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第1話

 ――なんだよ、これ。  此花光(このはなひかる)は、ショーウィンドウの前で足を止めた。黒縁眼鏡と紙マスクで隠した顔を、ぴたりとガラスに近付ける。  その中にある商品を覗き込んで、呆然とした。  キラキラ光るガラスの向こう側には四角い箱型の照明器具が展示されている。  春の新作を(うた)ったシリーズ商品。数種類のバリエーションが展開され、それぞれに明かりを(とも)している。  その一つ一つを目で追ううちに、身体から血の気が引いてゆく。指の先が小刻みに震え、喉がからからに乾いた。  ――なんなんだよ、これは。  正月明けの郊外型ショッピングモールは、真新しい空気に包まれていた。  週末で、通路を歩く人の数は祭りの夜のように多い。  吹き抜けの天井から日差しが降り注ぐ。華やいだ空間を、家族連れやカップルが笑みを交わしながら歩いてゆく。  立ち止まる光を迷惑そうによけ、人の波が流れてゆく。  やがて、大柄な中年女性に肘で押され、光はショーウィンドウ脇の狭い窪みに押し込まれた。  若い女性グループや身綺麗な装いの主婦たちが目の前を通り過ぎる。色とりどりの商品を指さしながらショップの中に吸い込まれてゆく。  頭上にはロゴをあしらった銀色の文字。  LA VIE EN ROSE(ラ・ヴィ・アン・ローズ)――薔薇色の人生……。 「殺す……」  まがまがしい空気とともにドアフォンを押すと、七原清正(ななはらきよまさ)が顔を出した。 「どうした、光。何があった」  驚く清正を押しのけて玄関を入る。  都心からのアクセスがよく、その分やや古い造りの七階建て賃貸マンション。その四階にある1LDKは今日も少し散らかっていた。  清正は仕事も家事も、人並み以上にそつなくこなす。なのに、掃除だけはなぜか少し苦手だった。  片付けたい衝動が、光の中でむずむずと育ってゆくが、今はそれどころではない。  もう一度呪詛の言葉を吐きかけた時、廊下の先のリビングから子犬のような塊が走ってきた。塊は勢いよく光にぶつかり、そのまましがみついてきた。 「ひかゆちゃん!」 「み、(みぎわ)……?」  満面の笑みで小さな両手を伸ばしてくる。光は魅惑の三歳児を抱き上げた。  やわらかい頬がマスクを通して鼻先に触れ、柔軟剤とベビーローションの匂いがふわりと漂う。愛しさが胸を満たし、一時的に怒りがどこかに遠ざかっていった。 「またしばらく、マスクと眼鏡生活なのか」  大変だな、と 清正の手が伸びてきて、光の顔からマスクと眼鏡の両方を外した。  人形のようだと評される顔があらわになり、汀の小さな手がぺたぺたと触る。何が楽しいのか、きゃっきゃっと鈴を転がすような笑い声を上げた。 「とりあえず入れ」  清正の言葉に汀の顔がパッと輝く。 「ひかゆちゃん、あしょぶ?」  汀は清正の一人息子だ。  清正は光の十数年来の親友で、大手一流メーカーに勤務するエリートサラリーマン。長身でイケメン、現在独身、絶賛モテモテ中のバツイチシングルファーザーである。  清正は、昔からバカみたいに女性にモテた。  つきあった相手の数は両手両足の指の数を合わせても足りないだろう。正確な人数を本人も把握していないのではないかと思う。  その清正が結婚したのはおよそ四年前。  あまりに短期間に相手が変わるので、逆に結婚はしないだろうと思っていたのに、まだ大学を卒業したばかりの年の十二月に、突然籍を入れたと連絡があった。  汀が生まれたのはそのすぐ後で、それから一年経つ頃には清正は独身に戻っていた。  せっかく入った大手電機メーカーの研究開発職を棒に振り、三年間という期限付きながら、同じ企業内の残業のない部署に異動を願い出て、男手ひとつで汀を育てている。実家の助けもほとんど借りず、細やかに手間をかけ溺愛と言っていいレベルで大切にしていた。傍で見ていて感動するほどだ。  その甲斐あって汀はすくすくと元気に成長している。今は一番可愛い盛りだ。天使そのものと言っても過言ではない。  心地よい重みを味わっていると、光の明るい茶色の瞳を清正の黒い瞳が覗き込んできた。

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