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第63話

 五月連休までの一ヶ月半は、嵐の中にいるようだった。  薔薇企画の新ブランドを任された光は、オープン時の商品企画とスリーシーズン先までの企画を同時進行で進めていた。ほぼ一年分の仕事を二カ月弱の期間に詰め込まれたのである。  堂上の予言通り。さすがに死ぬ気の覚悟で、馬車馬のように働いた。  相変わらず抜け目がないその男は、光の容姿も宣伝材料として躊躇なく売り込んでいった。  殺人的なスケジュールの合間にさまざまな取材が組み込まれ、嫌も応も告げる間もなく仕事として露出させられる。  おかげで鬱陶しいマスクと伊達眼鏡の日々が続いていたが、それでも仕事は楽しかった。とても、楽しかった。  高級路線のブランドだけあって、使える材料の価格の幅が広がった。『コノハナヒカル』というデザイナーを前面に出して売り込むすコンセプトも、初めのうちこそ抵抗があったが、新しい企画や実験的なデザインを試せる面白さを知ると、案外悪くないと思うようになった。  『ラ・ヴィ・アン・ローズ』では減点の少ないプロの仕事が求められたが、新ブランドでは、ほかとの差別化となる加点が求められた。  雑貨であっても、美術品のような個性や普遍性、深遠な美を付加することを要求され、それが許された。  建築や工業デザインは実用性と美しさを求められる美術品だ。使いやすく手入れがしやすいことが大前提としてある。それがデザインをする上での一つのだいご味でもあった。生活の中にあることで、暮らしそのものが美しいものになる。人を幸福にする魔法の道具。  自分の名前がブランドの冠になっても、光の姿勢は変わらなかった。美しく安全で使いやすいもの。暮らしの中で人に寄り添うものを提供したいと願い続ける。  松井のしたことは今も許していないし、死んでも許さないだろう。ものを作る人間の業のようなもので、その毒は、今の光にはどうすることもできない。  業を抱え、毒を抱え、自分自身を削ってものを作り続ける。心の奥の一番傷つきやすい部分にあるものを捧げて、作り続ける。  光にはそれしかできないし、それで十分だと思った。  堂上は新ブランドの店舗名を『Blue Rose』と名付けた。今まで世界になかったものを売りたい。堂上の矜持と意気込みがそこにはあった。  『ラ・ヴィ・アン・ローズ』の仕事も、井出に泣きつかれて続けることになった。こちらにはこちらの楽しさがあり、光にとっても続けられることは嬉しいことだった。どれほど忙しくても、ものを作ることが苦になることはない。  一方、清正と朱里がよりを戻したという誤解の原因は、汀の保護とともに解き明かされていた。  保育所の職員が光を汀の「母親」だと思い込んだことが原因だった。  汀の送り迎えを光がするようになった時、清正は保育所の連絡ノートに光の名前と携帯番号を書いた。その際に家族の欄を使用したために、職員たちはすっかり勘違いしてしまったのだ。  保育所の先生に「よかったね」と言われた汀は、意味を理解しないまま、光や聡子に伝えた。よく聞いてみれば、聡子も汀の言葉をそのまま信じただけだったのである。 『光くんなら、そんなこともありそうねぇ』  職員の勘違いを知った聡子は、呑気に笑って流していた。  汀は三月いっぱいで、その保育所を退所する。とてもよくしてもらい、長く世話になった保育所なので、職員との別れは少し辛い。  けれど、清正と汀と光でよく話し合った結果、四月からは体験保育に行った近くの幼稚園に通うことにしたのだった。  送り迎えは光が引き受ける。どんなに仕事が忙しくても自分の時間を自由に管理できるのがフリーのいいところだ。  堂上の過密スケジュールの合間を縫うようにして、マンションを解約し、全ての荷物を光は上沢の家に運んだ。  薔薇の庭のある懐かしいその家は、その日から清正と汀と光の家になった。  そして、五月――。  『ブルーローズ』がオープンし、光が大賞を取ったシリーズ作品「Under the Rose」が発売された。  それは瞬く間に売り切れてしまい、さすがの堂上をも驚嘆させた。 「すごい人気だね。あちこちでニュースになってるよ」  薔薇企画の本社に出向くと、いつにも増して機嫌のいい堂上に出迎えられる。  話題になった理由の一つは、堂上が付けた値段にもある。思わず笑ってしまうほどの価格なのだ。桁を一つ間違えたのではないかと疑いたくなる。 『高すぎない?』  会議の席で光も意見を言ったのだが、堂上はただ見ていろと笑うばかりだった。今もほくほく顔で笑っている。 「全然高くなかっただろう。あれにはそれだけの価値があるんだよ。人に欲しいと思わせれば、どんなに高くても買わせることができる。いい証明になったね」  これからもどんどん高額商品を売り出して、たくさん利益を上げようと堂上は張り切っている。  結局、清正をけしかけ、光の中の秘密の鍵を開けさせて、一番得をしたのは堂上だったのではないだろうか。どこまでも抜け目のない男だ。 「光、ここにいたのか」  ようやく一息吐いた連休の三日目、庭に出てスケッチをしていると、テラスドアから清正が顔を出した。聡子が上京していて、少し前に汀と動物園に出かけていったところだ。 「暑いから、昼飯、素麺でいいか」 「うん」   庭は楽園の季節を迎えていた。  青いベンチの隣に清正が腰を下ろす。花は歓喜に満ちて勢いよく咲き誇っている。それをいくつか写し取ったスケッチを、清正は眩しそうに見下ろした。 「光は、いつもここで絵を描いてたな」 「そうかも」 「あの日も、そうだった。スケッチブックを抱えて、うたた寝してた」  うん、と微笑んだ光を清正が抱き寄せる。 「薔薇の下には秘密があるのか?」 「うん。大事なものは秘密にしておくんだ。誰にも壊されないように」 「なるほど」  清正が光の手からスケッチブック取り、脇に置く。 「だったらこれも秘密だな」  そう言って、零れるアンジェラの下で光にキスをした。                                     了

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