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第89話
*
養護の先生は外で他の生徒の手当てをしているらしく、保健室のなかは俺と先生の二人きりだった。
「先生に許可は取ってるから。しばらく横になってな」
俺をベッドに横たえた先生が「飲み物買ってくる」と自販機へ行ってしまった。
俺は半ば放心状態でベッドの上にうずくまり、開いている窓から聞こえる声援を聞きながら、唇を噛み締めた。
(なんで……)
なんで先生は、俺の体調なんかに気付いてくれるんだろう。
思えば、俺と先生の関係の始まりもこんな感じだった。俺の体調不良に気付いてくれて、病院にも来てくれて、一緒に住むことになった。
先生はいつも俺を助けてくれる。寂しいって気持ちを和らげてくれて、幸せをくれる。その度に俺は嬉しくなって、好きな気持ちが増して、苦しくなるんだ。
「心?つらい?」
ベッドが音を立てて軋み、俺はいつのまにか戻って来ていた先生に身体を起こされた。されるがまま起き上がった俺の唇に、ペットボトルが押し当てられる。
「飲んで」
先生がゆっくりと傾けて、甘くてわずかな酸味をおびた水分が、俺の口に流れ込んだ。それが喉を濡らし、伝い、身体の中に吸収されていくのが分かる。
俺のより冷たい温度。だけどすごく優しい、温かさ。
「……っ」
(本当に、優しすぎる……)
ペットボトルが口から離れると同時に、涙が流れた。
「うっ……ぅ」
せっかく取り入れた水分が、止むことを知らずに次々と溢れ出る。
「どうして泣くの?」
先生はそっと俺を抱きしめてくれたけど、それが余計に胸を苦しめる。駄目だって分かってるのに、もっと求めたくなるのが、辛くて苦しい。そのくせ、俺はこの胸を突き放すことは出来なかった。
「身体、きついのか?」
「……ぅ……っ」
背中をさすってくれる先生に、俺は嗚咽を漏らしながら首を振る。
「……突然出て行ったのと、関係ある?」
「……ふ……うう」
今度の問いかけには答えず、ただ涙を流し続ける俺のほっぺを、先生はスルリと撫でた。
「心、本当のことを言って」
顔を上げさせられる。涙でぼやけた視界では、ちゃんと先生の顔を見ることが出来ないけど、きっと優しい瞳で俺を見つめてくれているって分かるくらい、先生の声は穏やかだった。
「心が俺と一緒に居たくないって言うなら、きっぱり諦める。だけど、俺は心と一緒にいたいんだ。だから、本当のことを言って欲しい」
ほっぺを撫でる手が、大丈夫、怖くないよ、って言うみたいに俺を慰めてくれる。「心」って名前を呼んでくれる先生に、堪らない感情が込み上がって、俺は先生の手に自分の手を添えて、震える口を開いた。
「……っ。俺っ……」
「ん」
「俺っ……先生が家族になろうって、言ってくれて……すごく嬉しかった……っ。先生は、本当に家族みたいに接してくれて……こんなに幸せなことなかったって……」
先生との時間は夢のようで、ずっと一緒にいれたらって思ってた。
「でも俺っ……自分のことばっかり考えてた……俺のせいで、先生のこれからの時間を……家族を、邪魔しちゃうっ」
「家族……?」
先生の問いかけにコクリと頷く。
希さんに会って思い知った。俺が先生の家族になるなんておこがましいって。俺はどこまでいっても、先生の従兄弟で、生徒で。先生は俺に優しくしてくれるけど。家族になってくれるって言ったけど。
(だけど──)
先生には未来がある。俺には難しい、明るい未来が待ってるから。
「俺だけ幸せで、先生の未来を奪うなんて……そんなの、絶対に嫌だ」
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