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4.マトリ

 加工され、軒先に干されている魚の匂いを肺に深く吸い込んだマトリは、磯の香りの先にアユイを求めた。海の集落で生活をしているアユイは、海の匂いをほんのりとまとっている。それが欲しくて、マトリは軒下から魚とその先の夜空を見上げていた。  集落の皆はアユイの魚など見向きもせずに、カブフリの猪に夢中になっていた。猪は解体されて夕食としてふるまわれた。森の集落の今日の収穫は保存用にまわされて、だれもが立派な猪に舌つづみを打っていた。  猪の差し入れは、単純にありがたいと思う。森の集落の狩場では、めったにお目にかかれない獲物だ。しかもただの猪ではない。これほどのおおきなものは、山の集落でさえ簡単には出会えないとわかるくらいに、立派なものだった。  だれもがおおよろこびだった。マトリもおいしくいただいた。それだけならいい。集落の皆から、マトリのツガイとなる相手からの贈り物、という目を向けられさえしなければ。  重たい息を吐き出して、マトリは自分の小屋へ戻った。  はじめのころは「カブフリのツガイになる気はない」といちいち反論していたが、照れ隠しだとからかわれるだけとわかったので言わなくなった。 (僕がカブフリとツガイになるのは、決まったことだって皆が考えている)  僕の気も知らないでと吐き捨てて、マトリは寝台にうつぶせに倒れ込んだ。 (僕がツガイになりたいのは、アユイだけなのに)  いつも自分を見守ってくれたアユイは、だれをツガイにする気でいるのか。そんな話が聞こえないかと、耳をそばだてて注意深くウワサを拾っているのに、それらしい相手を思いつくものはひとりもいなかった。なんとなくの憶測で言っている程度の相手ならいるが、会話のために名前を出してみた、という程度でしかない。  ツガイにしたい相手がだれか周囲が予測できないほどに、アユイは平等にやさしかった。 (子どものころから、アユイはなにも変わらない)  だれにでも親切で、だれにでもやさしくて、だれのことも気にかけて、さりげなく手助けをしていた。彼が手を差し伸べるのは、目立たないところで困っている相手ばかりだった。アユイの行為はカブフリのように、わかりやすく称賛されるたぐいのものではない。だからアユイの評価は、カブフリよりも低い。 (でも……だからこそ、アユイはすごいんだ)  自分を誇ることなく、当たり前に手を差し伸べる。カブフリは集団を引っ張っていくだけの能力を有している。それは素直にすごいことだとマトリは思う。仲のいい幼馴染が、おおくのものに称賛されるほどの能力を持ち、それに見合った気概を胸に行動しているのは尊敬に値する。  だからといって、それがツガイになりたくなる理由にはなっていない。カブフリからの申し出は、ありがたいことだと思う。彼のツガイになりたいメスはたくさんいる。マトリ以外のオメガも、カブフリのツガイになりたいと望んでいる。そのだれもがマトリがツガイになるのならとあきらめて遠慮をしている。それがマトリには重たくてしかたがない。 (僕はなる気はないって、ずっと言動で示しているのに。皆、勝手だ)  自分たちの感情が、そのままマトリの気持ちだと思い込んでいる。 (僕は、アユイのツガイになりたいのに)  そう言ってしまおうと、幾度も口を開いては声に出さなかった。いざ言おうとすると、アユイの笑顔が網膜に浮かんでためらってしまう。  もしもアユイが迷惑だと感じたら。  それを聞いたカブフリとアユイの仲が悪くなってしまったら。  周囲がふたりをけしかけて、争わせることにもなりかねない。 「あーあ」  ため息を落として寝返りを打ったマトリは、天井の横木に吊り下げて乾燥させている薬草をながめた。季節になっては摘んで干し、保管している。森の集落のものたちは薬や調味料となる植物に通じており、栽培もしていた。そしてそれぞれの家で、必要分を干して保管している。  マトリの場合は、ひとり暮らしにしてはおおすぎる量を保存していた。 (これくらいしか、僕がアユイの役に立てることはないから)  弱っているもの、困っているものを救おうとするアユイは、病気やけがで苦しんでいるものに接することがすくなくない。だからすぐに薬を提供できるよう、マトリは積極的に知識を吸収して、在庫を切らさないよう気をつけていた。  すこしでもアユイの役に立ちたい。体力や運動能力が平均種のベータよりも劣るオメガでも、知識の面では引けを取らない。優性のアルファに対しても、知識や手先の器用さならば努力次第で匹敵できる。 (アユイに必要だって言われたい)  その一心で集めた薬草たちを見ていたマトリの体が、ほんのりと熱くなった。起き上がって息を吐くアユイの頭に、獣の耳が現れた。尻のあたりがムズムズとして、ズボンのボタンを外す。ふさふさのしっぽが飛び出して、マトリは苦笑した。  立ち上がり、服を脱ぐ。  裸身になったマトリのなめらかな肌が、窓から差し込む月光に浮かび上がっている。マトリは窓をきっちりしめた。室内が闇に閉ざされる。寝台に腰かけたマトリは、ためらいがちに自分の中心に手を伸ばした。 「は、ぁ」  オスの証が硬くなっている。それに指を絡めて、ゆるゆると擦りあげた。 「ぁ、あ……ああ」  ちかごろアユイのことを思うと、体が火照って制御が利かなくなる。月のうつくしい夜はとくに、冷静ではいられなくなる。 (発情をしているんだ)  アユイのツガイになりたいと、心も体も望んでいる。ほほえんだマトリはしっぽを揺らして自慰を続けた。 「んっ、ぁ……っ、は、はぁ……あっ、あ」  こんな姿をアユイが見たら、どう思うだろう。想像すれば、興奮はより高まった。あさましく肉欲を求める自分をアユイに知られたい。これほど興奮しているのだと、そのくらいアユイのツガイになりたいのだと目の前で伝えたい。 「ああ……あっ、アユイ……ああ、ああ」  自慰の手がはやくなる。マトリの欲肉の先端から、透明な液がにじみ出た。マトリはそれを指に絡めて自身に塗りつけ、指の滑りをよくした。よりスムーズになった手淫に、マトリは口を大きく開いて淫らな息を漏らした。 「は、ぁあ……アユイ、ああ……アユイ」  闇の中に自分を見つめるアユイを浮かべ、マトリはほほえむ。やさしい笑顔で見守ってくれるアユイの前で、淫らな行為をしている。それがマトリの胸をうわずらせた。 「ああっ、あ……アユイ、アユイ……ああっ!」  細い首をのけぞらせ、マトリは達した。手の中に熱いほとばしりを受け止めたマトリの、濡れるはずのない尻の奥から官能の蜜があふれる。アユイを思って自慰をするたび、マトリは己がオメガなのだと自覚させられた。  ふつうのオスは性的興奮で尻が濡れることはない。自慰をして体の奥が濡れるのは、オスでありながら子を産めるオメガだけだ。 「は、ぁ」  悩ましい息を吐き出し、マトリはしっぽを持ち上げた。体の奥がうずいている。けれどそこを自分でなぐさめたことはない。 (アユイに、されたい)  そこにアユイを受け入れたい。いますぐに彼の元へ走って、しっぽでアユイを誘いたい。  できないとわかっているから、よけいに想いは募ってしまう。  下唇を噛んで、マトリは寝台に腹ばいになった。尻を持ち上げ、そろそろと指を運ぶ。尻の谷に触れてビクリとし、おそるおそる濡れたちいさな穴に触れた。ヒクリと入り口がわなないて、指に吸いつく。ドキドキしながら慎重に指を沈めた。 「んっ、う」  ほんのわずか沈めただけで、マトリは動けなくなってしまった。ここからどうすれば自分を慰められるのか。欲しい場所は入り口ではなく、蜜の溢れる奥だとはわかっている。だが、そこまで指が届くとは思えない。なにより、自分の内側に指を押し込むには勇気がいる。  しっぽを揺らして逡巡したマトリは、そこを自分でするのを止めにした。名残惜しいと入り口が動いて指を誘う。体は満足していない。だけど、なだめるほかにマトリができることはなかった。  苦笑して、マトリは狼の姿になった。夜駆けをして発散しよう。  人の姿よりも狼のほうが、夜目が利く。月夜の散歩は気持ちがいいはずだ。  小屋の炊事場に設えてある、ちいさな扉に顔を突っ込む。外からも内からも鼻先で押せば開く扉は、獣の姿専用の出入り口だ。  飛び出したマトリはやみくもに月明りの中を走り、森に入った。木の葉がそこここに闇溜まりを作っている。闇と月明りで濃淡に彩られた森を走るマトリの足は、いつのまにか海を目指していた。  潮の香りが鼻孔に触れる。  マトリは森の木々が途切れる寸前で止まった。  ゆったりとした潮騒が鼓膜に触れて、マトリのおおきな耳がちいさく震える。目的もなく走ったつもりが、アユイを求めてしまっていたのだと気がついて、マトリは苦笑した。  なんのために走ってきたのかと自嘲したマトリは、人の姿になって森を出た。夜風がマトリの体を包む。月光にしらじらと浮かぶ、なまめかしい肌を見ているものはだれもいない。  潮風になぶられる青味がかった銀髪は、月の光を含んで星のように淡くかがやいていた。  草を踏み、砂地に立って波打ち際で立ち止まる。強く弱く寄せては返す波が、マトリのつま先をすこし濡らした。ひんやりとした海水に、一歩近づく。くるぶしまでが波に洗われる位置まで入ったマトリは、水平線に視線を置いた。 (波が、僕の気持ちをさらって、あの先にまで運んでくれたらいいのに)  そうすれば皆が望んでいるとおり、カブフリのツガイとなって生きていける。どうしようもないほどアユイを想う気持ちさえなければ、カブフリの求めに応じられる。森の集落だけでなく、山の集落も海の集落も、マトリがその決断をするのを待っている。だれもマトリが別の相手を想っているなど、想像しようともしない。幼馴染の照れくささから、カブフリの求愛を受け入れないのだと考えている。  期待に応えられない苦しさに、マトリは胸の前でこぶしを握ってうずくまった。この気持ちを無視してカブフリとツガイになれば、だれもがよろこぶ。しかし心を殺せない。アユイへ想いを伝えたからといって、アユイが受け入れるとは限らない。よしんば受け入れられたとしても、群れのものたちはそれに納得をするだろうか。なによりカブフリが、それをどう思うか。 (僕の想いは、だれにとっても迷惑にしかならない)  このまま、まっすぐ水平線を目指して行方をくらましてしまおうか。そうすればカブフリは自分をあきらめざるを得ないし、アユイにも迷惑をかけなくて済む。だれの期待も裏切らず、自分の気持ちをごまかす必要もない。 (すこしは心配をしてくれるかな)  アユイなら、舟で探しに来てくれる。必死の形相で「マトリ」と叫びながら、広大な海の上を探してくれる。  フフッと口元をほころばせたマトリは、さみしい目で指を伸ばして波に触れた。 「僕を、だれの期待も裏切らない場所へ、連れて行ってくれる?」  波は答えない。 「マトリに迷惑をかけない場所に、行きたいんだ」  指で水をはじいても、海はすこしも変わらなかった。揺れる水面に星明りがちりばめられている。幻想的な景色に目を細め、マトリは苦悩をため息に変えた。 「できもしないのに、考えちゃうのはどうしてかなぁ」  海に入って姿をくらますなんて勇気はない。けれどそれができたらと思うくらいには、苦しみ思い悩んでいる。 「アユイ」  彼の気持ちがすこしもわからない。だれともツガイになる気はないと示しているような態度が、マトリに希望を持たせている。 「アユイは、だれとツガイになる気でいるの?」  どんな相手をツガイに求めているのだろう。教えてほしい。それがわかれば、近づけるよう努力する。マトリはアユイ以外とツガイになる気はなかった。たとえそれが、幼いころから親しくしていた、身体能力に優れ、信望の高いカブフリだったとしても。 「どうして僕の気持ちを、だれも気にしてくれないんだよ」  膝を抱えて、マトリは文句をつぶやいた。だれかひとりでも、カブフリの求愛を拒み続けているマトリは、別に想う人がいるのだと考えてくれてもいいのに。  他意のない期待が重たくて息苦しい。寄せられるカブフリの好意が迷惑としか感じられない。そんな自分がなさけなく、ふがいない。  いっそ自分がいなくなってしまえばと考えるほどに、マトリは真綿で首を絞められているように、じわりじわりと追い詰められていた。 「苦しいよ、アユイ」  助けて、という声は潮騒にさらわれて海の底へ消えていった。

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