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第81話 リスタート(2)
「また心がふさぎ込むようなことがあれば、いつでも相談してください。でもきっともう大丈夫だと思いますよ。桂木さんの表情は、ここに通い始めた頃に比べたら、とっても穏やかになっています」
至極柔らかな笑みを浮かべて、彼女は微笑む。
相手に緊張感を与えないその穏やかな雰囲気は、これまで随分と気持ちを和らげてくれたと思う。
通い始める前は、正直カウンセリングなどは気が重いと思っていた。
自分の内面を吐露しなくてはならないのだから、逆に心がすさみそうだと感じたほどだ。しかしため込んだものを吐き出すことは、自分に必要なことだったのだと教わる。
少しずつ心の傷を言葉にしていくことで、第三者に認めてもらい、許されていくような気持ちになった。
自分が過去の出来事から抜け出すためには、それはあなたのせいではないと、肯定されることが必要だったのだ。
いまはこうして通うようになって、よかったと思っている。後ろ向きにならず、ここへ足を運んだ自分を褒めてもいい。
カウンセリングを進めていくのと同時に、あの人の自殺の発端になった事故についても、詳しく調べ直した。
あれは不運な事故だったのだと、いまなら思える。あの日はとても雨が激しくて、薄暗く見通しも悪かった。
その状況下、運転手は飲酒をして車に乗っていたという。
人影に気づくのが遅れ、ブレーキが間に合わなかった。そして道を歩いていた自分をかばい、あの人はその車に跳ねられたのだ。
雨が降っていなかったら、自分が傍にいなかったら、あんな事故は起きなかったのではないか。だがもうそれは、起きてしまった事実。
過去は変えることはできないのだ。不運を嘆くよりも、前を向いてそれを受け止めることが、心の傷を癒やす近道になる。
だからずっと忘れていた、あの人のことを少しずつ振り返っていった。
「あの人の音が、ようやく聴けるようになりました」
雨音と同じくらい嫌いだったピアノの音。その中でも特に聴くことのできなかったのは、あの人の奏でるピアノだ。
ほかの音が聴けるようになっても、それを耳にしただけであの時の恐怖がよみがえってきて、正気でいられなくなるくらいに恐ろしい思いをした。
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