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第2話

 長くなった光の髪を節の目立つ長い指で軽く梳く。  心臓がコトリと小さく鳴った。清正の手に触れられると時々身体がかすかな熱を持つ。  それに気付かないふりをして、光はそっと視線を逸らせた。  もぞもぞ動き始めた汀を下して靴を脱いでいると、頭の上から清正が聞いた。 「それで、何があった? 久々じゃないか、光の『殺す』……」 「今日、汀、いないって言ったのに……」  口にしてから、今言うべき言葉は違うなと思って言い直した。 「ごめん……。汀に聞かせていい言葉じゃなかったよな」  汀の大きな目が光の顔を見上げている。 「真似すんなよ」  視線を合わせて言うと、キラキラした目のままこくりと頷いた。  素直だなと小さな感動が胸を満たす。汀は可愛くて、とてもいい子だ。さっきのような悪い言葉は絶対使って欲しくない。  けれど、その悪い言葉が出てしまうくらい、光は傷ついていた。  唇を噛んで、ほんの三十分ほど前の出来事を脳裏に思い浮かべる。  『ラ・ヴィ・アン・ローズ』は、最近の郊外型ショッピングモールに必ずと言っていいほど店舗を構えている人気のインテリア雑貨専門店だ。ふらつく足でショップ内に向かった光は、一番目立つ場所で大きく展開されている『キューブ』という名の照明器具を間近に見た。   ショーウィンドウに飾られていた春の主力商品。   間違えようがなかった。  その形は、半年前に光がスケッチブックに描きとめたものだ。まだパソコンにも取り込んでいないアナログ状態。けれどデザインは細部まで考えてあった。春から初夏にかけて展開される商品をイメージしていた。試作品が汀の誕生日に間に合えばいいなと、そんなことも考えながら、自分の中の大事なものを形にして描き出していたものだった。  光は、本名の此花光を片仮名のコノハナヒカルと表記した名で活動する、プロの工業デザイナーだ。雑貨や小ぶりの家具などを中心にプロダクト・デザイン手掛けている。  デザインは全て、最終的にユーザーに届けることを目的としている。箱型の照明器具も商品化を視野に入れて、材質や細部の形を考えてあった。それらも含めてスケッチに落とし込み、形状的なアイディアの詳細や、バリエーションのいくつかもそれぞれのページに描いてあった。メインになる仕事を手描きで仕上げるのは、光のスタイルだ。  試作品がそろそろできあがる頃だ。明日にでも、依頼した工房を訪ねようかと思っていた。  それがすでに形になって販売されていた。  しかも……。  人通りの多いショッピングモールの通路で、その細部を一つ一つ確かめるように見ているうちに、光の口元はマスクの下でぐにゃりと歪んだ。  重いガラスで作られた、シャープなエッジを持つライト。見た目は確かに美しい。透明ガラスと磨りガラスが市松模様やストライプを描き、やわらかい光と明るいきらめきが角度によって変化を見せながら周囲を照らす。  光がデザインした形状バランスや模様の組み合わせが、そっくりそのまま使われていた。  けれど……。  ーーなんだよ、これ……。  見ているうちに吐きそうになった。  あまりの怒りとショックで身体が凍り付いてゆく。震える手でマスクの上から口元を押さえ、こみあげてきた嘔吐感をぐっとのみ込んだ。  それからふいに泣きたくなって、慌ててその場を離れた。  ――なんだよ、あれは。  どうしてあんなものを作るんだ。  心が切り裂かれる思いで、涙を堪えて国産の小型車に乗り込んだ。立体駐車場を出ると、アクセルを踏み込んでスピードを上げ、気が付いた時には清正のマンション近くにあるいつものコインパーキングにクルマを入れていた。 「ひかゆちゃん?」  汀の声にはっと我に返る。  居間に通されたままぼうっと立っているだけの光に、清正が言った。 「ちょっと、待ってろ。汀を送ってくるから」 「あ……、うん」  よく見ると、家の中にいるのに二人はコートを着ていた。汀が名残惜しそうに光を見る。 「ひかゆちゃん、じゅっといゆ?」 「えーと……?」  どこに行き、いつ戻るのかわからないので、約束するのは難しい。光は清正を見上げた。 「光ならまた来るよ。今日はママとゆっくりしておいで」  コートでもこもこになった小さな身体を、清正が抱き上げる。 (ああ、そうか……)  光は視線を落とした。今日は第二土曜日で、汀と彼の母親との月に一度の面会日なのだ。それで、「今日汀はいない」と清正は言っていたのだ。 「ごめん、清正。俺、今日はもう帰るよ……」 「なんで。せっかく来たんだろ。少しの間だから待ってろよ。駅まで送ってくるだけだから」  十分もかからないと言われて、曖昧に頷く。  もみじのような小さな手を振って、汀が「まちゃね」と言った。光も手を振り返した。 「バイバイ、汀。またな」  パタンと音を立ててドアが閉まる。

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