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第1―2話

桜の花びらが一斉に舞い上がり、雨のように降る。 風が収まった時、俺達の周りは桜の花びらだらけだった。 俺達自身も。 千秋は「すげー!」と言って花びらを髪の毛から払おうとするが、俺は千秋の白く細い手首をパッと掴んでそれを止めた。 「なに?」 なに? 愚問だろ、千秋。 太陽は一日を終え夕日となり、ここより少し先の川向う沈んで行く瞬間で。 夕日を受けて艶やかに光る千秋の漆黒の髪に乗る桜の花びらは、桜色の小さな花びらなのかダイヤモンドの欠片なのか、俺には分からない。 でも、桜の花びらであって欲しい、と思う。 そっと千秋の髪から花びらを一枚摘んだ。 千秋は何があるのかと、髪色と同じ漆黒のタレ目気味の大きな瞳を好奇心に満たせて、上目遣いで俺を見ている。 俺は指先の花びらをふっと吹いた。 その時、千秋の下唇に桜の花びらが一枚付いていることに気が付いた。 俺は千秋の顔に手を伸ばすと、さっとその桜の花びらを指先で取った。 千秋が笑う。 「なあ優。 まさか一枚一枚そうやって花びら取ってくれんの?」 俺も笑う。 花びらを慎重にシャツの胸ポケットに入れながら。 「ばーか。そんな面倒なことするか! それより桜まみれで写メでも撮ろうぜ」 「おー!」 それから俺達は二人一緒に自撮りしまくった。 それに動画も。 動画の最後はお互いの花びらを払い合う姿だ。 そして夕日は川に溶け、夜になった。 ラッキーなことに、その頃にはもう完全に風は収まっていた。 俺達は羽鳥の作った弁当を二人で平らげ、ビールを飲み、夜桜を堪能した。 俺達はくだらないことを言い合っては、ずっと笑っていた。 ただ、いつもなら必ず話題に上る漫画の話はしなかった。 千秋は言葉にはしなかったが、漫画の話を避けているのが俺には直ぐに分かったから。 俺も千秋に今は漫画のことを忘れて楽しんで欲しかったから。 羽鳥がここに居ない理由は『漫画』のせいなのだから。 そして二人きりの宴会は、千秋が酔って眠くなる前に俺が強制終了した。 千秋はぐずったが、これも眠くなる前の合図とばかりに俺はさっさと宴会の後始末をし、大通りに出ると千秋をタクシーに押し込んだ。 俺はフラつき始めた千秋を支えて、千秋のマンションの部屋まで送った。 羽鳥はまだ来ていなかった。 そして千秋は玄関で座ってスニーカーを脱いでいる時に、カクンと頭を下げて固まってしまった。 俺はひとつため息を吐いて、千秋を何とか起こし、肩を貸して寝室に向かった。 千秋はベッドに寝かせると、そのまますうすうと寝息を立てて眠ってしまった。 まるで子供が遊びまくって眠ってしまったような、あどけない寝顔だった。 俺の心臓がぎゅっと掴まれたように痛くなる。 けれど俺は、ただ、千秋に掛け布団をきっちりと掛けてやり、寝室の照明を消し、「おやすみ、千秋」と言うと寝室を後にした。 それからタクシーで帰宅した俺は、自室に戻ると一直線にデッサン用のデスクに向かった。 俺も撮影の時以外スマホの電源を切っていたので、電源を入れると、これでもかと言うくらいの羽鳥からの不在着信が残っていた。 俺はそれを無視して3件入っていた仕事のメールとLINEを確認した。 特に急ぎの用件は無かったので『夜分遅くにすみません。急用で出かけていました。明日ご連絡させて頂きます。』と全てに返信を済ませると、スマホをデスクの脇に置いた。 そしてバッグからスケッチブックを取り出した。 中身の千秋は桜を撮る為に動き回っていたから、絵はラフ画のようなものばかりだ。 けれど、ただ一度、千秋が俺を真っ直ぐ見た時があった。 ニコニコ笑って、中学生の頃から変わらない笑顔。 千秋はまた直ぐに写真撮影に戻ったけれど、俺も直ぐに鉛筆を走らせた。 千秋は写真撮影に長時間夢中だったから、スケッチは千秋を待っている間に仕上がった。 桜に囲まれて俺だけに向けられた笑顔は、鉛筆画でも、写メより動画より、『千秋そのもの』だ。 俺はその千秋のページを開き、用紙の右下に今日の日付けを書き足すと、シャツの胸ポケットから千秋の唇に付いていた桜の花びらを取り出した。 それをそっと鉛筆画の千秋の唇に乗せた。 鉛筆画の唇と桜の花びらの大きさはぴったりと合ってはいないが、そんな事はどうでもいい。 俺は花びらが飛ばないように、静かに、殊更静かにスケッチブックを閉じた。 そして表紙に細マジックで、今日の西暦と『花見』とだけ書いた。 このスケッチブックを次に開く日はいつになるのだろうか? 桜の花びらは押し花になるのだろうか? 幸いスケッチブックに乗せる本は沢山ある。 次にこのスケッチブックを開いた時、押し花になった花びらはきっと色褪せているだろう。 花びらと判らない程、萎びているかもしれない。 それでも俺は満足するだろう。 その桜の花びらが千秋の唇に触れたことは真実なのだから。 二人きりの花見。 『千秋そのもの』を描けたこと。 世界で一枚だけの特別な桜の花びら。 俺はベッドに転がると瞳を閉じた。 閉じた瞳から涙がハラハラと零れる。 なぜ、自分が泣いているのか分からない。 けれど次の瞬間、幸せだからと気が付いた。 叶わない恋をしていても、幸福は突然やってくる。 それを不幸と思う人もいるだろう。 でも俺は不幸だとは思わない。 そう。 それが例え、永遠に片想いをしている人と、桜の花びらまみれになって笑いあった儚く美しい時間でも。 そしてまた、叶わない恋に落ちてしまったとしても。 傷ついても。 傷ついても。 千秋の側にいられることに比べれば、何でもない。 俺はきっと、来年の桜の咲く頃、またあの場所に行くだろう。 きっと一人で。 新しいスケッチブックを持って。 桜を正確に写生し、色を塗り、桜が散った頃千秋に見せる為に。 千秋はあの黒い大きな丸い瞳を見開いて、次の瞬間笑顔になるだろう。 そして俺達はいつものように笑い合う。 桜が毎年咲くように。 桜が毎年散るように。 いつものように笑い合うんだ。 ~fin~

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