「何を怯えているの」
「お、怯えてなんて」
そう答えた俺の声はわずかに上ずっていた。
怯えているとは少し違う。
いや、でも怖いとは思ってる。
このまま一緒にいたら、俺は夏目に何かされるんじゃないかって。
『いい子にしていたら、もっとあげる』
そんなことを保健室で言っていたように思う。
あげるってなんだ? あの先って……
俺は浮かんだ考えを打ち消そうと、頭を横に振る。
「ねえ、朱里」
名前を呼ばれて、俺は思わず固まってしまった。
まるで、呪文でもかけられたかのように、俺はその場から動けなくなってしまう。
夏目がゆっくりとこちらに近づいてくる。
俺は後ずさったが、すぐに机にぶつかって逃げ場を失ってしまう。
彼が、すぐそこで止まった。
手を伸ばせば、すぐに届く場所で。
「なんで、あのまま待っていなかったの」
「なんでって……」
「待ってるように、言ったじゃない」
夏目の口調はきついが、口許には笑みを浮かべていた。
匂いがする。
甘い、バニラのような匂いが。
匂いが俺から身体の自由をうばい、理性を壊そうとする。
怖い。俺が俺でなくなるような感覚に襲われる。
夏目の手が、俺の腕をつかむ。
「あ……」
掴まれた腕から、じわりと熱が広がっていく。
こんなの初めてだ。
なんでこんな風に感じるのだろう。夏目に触れられて、俺はひどく動揺している。
「朱里」
夏目がぐいと近づいてくる。
「待てなかった?」
匂いが俺の身体にまとわりついてくる。
俺の意識までも絡めとるかのように、濃密に。
思わず足を引くと、がたりと机が音をたてた。
「う……あ……」
待っている理由なんてない。
そう言いたいのに、言葉は喉に張り付いて声にならない。
「朱里」
名前を呼ぶ声が、甘く響く。
「ここで、ほしい?」
「な、に……」
なにを? 何を欲しいって言いたい?
「さっきの続き、ここでほしいの?」
甘美な声で、夏目が俺を誘う。
俺は、その問いに頷くことも、拒否を示すこともできなかった。
さっきの続き。その先に何があるのか、俺には想像ができなかった。
いや、想像できないわけじゃないけれど、けれどその想像が正しいとか俺には思えなかった。
そんなこと、あるわけがない。
アルファである彼が、ベータである俺に口づけてきたことだって不可解なんだ。
その先のことなんて、起きるわけがない。
そう思うのに。
俺は、夏目に絡めとられただの人形のようにびくりとも動けなかった。
「朱里?」
「なつ、め……匂い……」
「飛衣」
鋭い声で訂正され、俺は息をのんだ。
「と、い……」
「なあに、朱里」
「匂い……おかしくなる……」
息を切らせて訴えるが、匂いは全然弱くならない。むしろ強くなっているようだった。
匂いのせいか、身体の芯が熱くなっていく。
「とい……」
吐息混じりの俺の声は、自分の声とは思えないほど艶めいていた。
なんでこんな声が?
「このままじゃ、辛いんじゃないの」
彼が、俺の耳元に口を近づけ、そうささやく。
視界がぐらり歪み、俺は思わず夏目にしがみついた。
やばい。このままだと、俺は夏目に囚われてしまう。
「自分から、俺に抱き着くなんてね」
そう言って、彼は喉を鳴らして笑い、俺の背中に手を回した。
「ちが……」
「何が違うの」
抱き着きたくて抱き着いているわけじゃない。
立っていられないからだ。そしてそれはこの匂いのせいだ。
「朱里。まだ、受け入れられないの?」
「なに、を……」
「なかなか、しぶといんだね」
逃げなければ。そう思うのに、身体が動かない。
俺は首を振り、声を絞り出した。
「俺は、オメガじゃ……」
「俺はオメガに困っていないよ。
見合い話はいくらでもあるしね。求めなくても、向こうからやってくるんだよ」
ならなんで、俺に構う? 正直理解できない。
「ねえ、朱里。そんな状態で帰れるの?」
そんな夏目のセリフに、正直腹が立つ。
こんな風にしたのはお前じゃないか。
そう思うのに、声に出すことはできなかった。
「な……飛衣……」
何とか言葉にできたのは、彼の名前だけだった。
夏目、お願いだから。
俺を解放して。
俺は、お前の思い通りになんてなりたくないんだ。
そんな俺の願いは、儚く消え去ってしまう。
俺は、夏目に抱きかかえられたまま校舎を連れ出され、彼を迎えに来た車に乗せられてしまった。
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