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第84話 リスタート(5)

 離れてもうすぐ二年になる。いま彼はなにを思っているのだろうか。自分のことを忘れてはいないだろうかと、思いを馳せてしまう。  離れているあいだ、彼がどこでピアノを弾いているのか、スケジュールはこまめに追いかけていた。  彼は本当に息つく間もないほど、あちこちと飛び回っている。昨日は確か母国のフランスでの公演だった。  プロフィールで知ったことだが、彼の母が生粋のフランス人で、父のほうは日本とフランスのハーフだった。  両親はすでに現役を引退しているが、ともにピアニストだ。  母親の家は名の知れた名家で、国に帰れば大きな屋敷があるほどらしい。彼が身の回りのことを、自分でできなかった理由がなんとなくわかる気がする。  離れてから色んなことを知って、そのたび会いたくて堪らなくなった。  温かな笑顔、優しい手、澄んだ茶水晶の瞳、一つずつ思い出しては想いを募らせる。そんな毎日だ。 「そういえばリュウは、また日本公演をするという噂がありますよ」 「え?」 「しかしどの公演もすぐに完売になってしまうし、国内で彼のピアノがもっと聴けるようになれば嬉しいですね」  会計を済ませ、ピアノの発送手続きをしているあいだ、店主はなにかを話しかけてくれていたが、正直なにを話していたか覚えていない。  リュウが日本へまた来るかもしれないと、そう思うだけで胸が高鳴っていった。  店を出ると、飛び出すように雨の中を駆けていく。電車に乗って移動しているあいだも、早く早くと先を急いだ。  いつか心が癒やされて、すべてを受け入れられるようになったら連絡が欲しいと言われた。その時のためにと、彼が残していった連絡先がある。  立ち直るにはまだ早いと、ずっと思い出さないようにしていた。だがいまなら彼に連絡ができる気がする。彼に返事ができるような気がするのだ。

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