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Ⅵ【ファウスト】第9話
涙に触れた手は熱くて……
指先から、体温を流し込まれたようだった。
苦しい、この気持ちを。
俺の中だけに閉じ込めなくてもいいのか。
苦しい時に苦しい……って。
そう言ってもいいのだろうか。
愛する事が分からない俺に、お前はなんて答える気なんだ。
…………俺を妻に、と。
そう言ったお前は馬鹿だな、ハルオミ
お前は逃げ道を自ら封じてしまった。
俺が頷けば、俺を妻にするしかなくなる。
なぜ自らの選択肢を奪う愚かな真似をした?
……それが、愛するという事なのか?
俺、は………………
目の前が急に暗くなった。
不意にハルオミの手が目隠ししてきて……なにも見えない。
唇を塞がれた。
やっと唇が離れて、軽く咳き込んでしまう。
俺はッ………
口づけされなければ、なにを言おうとしたんだ?
上手く呼吸が紡げない。
「……ハル…オミっ」
「すまないね。君の唇が気になってしまったよ。口枷のせいだね、唾液まみれだ。……あぁ、ここもまだ濡れている」
ペロリ
舌先が口角を突っついて舐めた。
「……私は卑怯なんだよ」
一トーン、低い声が鼓膜を撫でた。
「君は、誰かのためになら死を恐れぬ人だ」
けれども……
「誰のためにもならない死は恐い。違うかい?」
目隠しされたまま、声だけが聴覚を穿つ。
「当然なんだよ。命あるものは死を畏れる。君は今、死を選んではいけないよ。
死んだら、なにも見えなくなる。私の声も、もう聞こえない」
銃口を胸に押し当てられる。
「信念とは、人が生きるために必要で、人を生かすために貫くものなんじゃないのかい?」
だったら君は……
「生きるべきだろう」
「けれども俺はッ」
………………分からないんだ。
「俺の掲げてきたものは薄っぺらくて、信念じゃなくなった。
愛する事が分からないんだっ」
「………それだって正解なんだよ」
不意に、目隠しが解かれた。
瞼に光が射す。
「自分に一生懸命、向き合ったのなら、『分からない』という結論も答えだよ」
銀の光が眼前を一閃した。
革ベルトの拘束具が足元に落ちる。
右手に拳銃を構えたまま、左手のナイフを懐に収めたハルオミは……
「私だって、愛する意味は分からない。この愛だって自己満足なのかも知れない。それでも君を愛したい」
肩を抱き寄せて。
「私自身、分かっていないのだから、愛する意味の真実は教えてあげられないけれど……」
抱きしめられた。
きつく、きつく……
「本当の『卑怯』を、君に教えるよ」
手首を掴み上げられて、無理矢理握らされたのは、
ハルオミの拳銃
俺とハルオミの体に挟まれた銃口は、今
ハルオミの心臓を捕らえている。
「生き延びたければ、私を殺せ」
拳銃を離す事を許さない。
指を無理矢理、トリガーに掛けさせられる。
「殺せないなら、私の妻になれ」
この男は………
「私は………」
黒の支配者
できない。
俺が生き延びるために、お前を撃ち殺すなんて。
俺にはできない。
『誰かのためになら死ねる』
裏を返せば、
『自分のために人を殺せない』
俺の心理は読まれ、思考をシュヴァルツ カイザーに乗っ取られている。
ハルオミの優しさだ………
俺が生き延びる言い訳を、彼は身を呈してつくってくれた………
「私の元に来てくれるね?」
右手の拳銃は抜き取られた。
俺が……頷いたから……
「ありがとう。……すまない。恐い思いをさせてしまったね」
砲撃の轟音が降りしきる戦艦で、俺達は誓いのキスを交わした。
「ハルオミ……さん」
「真っ赤になって。嬉しいよ、私をそう呼んでくれるんだね」
再び唇が降りてきて、頬をそぅっと撫でられた。
「シキ ナツキ」
ハッと目を見開く。
藍色の玲瓏が凪の海のように、俺を見つめている。
「君の新しい名だ。私達は夫婦 になったんだよ」
………………ユキト
………………アキヒト
俺は、ヒダカ ナツキじゃなくなってしまった。
「この戦争は、私が終わらせる。君を戦場へは戻さない」
拘束具で赤くなった腕を、彼がさすってくれる。
そうして男は、彼岸花の色に染まった右目の瞼にキスをした。
我が子の傷を舐める、動物の親のように……
俺は、ハルオミの妻になった。
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