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Bitte töte mich.

「おとうさん、」 「すまない……すまない、イヴァン」  父は泣きながら、幼い僕に何度も謝った。  聖歌隊に入ると決めたのは、齢にして八歳、秋の事だった。 「いいよ、ぼくお歌すきだもの」  ミルクの風呂に入れられて、父と拙いわらべ歌を歌い、夜を過ごした。  それが父との、最後の記憶。  目が覚めると父はいなくて──(おぞ)ましい去勢手術が施された後だった。  変声期を迎える前に、睾丸を除去されたカストラートは、生涯美しいソプラノを武器に、聖歌隊で活躍の場を得る。  術後の激痛に吐くほど泣いて、叫びながら起きては暴れ出し、熱を出して痙攣を起こしては、看護師と思しき男性に、麻酔を打たれて寝床に縛り付けられた。  気力も涙も希望も、何もかもが枯れ果てた頃、司祭様が訪れて、優しく僕を迎えた。 「よく頑張ったね、イヴァン。 これも(ひとえ)に神の御加護のおかげだ。 今日から君は──我が聖歌隊の一員だよ」  そうして、僕は天使の歌声を得た。  代わりに、たくさんのものを(うしな)った。  二度と、父と会うことは叶わないと知った。  聖歌隊の稽古は厳しく、気絶するまで鞭で打たれて折檻されることも常だった。  十三歳の時、貴族の女たちに(もてあそ)ばれて、たくさんのお金の代わりに童貞も失った。  夜明けにふらつきながら宿舎へ帰った僕を待っていたのは、聖歌隊を率いる指揮者の先生だった。先生は、僕のポケットから札束を抜き去り、折檻部屋へと僕を蹴り上げながら歩いた。 「それで、お嬢様方には上手にご奉仕できたのか?」  朦朧とする意識の中で、訊かれた意味がわからず黙り込む。すかさず頬を張られた。背中に血が滲むまで、鞭で打たれても、もう涙は出ない。  でも何より辛かったのは、十五歳になった時。 「イヴァン、おいで。」 ──司祭様が、僕を、女にした。  指揮者の先生からの折檻も、それを契機にピタリと止んだ。その代わり、司祭様は毎晩のように僕を抱いた。折檻の痛みとは全く別の、後孔をこじ開けられる恐ろしい感覚に、首を振りたくって泣き喚く。 「──良い子にしなさい、イヴァン」 「嫌、あ、ああぁ……ッ!」  食べ慣れぬ砂糖菓子のように、歯が痛むほど甘く、吐き気がするほど濃い時間だった。司祭様は僕に、特別の証として、髪を伸ばすように言いつけた。  細く癖のない、女のようなブロンドが、胸の下まで届く頃。僕は十六になった。  泥のように夜は過ぎて、安息もなく朝が来る。酷く重苦しいのろのろとした時間ばかりが、手足を縛るようにまとわりついている──そんな感覚を覚えた。 「静かに、寝所へお帰り。 ──誰にも言ってはいけないよ」  そうやって呼ばれ、言われ続けるうちに、突然、声が、出なくなってしまった。  周りには風邪と伝え、寝込んだ翌朝。『天使の歌声』は、永遠に失われた。そう、直感した。  声が出ないと、司祭様に知れたら……絶望感が思考を支配する。  僕は、もうただのヒト以下になってしまった。男にもなれない、無論──女にも。  歌うという仕事も出来ない今、必要とされるにはもう身体を売るほかはない。きっと、娼館に入れられるか、貴族の女たちに回されて、(なぶ)られて、そして死ぬまで──。  長く伸びた髪を、剃刀で切り落とした。  気がつくと、宿舎を抜け出して森を歩いていた。  何かに突き動かされるように、両足が石で傷ついても、頬や腕を枝が引き裂いても、森の奥へと歩みを進める。目的地など、どこにもなかった。  着の身着のまま逃げて、逃げて。  深く深く、森の中に紛れてしまいたかった。  消えて、しまいたかった。  一晩、歩き通して。  小川の音に導かれるように、ひらけた場所へ出た途端、むせ返るような獣の臭いと、低く大きな唸り声。  行く手に立ちはだかったのは、  大きな熊だった。  状況を理解する前に、疲れた体はコントロールを失い、カクンと力が抜けて膝立ちになる。  急に動いた僕に、警戒を強めた熊が、立ちあがった。 ──ああ、僕、死ぬんだ。  ふと、過ぎった予感。恐怖と安堵が()い交ぜになって、思考を白く塗りつぶす。  次の瞬間。  ダァン! と大きな音がして、熊が大きく咆哮を上げた。逆光の中、倒れた熊の向こう側に、銃を構える人の姿が浮かぶ。驚いたように、息を呑む音がする。 「──誰か、そこにいるのか⁉︎」  僕を見て、銃を構えたまま、彼は叫んだ。  動揺で硬く引き()っているが、低く、落ち着いた男の声。  クマの亡骸を前に、いよいよ緊張の糸が切れ、(うずくま)るように崩折れた。ガチャリと、銃口がこちらを向く、冷たい気配がする。 『お願い、(Bitte )僕を、(töte )殺して(mich)……』  声もなく、何度も何度も、呟いた。  あの熊のように、一思いに殺して欲しい。  消えてしまえるなら、その銃で一息に。  涙が一筋、頬を伝って、意識が遠のく。 ──せめて、一つ、わがままを言うなら、  誰かを愛し、愛されてみたかった。  心から笑いあって、キスをしてみたかった。  そんなふつうのしあわせが、  来世にはありますように。

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