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Gottes Name
"かみさま"なんて、いやしない。
神を讃える歌を、荘厳に奏でながら、皮肉なことに、聖歌隊の子供たちはみんな、誰一人として神を信じてはいなかった。
神様なんて、いやしない。
いるのはただ、神の皮を被ったヒト。
神より神らしくも、悪魔より悪魔らしくも、自由自在に姿を変えて、彼らは僕らを支配する。
指揮者の先生も、司祭様も、大人たちは皆。
祈りを捧げることも、いつしかやめた。
願いも懺悔も、全部自分の胸の内に、鍵をかけて閉じ込めた。
◆
これ以上ないくらい、穏やかな目覚めだった。
起床を急かす怒鳴り声に追い立てられることも、体を這う舌の消えない感覚に怯えることも、明け方の寒さに身を縮めることもない。夢のような鳥の囀 りと共に、僕は静かに目を開けた。
温かな布団と、日向の匂い。
ぼうっとした頭で、徐 に享受する『幸せ』らしきもの。生まれて初めて、神様から甘やかされているような気がした。でも受け取り方が分からなくて、ただ所在無く視線を彷徨わせる。
「──起きたのか?」
低く、予期しない声が響いて、思わず体が竦む。
声の方を見やると、ベッドサイドに置かれた椅子に、男が腰掛けていた。
「すまない、驚かせた」
目が合うと、グリーンの双眸が困ったように、曖昧に笑んだ。声音から、熊を撃ったあの時の人だと察するが、警戒は解けず、そろそろと体を起こす。
「……参ったな、子供には好かれる方だと思っていたんだけど」
子供、と言う単語は、おおよそ僕には似合わないように思えた。
背丈は百八十センチメートルを超えていて、成人男性と比べても高い方だと思う。筋肉がつかずひょろ長いばかりで頼りないものの、この身長で子供と呼ばれたことはなく、思わず目を瞬いて男を見上げる。
彼は悪戯な笑顔を浮かべて、人懐っこく首を傾げた。
「子供扱いはされたくないと見える」
表情に出ていたのかと恥ずかしくなり、僕は目を伏せる。はは、と声に出して男が笑い、握手を求めるように手を差し出された。
「ヨハネスだ。ここに住んで三年になる。猟師で、農家で、林学家で──おおよそこの森のことなら何でもする。君は?」
ヨハネス──神様の名前。
僕は、眩しいものを見た時のように、目を細めた。口の中で反芻 する。ヨハネス。ヨハネス……。
そうしてはたと、自分の声が出ないことを思い出した。少し戸惑ってヨハネスを見上げる。おずおずと、自分の手を胸に当てた後、一文字ずつシーツに指で書く。
「I -W -A -N ──イヴァン、」
ヨハネスはゆっくり、読み上げる。
東欧出身の母が、付けてくれた名だった。
「何だ、俺たち同じ神の名前じゃないか。」
破顔した彼に、思わず目を見張る。
『同じ』だって、『神の名』だって、そんなことは今まで一度も言われたことがなかった。異なるもの、人ならざるもの。そう呼ばれ続けた僕には、信じられないくらい眩しい言葉だった。
それからヨハネスは、僕の声が出ない事を知り、読唇と筆談での会話を提案してくれた。
聖歌隊の紋章が入った服を身に付けていることを指摘されたが、連れ戻されるのを恐れて黙っていたら、それ以上は何も聞かずにいてくれた。
「聖歌隊なのに声を失ったとなれば、イヴァンも相当辛い思いをしたんだろうな。大丈夫、寂しい所だけど、君さえ良ければしばらくいるといい。滅多に人は来ないよ。それと──」
ヨハネスは少し考える様なそぶりをして、怪我が痛まないなら、ちょっと庭に出ないかと誘った。そういえば、森を歩いた時に枝や石でできた小さい傷まで、丁寧に手当てされている。
ヨハネスの片手にはハサミが握られていて、それは? と指差して首をかしげる。
「殺しはしないさ、」
聞こえた言葉に、息を呑んでヨハネスを見上げる。
彼は痛みを耐えるような、苦い笑顔を浮かべていたけれど、それはすぐわざとらしく神妙な表情に塗り潰されて、消えた。
「ただ──不細工にはなるかもしれないな?」
ヨハネスは庭の真ん中で椅子に腰掛け、不揃いに切り落とされた僕の髪を、肩より上で切りそろえてくれた。前髪も真っ直ぐに切り揃えられて、鏡を見て笑った僕に、ヨハネスは肩を震わせて僕よりも笑った。
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