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act.1誘惑クローバー<1>
"葵 ちゃんなら、がんばれるよね"
優しい口調ながらも有無を言わさぬ雰囲気に葵は思わず頷いてしまった。それを見届けて柔らかい笑顔を浮かべたあと、その人は空港のゲートをくぐっていった。
「うん、がんばれる」
葵はほんの数週間前のそんな出来事を思い出しながら答えるように呟いた。そしてクリーニング仕立ての綺麗な制服に身を包む。パリッとした感触に素肌が触れると、なんだか気持ちまで新鮮に生まれ変わる感覚がする。
身支度の仕上げとして、身長よりも少しだけ低い姿見の前に葵は立った。
白のペンキが丁寧に塗られた木枠にはめられた鏡に映ったのはグレーのブレザー。二年からブルーになったネクタイ。それが少し曲がっているのに気付いて直そうと、ようやく鏡の中の自分の顔と真正面から向き合った。
出生について語れるほど、自分のことを知らない。どうして人と違う髪の色、目の色をしているのか。幼い頃から嫌で嫌でたまらなかった蜂蜜色。こうして鏡で見るのさえ苦痛に思えてしまう。それはいくつになっても変わらない。
でもいつか好きになりたい、とも葵は思う。気持ち悪いと言う人にも好きになってほしい。
だから笑顔でがんばる。それが支えてくれる人たちとの約束。
「葵、もう行くのか?」
鏡に向かって少し物思いにふけってしまった葵に不意に開いたドアから顔を出して声をかけたのは、ずっと共に過ごしている幼馴染。
「大変だな、書記さんは」
「ううん、そんなにお仕事ないんだ。準備と後片付けぐらいで」
生徒会の役員までやる真面目っぷりを茶化すように言われたのにも気付かず葵がそう答えると、だったら行かなきゃいいのに、なんて安易な言葉が返って来た。
「大体、みんな持ち上がりなんだから入学式なんてやる意味あるのか?」
「去年もそう言ってたよね、京ちゃん」
馬鹿にするような口調にも気にすることなく、葵は一年前の出来事を思い出してくすくすと笑いながら傍に放ってあった鞄を手に取った。
「じゃあ、行ってきます。お昼は一緒に食べようね」
「あぁ、気ぃ付けてな。……送ってくか?」
ぽんぽんと軽く葵の頭を叩きながら、さっきまでの口ぶりとはうってかわって少し名残惜しそうに付け足された幼馴染の言葉に、葵は数度首を振って遠慮した。
「すぐそこだから」
葵の言うとおり、ここは学園寮の一室で、入学式は同じ敷地内の講堂で行われる。それでもまだ心配そうな視線を受けながら、葵は一度は玄関の扉を開けた。
だが、あ、と小さく声を漏らしてさっきまで居た寝室に引き返すと、ベッドの上で布団にくるまっている塊に声をかけた。
「みゃーちゃん、行ってくるね」
だが相当に熟睡中なのか全く反応が返ってこない。そんなことはもちろん葵も承知の上だったが、やはり挨拶をせずに別れるのは寂しい気がしたのだ。
そうして一応形だけの挨拶を済ますと、葵は今度こそ寮を飛び出した。
昨年は辛いことばかりでなく楽しいこともたくさん葵にはあった。毎年毎年幸せが増えている気もする。
だから葵は新しい季節が不安でもあったけれど、楽しみだった。
「がんばろう」
今度は誰に向けてでもなく、ただ講堂への道すがら、ふと足を止めて見上げた青空に葵は誓った。
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