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第83話 リスタート(4)

 もう十年以上も触れていない鍵盤だけれど、指先で音を鳴らすと、心がふわりと浮き上がるような心地になった。  なにか覚えているだろうかと頭を巡らせて、初心者でも弾ける有名な曲を思い出す。ベートベンの「エリーゼのために」などはどうだろうか。  誰もが一度は耳にしたことがある曲だ。優雅で美しい旋律は心が穏やかになる。  おぼつかないながらも身体は覚えているのか、つまずくことなく鍵盤の上を指が動いていく。音が奏でられるたびに、心が満ち足りた気分になった。 「お上手ですね」  店にいた客が立ち止まり、そんなことを言う。お世辞にもなめらかな技巧とは言えないのに、なんだかくすぐったい気持ちになる。  初めて人前でピアノを弾いた時のことを、思い出してしまう。小学校の低学年くらいの頃だろうか。  あの時も嬉しさとくすぐったさが混じって、少し気恥ずかしかった。  しばらく店内を見て歩き、一番シンプルなキーボード型の電子ピアノを買うことにした。鍵盤の重さや音色もまずまずの品だ。  お金を出せば、もっといい音が出るものはたくさんあるが、自分はいまや初心者も同然。まずは弾くことを楽しめればいいのだ。  それと共にスコアとCDも購入した。 「リュウ・マリエールお好きなんですね。まだ若いけれどいいピアニストですよね」  購入したCDは、先日発売になったばかりの彼のものだ。ピアノが聴けるようになったおかげで、彼の奏でる曲も聴くことができるようになった。  いまではCDもDVDも、彼が演奏しているものはすべてを買い揃えるほどだ。  リュウの音色はとても繊細で優しく、とても伸びやかだ。心根や性格がそのまま曲に現れている。  彼のピアノを聴くと、なんだかあの腕に抱かれている時のような、心穏やかな気持ちにもなった。

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