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3.カブフリ

 悠々とした足取りで、カブフリは森を抜けて山に入った。手のひらにはマトリの肌の感触が残っている。 (また一段と、色っぽくなった)  川の水に濡れた肌のかがやきに、カブフリの唇が好もしくゆがんだ。 (あれは俺のものになる)  半ば確信をしながらも、求めに応じないマトリにいらついてもいた。どうしてマトリが誘いを受け入れないのか、カブフリにはさっぱりわからない。幼いころからマトリはカブフリのうしろを追いかけていた。子どもたちの中でも群を抜いて運動能力の高いカブフリと、対等になろうと必死になって努力をし、ほかの子どもたちが尻込みしてもマトリは臆せず挑戦していた。 (マトリは、俺を慕っている)  それがカブフリを得意にさせた。幼いころからマトリはうつくしかった。子どもらしい愛らしさの中に、気品と呼べるものが漂っていた。ほかの連中とどこか違っていた。そんなマトリをカブフリは特別視し、マトリの尊崇の視線を受けたい一心で子どもたちのリーダーとして君臨し続けた。  オス同士であってもかまわなかった。しかしマトリがオメガだとわかった瞬間のよろこびは、表現のしようがなかった。大手を振って求愛できる。堂々とツガイになれるのだと、カブフリはよろこびに胸をとどろかせた。自分がアルファであることは、成人の儀式で告げられなくとも確信をしていた。周囲も当然そのはずだと考えていた。だからなんの感慨も湧かなかった。ただ、アユイもまたアルファと言われたときは気になった。  カブフリと違い、アユイはあまり目立たない存在だった。秀麗な容姿は力強さとはほど遠く、しなやかな肉体はうつくしいが他を圧倒するほどではなかった。しかし彼の身体能力の高さに、カブフリは気づいていた。いつもグループの後方をみずから選び、サポート役に徹していたアユイ。能力が高くなければできない行動だと、カブフリはアユイの能力の高さを買っていた。  だから彼がアルファと判明しても、おどろきはしなかった。ただ、気がかりだったのだ。彼もまたマトリを求めるのではないかと。 (だが、そうはならなかった)  力強いカブフリの歩みは、草を踏んでも無用な音を鳴らさない。考えに没頭していても、狩りに長けた肉体は獲物を追い詰める技を自然と発揮していた。それはアユイもおなじだと、カブフリはマトリに迫る自分を止めたアユイを思い出す。  気配を消して、足音も悟られずに近づいてきたアユイの身ごなしは、カブフリから見ても見事だった。ただ歩いているだけなのに、無駄がなかった。しなやかに伸びた四肢にふさわしい、なめらかな身ごなしは不意を突かれても涼やかに対応ができるだろう。それほどの相手だと、カブフリは認めている。  もしもマトリを巡ってのライバルが現れるとしたら、アユイだろうと予測していた。アユイはいつもマトリを助けていた。兄のように、とも受け取れるが、それだけではない気配をカブフリは感じていた。あのふたりには、なにかある。そんな予感をカブフリは抱いていた。  しかしアユイはマトリに求愛をしなかった。いまもそんな気振りはない。ただマトリが困っているときに、手助けをするだけだ。  それが忌々しくもあり、安心でもある。 (アユイはマトリを世話する相手としか、認識していない)  子どものころの役割をそのまま、延長させているにすぎない。マトリが求愛を受けずにいるから、アユイがしゃしゃり出てくる。それだけの相手だと、カブフリは考えていた。 (それなのに、なぜだ)  胸のあたりがざわめいている。不安という単語が目の前にちらつきはじめたのは、マトリに求愛を拒まれてからだ。まさかそんなと信じられなかった。呆然としていると、きっと心の準備ができていなかったのだと、メスたちにささやかれた。そういうものだと言われても、マトリはオスだ。メスの気持ちとおなじであるはずがない。だが、カブフリはそれを信じた。それで納得をしなければ、ほかに断られる理由があるということになる。  マトリが求愛を断る理由。  それを考えると、アユイが浮かんだ。 (マトリの気持ちは、アユイにあるのか?)  そんなはずはない。マトリは常に俺を追いかけていたと、カブフリは考えを打ち消した。いままで目標だった相手とツガイになれるとわかり、求愛をされたのでとまどっているのだ。オスとして生きてきたのだから、いきなりオメガであると宣言されれば困惑もする。そこに求愛がかぶさったから、マトリはとっさに断っただけ。  メスたちの言う心の準備とは違う意味での、心の準備が整っていないのだとカブフリは考えた。オスとして生き、目標としていた相手に抱かれる未来を想像して、おじけづいてしまうのも無理はない。だからカブフリは気分を害することなく、断りを受け入れた。しかしあきらめたわけじゃない。心の準備が整えば、かならず受け入れるものと確信している。  自信があるのに、カブフリは不安だった。その理由が自分でもわからない。どっしりと構えてマトリの気持ちが整うのを待てばいい。山の集落のものたちだけでなく、森の集落や海の集落のものたちでさえ、マトリはカブフリとツガイになるものと考えている。それ以外の相手などウワサにも上らないほど、ふたりの仲は人狼たちの間で決定づけられていた。 (それが、よくないのかもしれないな)  負けん気の強いマトリは、だれもがそう考える中で奇妙な反発心を抱えたのではないか。だからカブフリの求愛を拒み続けている。ならばそっとしておくのが道理だろうが、カブフリはことあるごとにマトリに会いに行き、迫っていた。 (マトリは俺のものだ)  心の準備が整っていないのならば、整うように誘導すればいい。ツガイになれと言い続ければ、そのことについて考えざるを得なくなる。そうすれば気持ちは固まる。カブフリはそう考えていた。森の集落に立派な獲物を送るのも、その一環だ。マトリだけを気にしているわけではない。マトリの生まれ育った集落も大切にするつもりでいると、人狼たちすべてに知らしめるためにおこなっている。  狩場は集落によって決まっている。山の狩場の獲物は森の集落では手に入りづらい。あれほど見事な猪は、森の集落ではめったと味わえない上物だ。だからカブフリは迷わず送ると決めて、狩ったその足で森の集落に届けた。ひとりで捕らえたわけではないが、狩りに同道していたものたちは皆、カブフリの望みを受け入れてくれた。  それほどマトリはカブフリの相手として、尊重されている。  あの猪を見れば、いやでもそれがわかるはず。  カブフリの耳に獣の足音が届いた。身をひねり足音を忍ばせながらも俊足で近づく。足音の主はウサギだった。そういえばマトイもウサギを狩っていた。迫ったときに足元に見えたウサギを思い出して、カブフリは口の端を持ち上げた。ウサギはこちらに気づいていない。カブフリは一気にとびかかり、ウサギはあっけなくカブフリの牙にかかった。 「いい毛並みだ」  これをなめして腕の飾りにすれば、きっとマトリの肌に映えるだろう。肉は集落で消費する。森の集落に届けた猪の代わりにもならないほどの、ささやかな収穫だが狩りに出られない子どもたちには食べやすい食材だ。スープにすれば牙の弱った年寄りにもよろこばれる。  カブフリはいずれ集落の長になると自負していた。だれもがそれを望んでいる。それにふさわしくあらなければと、胸を張って集落に戻った。  先に帰した狩りの仲間が集まってくる。彼等をねぎらい、ウサギを長の家に届けた。日はまだ高い。もうひと狩り出かけるかと、カブフリは振り向いた。 「マトリはまだ、カブフリの求めに応じないのかしら」  そんな声が井戸端を通るとき、耳に届いた。ひそめているらしいが、カブフリはほかの人狼よりも耳がいい。 「じれったいわ。いっそ私が立候補してしまいたいくらいなのに」 「あなたなんて、相手にされないわよ」 「それはどうも」  たのしげな若い娘の笑いがさざめきとなって、カブフリの鼓膜をくすぐる。娘たちは半ば本気で、カブフリのツガイになりたいと言っている。山の集落の若い娘たちはもとより、森の集落、海の集落の娘たちからも熱い視線を向けられるカブフリの自信は、日に日に強固になっていく。  それに合わせて不安が揺れて、カブフリは不思議な焦燥にさいなまれた。 (なぜ、俺の求めに応じない)  心の中でマトリに語りかける。水に濡れた白い肌を思うさま味わいたい。俺のものだと確かめたい。細い首に噛みついて、白銀の髪に指を沈めて赤い唇を奪いつくし、たおやかな肉体を情熱で赤く染めて己を深く突き立てる。  一刻もはやく実現させたいと望みつつ、強引にしてはならないと自戒する。力づくで奪うのは簡単だが、それではマトリの気持ちがついてこない。肉体だけが欲しいのではない。心がともなってこそのツガイだ。迫りはするが、襲わない。それがわかっているから、マトリは堂々と拒むのだ。 「山に入る」  カブフリが低く告げると、待ってましたとばかりに若い男たちが集まった。全員の瞳がカブフリに全幅の信頼を寄せている。次代の長はカブフリだと告げていた。  カブフリはニヤリと口の端を持ち上げて、彼等を引き連れ森へ入った。 (この姿を見れば、マトリの気持ちも動くのではないか)  違う集落であるのが残念だと、カブフリは余裕の笑みを口の端に乗せて同胞たちに指示を出し、散開して獲物を探した。  探索の網にかかったのは鹿だった。さほど大物とは言えないが、悪くはない。カブフリの指示に従って狼の姿となり、鹿を包囲するといっせいに飛びかかった。  気づいた鹿が逃げまどう。捕らえやすい場所に誘導されているとも知らず、鹿はカブフリの指示通りに走らされた。  追い詰めた鹿にカブフリの牙が迫る。深く牙を食い込ませたカブフリを振り払おうと、鹿は懸命に抵抗をしたが無駄だった。首を激しく振ったカブフリは、鹿が長く苦しまぬよう急所を突いた。  鹿を運ぶのは追い込みをした、まだ狩りに出たての年少者たちだ。人の姿になって服を着て、鹿の足を太い木の枝にくくりつけて肩に担ぐ。集落に運ぶのを彼等に任せ、残ったものたちで次の獲物を探しに行った。  この日の収穫は鹿が二頭と狐、ウサギ五匹だった。これだけあれば集落の全員がしっかりと食べられるだけでなく、わずかだが狩りに出られない日のための干し肉づくりにもまわせる。  日が暮れはじめたので、カブフリは汚れを川で落として服を着た。 「あの猪ほどの獲物は見つからなかったが、悪くない」  カブフリが声をかけると、青年たちは晴れやかな顔でうなずいた。 「カブフリのおかげで、獲物がすくない日はなくなった」 「じいさんも肉が毎日食べられるって、よろこんでいたよ」 「無理をして狩りに出なくてもよくなったのは、助かるよな」 「森の集落の連中も、きっとそう思っているさ」  追従ではなく正味の言葉に、カブフリは満足した。子どものころは、大人たちが狩りに出ても充分な獲物が得られない日があった。自分が狩りに出られるようになったら、山の集落だけでなく、ほかの集落のものたちも飢えることがないようにしようと、カブフリは心に決めていた。それを実行できていることが素直にうれしい。 (森の集落の長ではなく、人狼すべての長だと認められるほどの男になる)  幼いころからそれを目標としていたカブフリにとって、アルファだと判明するのは当然のことだった。アルファは群れの中でもさらに優秀な希少種だ。その希少種の中でも突出した存在となり、人狼すべての繁栄と安寧を担ってやる。それが俺の使命だと、カブフリは考えていた。  そんな自分にふさわしい相手は、マトリしかいない。ただそこにいるだけで目を惹くマトリの清廉な雰囲気と、勝気な性格はきっと人狼界の役に立つ。すべての群れを支え導くものになるつもりのカブフリにとって、マトリは必要な相手だった。子どもたちに慕われ、細かな世話もいとわないマトリの心根とうつくしい姿。なよやかな容姿とはうらはらに、どんなことにも挑戦しようとする姿勢と負けん気。 (あれこそ長の中の長を目指す俺のツガイにふさわしい資質だ)  だからこそカブフリは、子どものころからマトリに目をかけていた。多少の厳しさも、自分にふさわしい相手に育てるためだった。マトリはオメガのはずだと、カブフリは思っていた。美麗な容姿に細身の体。気持ちについていけない身体能力。どれをとっても、マトリはオメガだと示していた。そのころから、マトリとツガイになるとカブフリは思い極めていた。 (たとえオメガでなくとも、マトリとツガイになる)  子を授かることはできなくても、自分のかたわらにはマトリが必要だ。自分こそマトリにふさわしいと、カブフリは子どものころから考えていた。その思惑に影を落としているアユイの存在が気になるほかは、なんの心配もしていなかった。 (俺はすべての人狼の長となり、マトリとともに群れを率いる)  カブフリにとって当然となるはずの未来予想図にさしかかる、アユイの影は濃すぎるほどに強い存在感を放っていた。

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