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Ⅴ【マルク】第17話

ノックするが、返答がない。 しかし、ドア横のランプは入室許可の青い光が灯っている。 (返事はするまでもないという事か) 呼びつけておきながら、あの人らしい。 青く光るランプを押す。 あらかじめ入室許可をセットされた扉は、IDナンバーの入力なしに呆気なく開いた。 中から声が聞こえる。 先客だろうか。 ……否。 政府専用回線で、音声が繋がっている。 丁寧に磨かれた黒光りする角机の向こう 革張りの椅子に座っているのは、ここをを執務室にした、部屋の主 副総理…… 兄だ。 入室した俺の存在には見向きもせず、通話口に語りかけている。 政府専用回線を使用するという事は、電話の相手は政府関係者…… 海外の要人であろう。 なぜなら…… 通話口から話す言語は…… 「……Genau(ゲナウ〈なるほど〉)Ja, das stimmt(ヤー ダス シュティム〈あぁ そうですね〉)……Aber Alles in Butter(アーバー アレス イン バター〈しかし そちらは大丈夫ですか〉)? ……Alles klar(アレス クラー〈構いませんよ〉). Damit kann ich arbeiten(ダミットゥ カン イヒ アーバイト〈協力しましょう〉).」 ドイツ語……プロイセンか。 「……Mach's gut(マハス グート〈それでは また〉)! ………………Sieg Heil(ジーク ハイル).」 気づけば俺は…… ハッと息を殺していた。 この電話は、聞いてはならないものだ。 (兄は、俺を試している) 電話の声を聞かせたのは、わざとだ。 わざとこの電話を聞かせる事によって、兄上はッ 俺が、本当に兄上に付くのか。 俺が、兄上を裏切らないか。 (俺は、兄上に試されている) 電話の内容は他愛もないものであろう。恐らく。 しかし。 (最後の言葉は……) 決して呼び起こしてはならぬ、禁忌 第二次世界大戦の負の遺産 20世紀最大の差別と専横・虐殺の象徴 狂気の喚起だ! Sieg Heil(ジーク ハイル). (あなたは、なにと繋がろうとしているだッ) 俺の考察が正しければ…… 絶対に『それ』とは関わりを持ってはいけない。 あなたの政治生命 否 日本国の存在そのものを(おびや)かす、脅威なのだから。 ………カツン 「マルクス首相と話していたよ」 通話を終えた電話機を机の上に置く。 「……プロイセンですか」 「あぁ、神聖プロイセン帝国。来月にヴィルヘルム皇太子が、新皇帝に即位される。……傀儡(かいらい)だけどね」 旧ドイツ連邦共和国が、周辺諸国を統合して建国した、神聖プロイセン帝国 皇帝=議会連合制により、ヨーロッパでも有数の民意を重んじる国であった。 二年前までは。 プロイセンは変わった。 元は小さな野党であった、プロイセン立憲躍進党が与党第一党となると、他の政党も追随し、国会は一党独裁状態である。 プロイセン立憲躍進党の民意とは、αの威光だ。 巧みなプロパガンダを用いて、国内のα・βを懐柔し、大規模な軍事組織 プロイセン特務警察隊を編成した。 軍隊で皇邸を占拠し、穏健派 皇帝・フリードリヒⅢ世を退位させると、国家に国民の民意を反映させるとの名目の元…… 選民思想に基づく、Ωの弾圧を始めた。 シュタットと呼ばれる更生施設に強制連行し、Ωに薬物投与を行う。 Ωの意志は剥奪されて、αに従順なΩにされる。 このシュタットを管理しているのが、プロイセン立憲躍進党の支援団体だと言われているが……噂の域を出ない。 真実は秘されている。 プロイセンは危険だ。 与党第一党 プロイセン立憲躍進党 党首 神聖プロイセン帝国 独裁者 マルクス首相 そんな相手と会談して…… (なにを考えているんだ) プロイセンは、世界で最も近づいてはならぬ国だ。 その国家元首と、あなたは何を話していたのですかッ? 「軍事同盟を結ぶよ」 「なにを言うんですかッ!」 「日本国と神聖プロイセン帝国は、同盟国となる」 涼しげな双眸が、曇らぬ火を(たた)えている。 「私を売国奴(ばいこくど)だと思うかい?」 「兄上ッ」 「………正解だよ、ユキト」 瞳の中に蠢く冷酷な炎が光る。 「私は、この国を売る。この国は腐っているからだよ。 歴代の政治家共が私腹を肥やし、国家を食い物にしたせいで、この国の腐敗は最早手の施し用がなくなった」 腐敗にメスすらも入れられなくなった国は、壊すしかない。 ………どうせ壊すなら 「捨てる物は、高く買ってもらおうじゃないか。但し、Ωにこの国は売らない」 売る相手は、プロイセンだ。 口許が弧を描く。 白晢に揺らめいたのは、深淵に咲く花のような笑み…… 「さぁ、日本国再生計画の始まりだ」

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