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漆
車の中には、濃厚な甘い匂いが充満している。
運転席と後部座席の間はガラス張りになっていて、カーテンがしかれよりいっそう匂いは濃いものになっていた。
甘い匂いにすっかり息をあげて動けなくなってしまった俺は、今、夏目の膝を枕に横たわっている。
ぐらぐらと揺れる視界。
熱い身体。吐く息も熱い。
なんでこんな風に俺の身体はなってしまったのだろう。
「まるでオメガだね。
オメガはアルファのフェロモンにあてられるとこんな感じだよ」
言いながら彼は俺の頬をつーっと撫でる。
たったそれだけなのに、俺は身体を震わせ声を漏らした。
「あ……」
「まあ、発情期のオメガはもっと理性も完全に失って、ほしい、早くちょうだいっておねだりしてくるんだけど。
君はベータだものね」
おねだりってなんだよ。
そんなことするわけないじゃないか。
俺はベータで、俺は男だ。
「なつ……なに考えて……」
「朱里」
咎めるような鋭い声に、俺は胃のそこが冷える感じがした。
「名前で呼ぶように、言ったよね」
手は優しく頬を撫でるが、声は冷たく響く。
従わなくちゃいけないような気がして、俺は言い直した。
「飛衣……どこいくつもり……」
「そのままじゃ帰れないだろうから、うちにつれていくつもりだよ」
うちにつれていく。
言葉を反芻し理解したとき、俺はゆっくりと身体を起こし夏目を見つめた。
彼は微笑んで、俺を見ている。
「何、で家……」
「また、俺を拒絶する?」
俺の問いには答えず、夏目が言う。
「またって……」
「月曜日、送っていくといたとき拒否したじゃない?
俺が申し出て拒絶したやつなんてあまりいないんだよ。
ましてやベータである君が、拒否するなんてね」
「だからって、なんで……」
「忠実な僕とかたくさんいるからね。
俺は俺にノーと言ってくる相手の方がよほど魅力的だ」
俺には正直その思考が理解できなかった。
わざわざ逃げようとする相手を捕まえようとするか?
いや、逃げようとするからか。
逃げると追いかけたくなる。
理解できなくはないが、そんなことしなくても、夏目はほしいと思えば何でも手に入るだろうに。
なんで俺なんか。
「やだ……俺、帰る……」
首を振ると、甘い匂いがまとわりついてきて、俺は大きく息を吐いた。
やばい。またぐらぐらする。
車が揺れ、俺はふらりと倒れ、夏目にしがみついた。
俺のモノからはじわりと先走りが溢れ、下着を濡らしている。
触ってもいないのに、なぜ俺は欲情しているんだ。
全部この匂いのせいだ。
匂いが俺を惑わせる。
こんなこと考えていいわけないのに。
この熱を解放してほしいとか、気持ちよくなりたいとか。
そんなこと考えちゃいけないのに。
なのに俺は……目の前のアルファに囚われる。
夏目は俺の背中に手を回し、片方の手で俺の頭を優しく撫でた。
「欲望に溺れきらないのが、ベータの特徴かな。
オメガなら、欲望に従って自分から抱いてと叫ぶんだけどね」
「俺は、そんなこと……」
「わかってるよ。そんな相手なら俺は興味をもたないし。
理性と本能の狭間で揺れ動いて、抗う姿の方がよほど魅力的だ」
悪趣味だ。
そう思うのに、身体が動かない。
車が静かに停車したのが、僅かな揺れの違いでわかった。
「とい……俺……」
帰りたいとう言葉は、口付けに飲み込まれていく。
逃げようとしても頭を手で押さえられ、それは叶わなかった。
舌が唇を舐め回し、俺の口を開こうとする。
けれど、無理に口をこじ開けようとはしてこなかった。
ゆっくりと、少しずつ俺の硬く閉じた唇を舐め、ほぐしていく。
結局舌は入ることはなく、唇が離れていってしまった。俺はすっかり息をあげ、ぐったりと夏目にしがみついた。
ドアが開く音が聞こえる。
「着きましたが、彼、どうされるんです」
若い男の声が聞こえる。
きっと運転手だろう。姿は見ていないが、車に乗る前に声を聞いた気がする。
「部屋に連れていくよ」
そう言って、彼は車から降りると俺を抱き上げた。
俺だって男だ。体重だってそこそこある。なのに、同じ男に抱き上げられるとか。
夏目のほうが背は高いが、大して体重差はないだろう。そんな相手に軽々と持ち上げられるとか。
正直信じられないが、彼はすっかり動けなくなってしまった俺を家の中に運んで行った。
靴を運転手に脱がされ、俺は夏目の部屋へと連れ込まれてしまった。
大きなベッドにゆっくりと下ろされ、彼は離れていく。
相変わらず、俺の身体には甘い匂いがまとわりついていた。
このまま匂いに溺れたほうが幸せだろうか?
抗って、理性と本能の狭間で苦しむより、その方が楽じゃないか?
そんな考えがよぎっては消えていく。
この状況から逃げる手段なんて思いつかないし、身体が動かない以上どうにもならない。
なら――
このまま、彼の好きなようにさせた方が、楽じゃないだろうか?
いや、でも俺は男で、ベータだ。
男にいいように身体を触られるとか……最悪抱かれるとか、そんなの嫌に決まっている。
何が最善なのか考えれば考えるほどわからなくなっていく。
ただ俺は、ベッドに横たわり、ぼんやりと夏目がブレザーを脱ぐのを見つめた。
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