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第82話 リスタート(3)

 しかし心の傷が癒やされていくと共に、その音色は穏やかな優しい時間を思い出させる。  あの人と過ごした、楽しかった思い出がよみがえるようになり、聞こえてくる音が耳障りではなくなった。  それどころか心穏やかになるほどに、心地よいものへと変化する。ピアノを弾くのが楽しかった、あの頃に気持ちが巻き戻っていった。 「またピアノを始めようかと思います」  昔のようにはもう弾けないけれど、ピアノを奏でてみたいと思う。そうしたらいまも世界中を飛び回っている彼に、少しでも近づけるんじゃないかなんて夢を抱いている。  一緒に飛び立てるだけの、翼がないことはわかっているが、喜びを分かち合うことくらいはできるかもしれない。  そんなことを考えられるくらいに、いまの自分は前向きだ。 「思うままにチャレンジすることは、いいことだと思いますよ」 「ありがとうございます」  思う心が定まると、足取りも軽くなってくる。にこやかな笑みを浮かべる彼女に見送られて、穏やかな部屋をあとにした。  外に出ると、相変わらず雨がポツポツと音を立てているけれど、その音さえも旋律のように聞こえてくる。  そういえば昔は、なんでも音が音程を持って聞こえていた。記憶と一緒に、そんな感覚も忘れていたのだなと思い返す。  ビニール傘を開き、雨の中に足を踏み出すと、傘を打つ雨がリズミカルに聞こえてくる気がする。  傘や地面を打つ雨音、水が跳ねる音、しぶきがあがる音、それらに耳を傾けながら音階を作っていく。  そうするとなんとなく、わくわくと楽しい気分になってくる。  そうだ子供の頃は、色んな音がする雨が楽しかった。水たまりを跳ね回り、傘をくるくると回してあふれる音に耳を寄せる。  そして学校へ行くと、頭の中で描いた音階を形にしていた。  それは文章を形作るのに少し似ている。言葉のリズムが音階。譜面に音符を記していくことと、変わらない気がした。自分がなぜいまの仕事をしているのか、納得できる。  そんなことを思いながら、気づけば楽器店に来ていた。ふらりと誘われるままに入り、ピアノの前で足を止める。

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