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第3話
一人になってしまうと、泣きたくなるような出来事を心から遠ざけた。
今はまだ考えるのが辛い。
手持ち無沙汰で、なんとなくいつもの癖で部屋を片付け始める。留守中に光が家の中のものを動かしても清正は気にしない。もう何年も繰り返してきたことで、すっかり慣れてしまったのだ。今では半分当てにしている節さえあった。
モノ自体はそんなに多くない。それぞれの定位置にそれらを戻すだけで、室内はすぐに片付いた。
取り込んだまま積み上げてある洗濯物を畳み、何とはなしにこれまでのことをぼんやり考えた。
いつ頃からこんなふうに清正の持ちものを片付けるようになったのだろう。
何をやらせてもソツなくこなすくせに、清正は掃除だけは少し苦手だ。逆に、ほとんどのことが器用にできない光の唯一得意なことが掃除や片付けだった。
掃除が得意というよりも、あるべき位置にあるべきものがあるという状態が好きなのだ。姉に言わせれば、変わり者である光の数ある「へんなところ」の一つなのだそうだけれど。
生活の場がきちんと整っていること、いつも使うものが正しい場所に綺麗に収まっていること。そういうことにこだわる。
それぞれの雑貨や道具が、機能的で理にかなった形をしていることも重要だ。光はそう考えていた。
建築家の父とインテリアコーディネーターの母の影響もあるかもしれない。けれど、同じ親から生まれ、同じように育てられても、姉にはそんなところがない。散らかっていても全然平気で、子どもの頃はそれが理由になって、よく姉弟喧嘩をした。
モノの置き場所に頓着しない姉の行動は、光には理解し難かった。だが、姉の考えでは光のこだわりのほうが異常らしい。少し散らかっているくらいのほうが、普通は落ち着くものだと主張していた。
身のまわりにあるものは使いやすく綺麗なほうがいい。それは比較的シンプルな価値観だと思うのだが、それ以外のことへの関心が極端に薄いせいで、光という人間の特徴として、主に短所としてよく人から指摘を受けた。
人からどう思われるか。それも光は気にしない。自分の好きなものを好きだと言い、やりたいと思うことを優先して生きてきた。
サッカーもゲームも、興味がないという理由でやらなかった。
顔だけは人形のように綺麗だけれど行動は謎だらけ。ごく小さい頃から、そんなふうに言われ続けた。
どこがどう謎なのか、光にはさっぱりわからなかったし、わからなくても気にならなかった。わかろうと思わなかった。
わかったところで直そうともしなかっただろう。
直す気がないのだから、大人になっても光の性格はほぼ昔のままだ。自分の好きなものを好きだと言い、やりたいと思うことをやる。モノづくりに関しては、使う人間の快適さや安全を一番に考えたが、それも光自身がそうしたいと願っているからに過ぎなかった。
プロダクト・デザイナーという仕事に出会えたことは、おそらく人生で一、二を争う幸運だった。おそらくほかのどんな仕事も光には務まらなかったと思うからだ。
一通り片付けが済むと、化学モップで棚の埃を掃った。
シェルフの上のデジタルフォトフレームが、画像の表示をゆっくりと変えてゆく。懐かしい写真が何枚も浮かび上がった。
汀のものだけ飾ればいいのに、上沢 にある清正の実家で撮った古い写真がスライドリストに加えられている。
十年前、あるいはもう少し古い写真かもしれない。
四角い画面の中に、今とあまり変わらない姿をした光と、今より少し少年らしい面影を残した清正の顔が並んで映し出される。
庭の薔薇が背景を埋めている。
光が清正に初めて会ったのは、中学二年の夏休みだ。
東京郊外のベッドタウン、T市の上沢という場所で光は育った。都心から急行で三十分。距離のわりに、開発の余地を残した空の広い土地だった。
大きな工場の跡地があり、そこに大規模な分譲住宅が建ち始めた頃だった。光の両親が手掛けた建物も多く建てられ、区画の整った街並みの美しさにも魅かれて、光はよく自転車に乗って新しい街を見に出かけていた。
若い街路樹の下を、まだらに差す日差し浴びながら走っていた。
きょろきょろとよそ見をしていた光は、引っ越し業者の置いた段ボールにぶつかって、自転車ごと勢いよく転んだ。
それを助け起こしたのが清正だ。その日、清正は新しい家の一つに引っ越してきたところだった。
差し出された手の先を見た時、ずいぶん綺麗な顔立ちの少年だと思った。派手過ぎず地味過ぎないパーツがすっきりとした輪郭の中に正しく配置されている。右の唇の端だけがほんの少し上がっていて、それが整い過ぎた顔に有機的な美しさを与えていた。
少年から大人になりかけの不安定さの中に、魅力的な青年の顔がすでに現れ始めていた。
まだ子どもだったのに、そして、相手は同性だとはっきり認識していたのに、光の心臓はドキドキと鼓動を速めた。その一方で、この少年は、きっととんでもなくいい男になるのだろうなと、不思議と冷静な考えが頭に浮かんでいた。
驚いたように光を見ていた深く黒い瞳を今も覚えている。
当時から背が高かったので、最初は年上だと思っていた。けれど、夏休みが明けると彼は光のクラスに転校してきた。
七原清正という名前を知ったのは、その時だ。
光と目が合うと、清正はひどく嬉しそうに笑った。その瞬間から、清正は光にとってかけがえのない存在になっていったのである。
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