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第61話 想い(3)

 自分を見下ろす瞳に、耐えきれなくなって顔を俯けると、慌てたように彼は膝をついて両肩を掴んできた。 「待って、なんで? 好きなのに触れるの駄目、どうして? 宏武、好き」  ――愛してる、そう囁いて涙で濡れた目尻に口づけられた。  それでもあふれる涙は止まらなくて、胸は相変わらず軋んで、息が詰まってしまいそうなほどだ。 「恋人のことは、もう忘れた?」  こちらをのぞき込む瞳を見つめ返して、問いかけた。すると彼の瞳は大きく揺れ、表情は強ばったように固くなる。  その表情を見て、胸が引き絞られる思いがした。やはり忘れていないのだ。  彼はまだ失った半身を愛している。きっと自分は、それを上書きするための代用品でしかない。 「もう帰って」 「嫌だ!」 「もうさよならだよ」 「宏武! 嘘じゃない! 愛してる。あなたを愛してる!」  揺さぶられる肩が痛い。肌に食い込むような力で掴まれて、思わず顔をしかめるけれど、それでもその手は離れていかない。  それどころか引き寄せられて、身体を抱きすくめられてしまう。  力強い抱擁に、息が止まってしまいそうになる。  抱きしめるその腕が嬉しいと、感じてしまう自分に嫌悪した。なぜこんなにも、好きになってしまったのだろう。  どうしてこんなに胸が痛むんだ。彼にさよならと告げたのは自分なのに、どうしてこの心は、言うことを聞いてくれないのか。 「間違いだったんだ」 「宏武?」 「あんたと寝たのが、そもそもの間違いだったんだ」  身体を繋いでしまったから、こんなにも心が引き寄せられてしまった。彼に抱かれて、愛されていると勘違いしてしまった。  甘い誘惑に負け、自分で自分の首を絞めていたのか。なんて愚かなんだろう。  今更そんなことに気がついても遅いと、わかっているけれど涙があふれてくる。 「泣かないで宏武。信じて、いま愛してるのはあなただけだ」 「空いた穴を埋める代わりには、なりたくない」  まだ心に恋人の影がある限り、どんなに愛していると囁かれてもその言葉を信じ切ることはできない。誰かを愛することで、欠けた心を埋めようとしているのが、わかるからだ。  出会ったのがいまじゃなかったら、もう少し時が過ぎていたなら、信じてもいいと思えたかもしれない。  けれど受け入れたとしても、彼はまたすぐに旅立ってしまう人間だ。これは一時の夢でしかない。

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